3.鼓動
黄色く染まった楓の葉が、エリザと男性の間にはらはらと落ちていく。そのまま、地面の小さな水たまりに静かに浸る。
エリザは息を吸い込んだ。
わたしの家の 窓辺にも飾りましょう
あなたの家の 窓辺にも飾りましょう
……
エリザは思い切って、続きを歌ってみる。けれど、物思いに沈んでいるらしい男性の耳には響いていないようだ。
でも、もしかしたらさっきは本当に聞こえたのかもしれない。
銅像が歌うわけがないと思っている大人にはまず聞こえない。幼い子どもであっても、何か気がかりがあったりして、心が外へ開かれていないと耳には入らないようだ。
大半の人はいつも何かに心を捉われている。そこから自由なときにだけ届くらしい。
エリザの歌声が聞こえるには、他にも何か条件があるのかもしれない。
木の葉を叩くような音が始まった。湿った大気は、再び雨を交えていた。
「また降ってきたな」
男性は灰色の雲の漂う空を仰ぐ。
「帰ろう」
不意に彼は、エリザの方を向いた。
澄んだ泉のような青い瞳と一瞬出会う。
エリザはどきりとする。銅像を見ている観光客と視線が合うことはよくある。それなのに、こんなに恥ずかしく感じたのは初めてだ。
「天気がよければ、ここはもっといい展望台なんだろうな。また来るよ」
男性はそう話した。まるでエリザに言い聞かせるように。
彼は持っていた大きな鞄を頭の上へかざして雨をよけると、足早に去っていく。
エリザはその姿が消えてしまうまで、ずっと見入っていた。
心のどこかが疼くような感覚がした。
数日後の晴れた日、男性はまた現れた。この間は夕方だったので、朝早い時間に姿を見つけて、エリザは本当にあの彼なのかしばし疑った。
この間と変わらず、彼は町をゆっくりと見渡した。その静かな横顔を目にして、エリザはやはりこの間ここに来た人で間違いないと確信する。
小鳥の囀る声が、遠くの方から響いてくる。
そのとき、男性がこちらを向いた。エリザは目が合ったように感じて、またびくりとしてしまう。
「ここの眺めはいいな。朝の散歩にちょうどいい。また来ようかな」
一方的にそう話すと、去っていった。
彼は、エリザのところへ度々訪れるようになった。早朝にやってくるので、ほとんど他に誰か人がいることもなかった。
朝の光のなかで、彼が町を見下ろす様子をエリザは眺めた。柔らかな日を浴びて、彼の短い黒い髪や青い瞳が照り映えるのを窺い見る。そんなとき、胸のあたりがざわざわとするのが分かった。
こんな感覚は初めてだった。最初は不思議に思ったけれど、慣れてくるとどこか心地よく、華やいだ気持ちになった。
彼は、時折誰にともなく話した。エリザにはよく聞こえるところで。
名前がジェイということ。裏通りの商店街で靴屋をしていること。最初のとき夕方に来たのは、観光客に急に靴を頼まれ、鞄に入れて届けに行くところだったこと。そして、朝の散歩でここを通ると決めたこと。
エリザは、だんだんと彼のことを知るようになった。
彼女は、ジェイがここに来るのを楽しみに待つようになった。
今まで天気のことなんて全く考えたことがなかったのに、雨が降るのではないか、強い風が吹くのではないかと心配したりする。
秋もそろそろ終わる季節。彼が寒い思いをするのではと考えると、それだけでそわそわと落ち着かなくなった。
気にするようになったせいだろうか。以前に比べて、何となく寒暖の差が分かるようなときがある。頬に風が触れたり、飛んできた落ち葉が体に当たるのも感じることがあった。
そのことに戸惑い、時としてエリザは慌てて自ら感覚を閉ざした。遮ることで、また青銅の自分に戻ったりした。
けれども、どこか遠い記憶の底にあるものを思い出しているような気もする。おそるおそる味わってみることもあった。
ジェイの姿を見ると、胸のあたりがざわめく。
彼が自分の作っている靴の話をしているときには、心が跳ねるくらい楽しかった。
あるときエリザはふと、今ここで歌を歌えば、ジェイに聞こえるのではないかと思い至った。
息を吸い、歌おうとする。ジェイが初めて現れたときに歌った歌を。
春風のなか 丘を越えて 花々は……
しかし、何だか変に力が入ってしまう。
うまく声が出ない。
エリザの歌う声は、エリザ本人の心のありようによっても聞こえたり聞こえなかったりするのだ。
こんなに緊張しては、届かないに違いない。
そう思うのに、どうしても声が出てこない。
ジェイの姿を見つめる。
何か、どうにかして伝えられないかしら。
そう願ったら、胸のざわめきが増してきた。
それが心の内いっぱいに満たされる。すると、胸の奥でとくん、と音が聞こえた。
とくん、とくん。
それは規則正しく、次第に高まっていった。
季節は秋から冬へと変わり始める。
エリザは、ジェイの様子から北風が吹き、気温が低くなったことを知った。
ジェイの羽織るものも厚手のオリーブ色の外套になっている。
「今日も寒いなあ」
冷たい風に身を縮めて、ジェイが呟くことも増えていた。
彼の黒髪を風が揺らし、吐く息が白いのをエリザは目にする。
それでも変わらずに、ジェイは頻繁にここへやってきた。
ジェイはまるで打ち解けてきたかのように、エリザに向かってひと言ふた言話しかけてくることもあった。もっとも、普段はあまり喋らない人らしい。エリザからすれば、互いに黙って町の様子を眺めていることが多かった。
それが彼女には、一日のうちで一番和むひとときになっていた。
より一層寒さの厳しいある日、町を眺めていたジェイがそっと右手を伸ばした。
「雪だ」
その手に、白いものがぽつりと落ちる。エリザはジェイの体温で、雪がすぐに水滴に変わっていくのを見ていた。
本格的に雪が降るようになると、ジェイと会うのはだんだんと困難になった。
ジェイだけではない。エリザの立っているのは、高台の上。そこまでの道が凍りつくと、人が登って来ることはできなくなる。
なかなか会えなくなってしまった……。
エリザはいつの間にか、以前と同じように町を見下ろしながらも気が揉めてたまらなくなった。
彼女の立つ位置からはっきり見えるのは、町の中心地。裏通りに面するジェイの工房や住まいは一片も見当たらない。
暖かい日が続いてほしい。それで数日間雪が降らずにいれば、高台までの道もまた通れるようになるはず。
エリザはそんなことばかり望むようになった。
ジェイの姿を思い浮かべると、切ないような心細いような、覚束ない気持ちになった。
結局あれ以降も、のびやかに歌を歌えることはない。
時折胸のあたりがどきどきと音をたてるようになった。胸の辺りに熱を帯びたように感じることさえあって、エリザはひどく戸惑うのだった。
寒さがひととき緩み、高台までの雪が溶ける日が来た。また雪が降れば塞がってしまう道だが、エリザの期待していたとおり、ジェイが現れたのだ。
〈待っていたのよ〉
エリザは思わず大きな声を出したが、やはりジェイには聞こえない。
普段は誰にも声が伝わらないから、好きなように話していたというのに。通じないことがひどく物悲しく感じた。
ジェイは変わりなかった。
「久しぶりだね」
そうエリザに声をかけてから、周りを見渡した。
「少しは雪が溶けているみたいだな」
エリザはその声に耳を澄ます。すると、ジェイはこちらへ振り向いた。
「何だか、こんな季節だと寒く見えるよ」
寒く見えるって、何が?
エリザは心のなかで疑問を差し挟む。彼はエリザの様子には気づかないまま、近づいてくる。