2.聞こえる歌声
「えっ、歌?」
女の子は驚いたような声を出す。
エリザも思わぬ話に、耳をそばだてる。
「うん。この間学校で習った歌とか。エリザはいろいろ歌っているんだよ」
「何言ってるの。銅像が歌を歌うわけないでしょ」
女の子がからかい気味に話すが、男の子は真剣そうな表情をしていた。
「他の銅像は知らないけど、エリザは歌うよ。春の花の歌とかレーディル川の歌とか」
「もう、変なこと言ってないで、早く着なさい」
母親が少し強めの声で促したので、男の子はむっつりと黙って上着を受け取る。
三人の親子は、そのまま銅像のそばを離れていった。
夕暮れの鐘が鳴り、辺りはオレンジ色の光に包まれている。
エリザは誰もいなくなった高台で、小さな声で歌い出す。そのうち、晴れやかな気分になってきて、だんだんと声を高める。両手を広げて胸いっぱいに空気を吸う。
エリザはそのつもりだけれど、実際には銅像だ。本当に動いたりしているわけではない。
それでも、思いのままに歌う。
春風のなか 丘を越えて 花々は咲きそろうよ
わたしの家の 窓辺にも飾りましょう
……
歌い終えると、もう一つ同じように歌ってみる。
豊かな水 大地を潤すその流れ
遠くの山から 海へ向かって 旅をする
……
多分、最初のほうが春の花の歌で、あとのほうがレーディル川の歌なのね。
暮れゆく日差しが、高台の上の時計台と三角の家と自分の、それぞれの像の長い影を作っている。
エリザはそれをじっと見つめる。
エリザは信じられなかった。
自分の歌声が人に聞こえることがあるなんて。
翌日から、エリザは本当に自分の歌う声が人の耳に届くのか確かめることにした。
赤ん坊を抱いた女性がエリザのそばに座る。
銅像の建っている石の台座は、ちょうど小柄な人のひざ下くらいの高さがあるので、訪れる者がよく腰かけるのだ。
エリザはゆっくり優しく歌う。
豊かな水 大地を潤すその流れ……
すると、赤ん坊が何か聞こえているかのようにじっと耳を澄ました。
ふっくらした頬に大きな榛色の目をしている。その瞳が輝いて、口もとが緩んだ。「あーあー」と声を上げて足をばたばたさせる。
母親らしい女性には、歌声は全く響いていないようだ。
「あら、ご機嫌みたいね」
女性は微笑みを浮かべて、赤ん坊に話しかけた。
あるときは、エリザが歌い出すと、そばにいた幼い女の子が一緒に歌ってくれた。女の子はどこから聞こえてくるか分からないようだったが、楽しんで合わせてくれる。
エリザはわくわくと心が弾んだ。
あなたの家の 窓辺にも飾りましょう……
女の子と一緒に歌いながら、この次はどれにしようかなと考える。
この子の好きそうな歌って何かしら。
図らずも、女の子はにっこり笑うと話す。
「きれいな声ね」
エリザは嬉しくてたまらない。次の歌の最初の部分を歌い始める。
夜空の星の 輝きに……
しかし、ちらりと横を見て、その子のお兄さんには何も聞こえてないらしいと気づく。お兄さんは、女の子の言った言葉が何か分からないまま、促した。
「もうおうちに帰るよ」
「はーい」
兄のひと声で、女の子は歌うのを止めた。エリザはそのまま歌い続けるが、女の子は歌ったことを忘れてしまったかのように見えた。
そのまま兄の手を握って、一緒に帰っていく。
別の日に同じ女の子に会ったので、また歌いかけてみた。が、今度は全く聞き取っていないようだった。エリザは、少し大きな声で歌ってみるが、結局女の子が歌うことはなかった。
エリザの心はしゅんとしぼんでしまう。
秋が深まった。
エリザは毎年楽しみにしている秋のお祭りの日を楽しんだ。
この町の古くからの地母神である女神アリュイアを祭って、町のなかを行列が通る。収穫したものを並べ、色とりどりの花で飾られた山車を引いて、町の人たちが歌い踊りながら歩く。特に小さな子どもたちが着飾り、一生懸命練習した踊りを披露する姿が微笑ましく思う。
その日の賑やかさ、華やかさはエリザにも伝わってくるものだ。
しかし、それが終わると急に寒さが足音を立ててやってくる。風はますます冷たくなり、落葉樹の赤や黄色の葉が落ちていく。
そんな時期になって、エリザは自分の歌について、いくらかは結論を出していた。
歌ではなく自分の声だけでは全く聞こえない。大人や大きくなった子どもには、エリザの歌はあまり耳に入ることはないようだ。幼い子でも聞き取れるとはかぎらない。
さらに、聞こえる子でも、そうではないときがある。
最初に「エリザは歌を歌う」と言い出した男の子はまた現れたが、そのときは歌ってみても、何も分からないようだった。しかし、話からすれば、何度か耳に届いてはいるのだろう。
はっきりとは分からない。けれども、確かに自分の歌う声が人に聞こえることがある。そんなこと、今まで考えてもみなかった。
銅像のエリザ自身にも、不思議でならないことだった。
朝から雨の降る日、エリザは町を見下ろして、とんがり屋根がみな洗われていくのを眺めていた。
この町は、木組みの壁に傾斜のある三角の屋根の家が多く建ち並んでいる。高台からの眺望は、鮮やかな色をした屋根が続く。雨に濡れるとそれが一層きらきらと光って見える。
その合間を木々が生い茂り、時計台の赤い屋根や教会の青い塔があり、大きな石造りの公共の建物が聳えている。
町の中心を外れたところには、小高い丘がいくつも連なり、季節ごとに様々な種類の草花を栽培している。
少し前まで、赤、オレンジ、黄色の花々を咲かせている金蓮花や、白、薄いピンク、濃いピンク、オレンジ、黄色のコスモスの花などがはるか遠くまで咲き、美しい絨毯のように丘を覆っていたものだ。
人々の話からすると、この町の向こうにはレーディル川が流れており、対岸には大きな町がいくつかあって、更に先には都市もあるという。
そのすべてを覆う空は今は鉛色で、雨がぽつりぽつりと降りてきている。
きっと冷たい雨なのね。
手を伸ばして、エリザは雨粒に触れようとする。自分でそうした動作をしているつもりでも、実際にはできない。自分の青銅の腕を意識することになってしまう。できたところで、温かさや冷たさを感じることもない。
それでも、人々の様子や最近の季節から冷たい感覚を想像してみた。
夕暮れの時計台の鐘も、心なしか鈍く響いて聞こえた。
辺りは暗くなり始めるころだが、低い雲間から日の光が一瞬覗く。やっと雨が止んだようだ。
人通りもなく、エリザは歌を歌い出す。
のびやかに、ただ自分のためだけに口ずさむ。
春風のなか 丘を越えて 花々は咲きそろうよ
わたしの家の 窓辺にも飾りましょう……
そのとき、足音が聞こえてきた。見ると、一人の男性が高台を上がってくるところだった。
今日はもう誰も来ないかと思っていた。
エリザは歌を止めて様子を窺う。
「雨の町か……」
男性は、簡素な作業着に薄茶色の上着を着込み、大きな紺色の鞄を手にしている。そのままエリザのそばを通り、高台から町を見下ろす。
二十代半ばくらいの年齢だろうか。やや細身で、黒い髪に青い色の瞳をした人だった。
「いい眺めだな。町が遠くまでよく見える」
男の人は穏やかな声で、ひとり言のように話す。
「何だか歌が聞こえてきた気がして、つい寄ってみたけど」
その言葉に、エリザははっとする。
「誰もいないな」
彼は辺りを見回して小声で呟くと、町をしばらく眺めている。
この人には、わたしの歌が聞こえたみたい。
エリザはその人に目を注ぐ。横顔はどこか寂しそうに見えた。