12.駆けていくエリザ
そのとき、足音が聞こえてきた。
これだけ早い時刻に人が訪れるのは、稀なこと。ゆっくりと高台へ上がってきたのは、一人の小柄な老女だった。
毎年避暑にやってくる一家の世話をしていた女性だとエリザも知っている。数年前に仕事はやめたと聞いているが。
朝のローデンセスの町は、さわやかに晴れ渡っている。
「久しぶりに奥様に会おうと思ったら、この町も眺めてみたくなってね」
老女は深いしわのある顔でほっと一息つくと、感慨深げに町を見下ろした。
早朝の空気は清々しい。
しばらくしてから老女は振り返り、エリザの足もとに気づいた。
「まあ、ローデンシーの切り花がこんなところに置かれているわ。花売りか誰かが落としてしまったのかしら」
そう呟いて、二輪の花に手を伸ばす。
「このままでは枯れてしまうわ。奥様もこんなにきれいなお花なら、喜んでくれそうね。持って行って飾りましょう」
老女は丁寧に花を拾い上げた。
きっと花売り以上にローデンシーの花を愛でてくれるだろう。
目を細めて、老女は花たちを嬉しそうに見つめる。
「確かローデンシーの花言葉は『愛する人のもとへ』だったものね。ちょうどいいわ」
そう語り、静かに歩み出す。
『愛する人のもとへ』
エリザはその言葉を噛みしめる。初めて聞いた花言葉は、エリザの心に揺るぎないものを贈ってくれた。もしかすると、老女の口を借りて、女神が伝えてくれたのかもしれない。
〈さようなら。わたしと一緒にいてくれてありがとう〉
エリザは花たちに伝えた。
〈さようなら、エリザ。ありがとう〉
〈さようなら、エリザ。幸せになってね〉
透き通った声が、風のなかへ響いていく。
二輪の花は、エリザのもとから去っていった。
見送ったエリザは、『ローデンセスの町・乙女と二輪の花の像』と書いてあるはずのプレートをふと目にした。
それはいつの間にか『ローデンセスの町・乙女の像』に変わっていた。
エリザは、春の終わりの暖かな光を感じる。今日もよい天気になりそうだ。
遠くから小鳥の囀りが聞こえてくる。柔らかな風に、木の葉がさわさわと音をたてる。エリザの足のそばを、小さなバッタが跳ねた。
途端に、何か予感がした。
今日は来てくれるに違いない。
エリザは歌を歌った。誰にも伝わることのない歌を。
春風のなか 丘を越えて 花たちは咲きそろうよ
わたしの家の 窓辺にも飾りましょう
あなたの家の 窓辺にも飾りましょう
きっと 幸せが訪ねてくる
この白く清らかな 花を見つけて
わたしが変わったときには、歌も声も伝わる。
エリザのなかの無意識の伝えたい想いが、秋のころに「聞こえる歌」になったのかもしれない。
そのせいか、伝えようと意識しすぎれば、かえって聞こえなかったのだろう。そして、様々な感覚が備わり、人に近づくにつれ、入れ替わるようにまた聞こえないものに変化した気がする。
これからは人間に戻って、歌だけではなく声を、想いを伝えよう。
そのとき、こちらへやってくる人があった。
〈ジェイ〉
エリザはその人の名を呼んだ。予感は当たった。
ジェイの表情は晴れやかと言えるほどではない。けれど、まだ諦めていないと思った。そんな面差しをしている。
「白い猫をこの辺りで見かけたという人がいたんだ。きっとルトだよ。ぼくももう一度探してみようと思って」
やはり花たちが言ったとおりだった。
「この町にいられたらって、まだ思っているんだよ」
ジェイはエリザにそう話しかけて、眩しそうに町を見はるかす。
ジェイもわたしと同じようにこのローデンセスの町を愛しているし、この町の人たちと一緒に暮らしたいと思っている。
花たちと老女の言葉が甦る。
「ジェイはあなたと魂の響きがよく似ている」
「確かローデンシーの花言葉は『愛する人のもとへ』だったものね。ちょうどいいわ」
わたしは必ず近いうちに人間になって、ジェイのもとへ行けるようになってみせるわ。
エリザのなかから力が湧き起こる。
すべての音を聞き、目にし、今ではいろんな感覚も人と同じように味わっている。過去のことも思い出して、そのときの感情も知っていれば、今ジェイを愛しているこの感情も本物だ。
まだ変化を惑う気持ちもあるかもしれない。だけどもう決めた。花たちも去っていった。
少しずつ少しずつ勇気をためて、心から願い、きっと人間になり変わろう。
ジェイの横顔を見つめながら、エリザは思う。
やがて、ジェイはこちらへ向き直った。
「また来るよ。今度はルトと一緒だといいな」
〈ジェイ。頑張ってね。きっと見つかるわ〉
エリザは心を込めて伝えてみる。
「何だかやっぱり、きみは栗色の髪と紫色の瞳をしていそうだな。それに僕を励ましてくれたみたいに感じるよ」
ジェイはそう話して、穏やかな笑顔を見せると、帰っていった。
エリザはジェイの姿が見えなくなるまで見届ける。
大丈夫。きっと、近いうちにジェイは猫を見つけるわ。わたしは、必ず人間に戻ってみせるわ。
エリザは力強く自分に言い聞かせる。
そのとき、ふと何か鳴き声がした。
「みい」という声。白い猫が木々の間から姿を見せた。
〈あの猫は……!〉
間違いなく、ジェイの飼っていた猫だ。
〈ジェイ、ここにルトがいるわ〉
エリザは叫ぶが、もうジェイは高台を下りている。
〈せっかくここに来たのに、ジェイは気づかないわ。どうしよう〉
エリザは何とかジェイに伝えたかった。仔猫はそのまま近寄ってくる。
〈ジェイがやってくるまでここにいて〉
エリザは猫に話しかける。白い猫はそんなエリザの言葉が通じたのか、エリザの台座へ跳び上がった。
〈ルト。お願い、ここにとどまっていて〉
しかし、猫はその場をうろうろしているだけだ。そのうち何かを見つけたのか、台座を下りようとする。
〈待って〉
エリザは咄嗟に手を伸ばす。頭が揺れて、周りの景色が流れる。背中が曲がるのが分かった。
体が動く。動いている。
いつの間にか、エリザは白い猫を抱きかかえていた。柔らかい温かな毛並みが両手のなかにある。
「ジェイ、ルトはここよ」
エリザはそう声を出すと、なすべきことに思いを馳せる。台座から下りる。
ローデンセスの大地にしっかりと足をつける。栗色の髪を風に揺らし、紫色の瞳を真っすぐ前へ向ける。
ジェイが歩いていった先へ。
これまで見送ることしかできなかった背中を。その姿を、一度たりとも追うことはできなかったけれど、今はもう違う。
猫を抱えたまま、萌黄色のワンピースの裾を翻す。
エリザの足は軽やかに動き出す。
台座のプレートは『ローデンセスの町の像』に変わったが、駆け出したエリザは振り返らない。
エリザは走る。
高台から猫を抱えて下りていく。灌木の茂みの開けたところで、遠くの家の片隅に一瞬ジェイの姿が映る。
「ジェイ」
恋い慕う人の名を呼ぶ。
エリザは家々の建ち並ぶなかへ駆け下りた。高い所から目にするより、周囲を把握できない。
どこでジェイを見つけただろう。
迷うが、深く呼吸をして、ゆっくりと辺りを見渡す。
女神様はきっと力を貸してくださっている。
数百年の町の俯瞰と重ね合わせる。記憶のなかにローデンセスの町は深く刻まれている。どのあたりか自然と見当がついた。
きっとこっちだわ。
エリザは確かな導きを得ている。猫を抱え直して、進んでいく。
ジェイの後ろ姿を見つけた。
「ジェイ」
その声にジェイが振り返る。
ジェイの青い澄んだ瞳が見開かれる。そこには人間のエリザの姿が映っているはず。
猫を抱えたエリザと、ジェイは見つめ合う。
二人は互いへ向かって駆けていく。
ローデンセスは、ローデンシーの花が咲き誇る町。
その時計台の鐘は朝昼夕と、いつも荘厳に鳴り響く。
教会の鐘が高らかに鳴ることもある。
これは、のちに町の人々に祝福されて愛しい人と結婚式を挙げた娘の、ひとつの物語。
汐の音様よりいただきました
最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。