11.涙の雫
二輪の花は自分が手に持っている。けれども、手の力加減さえよく知らない。
エリザは、美しい彩りで香りを放つローデンシーの花たちに尋ねる。
〈どうやって? どうしたら右手を動かせるの?〉
〈あなたが願えば動かせるわ〉
花たちが答えた。
分からない。エリザは右手に意識を持ってこようとするが、余計に硬く強ばった気がするだけだ。
〈どうすればいいの。うまくできないわ〉
気ばかりが先走る。このままでは、何もできずに花売りが行ってしまう。
〈大丈夫。怖がらないで〉
怖がる?
エリザははっとした。
そう、確かにわたしは怖がっているかもしれない。初めて現実の世界で動こうとしている。そして、数百年もの間一緒にいた花たちと別れようとしている。
〈寂しくなるわ〉
エリザは思わず呟いた。
〈大丈夫。エリザにはちゃんと素敵な人がいるんだから〉
〈えっ〉
エリザはどきりとして、右手に力が入った。彼女の手は開く。次の瞬間、花がすうっと抜けるのが分かった。
〈さようなら、エリザ〉
〈さようなら、元気でね〉
二輪の花が下へ落ちようとしている。
〈待って〉
急な別れに、エリザは思わず右手を差し伸べる。一瞬花に触れる。花は少し角度を変えてそのまま落ちていく。
やや方向が変わったので、花売りの籠の端に当たり、二輪とも跳ね返ってしまう。籠の外へ落下してしまった。
あっ、とエリザは叫んだ。
花売りは何も気づかない。声は届かない。何もできない。
やがて花売りはそのまま花籠を抱えると、去っていった。
〈そんな……〉
取り返しのつかないことをしてしまった。
エリザは言葉を失くす。
二輪のローデンシーの花は、エリザの台座に落ちていた。草の生えた場所だったので、花に傷がつくことはなかった。けれど、もう花売りは戻ってはこない。
〈ああ、どうしよう〉
エリザの声に、微かな風のような答えが返ってきた。
〈大丈夫よ。明日花売りが来たら、きっと気づいてくれるから。不思議ね、エリザと離れていてもまだ伝わるのね〉
今ではエリザは銅像でも、二輪の花は繋がった同じものではなかった。
女神の力が働きかけているのだろうか。花たちとまだ言葉を交わせるとは、エリザにとっても意外なことだった。
待ちに待った翌日は、春の終わりにしても日照りが強かった。太陽が空高く昇るにつれ、エリザの体も火照るのが分かった。
〈暑いのでは……〉
思わず、台座の下の二輪の花に話しかける。
昨夜の夢のなかでは「明日を待ちましょう」と話し合い、生きた花のために休息をとることに決めた。それなのに、花たちは朝になっても何も伝えてこない。
心配になったエリザは、もう一度声をかける。
〈暑くない? 大丈夫なの?〉
不安は的中していた。
〈……そうね。少し春から遠ざかってしまったかもしれないわ〉
〈……今日はまるで夏のようね〉
二輪の花の弱々しい声に、エリザは足もとをよく確かめる。
呆然とする。
花たちは瑞々しさを失い、しぼみかけていた。
もうローデンシーの花たちは、青銅でできていない。生きている草花なのだ。
〈大変。早く水を……!〉
一体どうすると水を持ってくることができるのだろう。
銅像のエリザには、水を持ってくる手段がない。昨日右手をほんの少し動かせたけれど、それさえどうしたかが分からない。エリザは何度も体を動かそうと試みたが、全くの無駄だった。
花売りがやってくるのを待つしかない。
しかし、今日に限って高台へ登るには暑く、訪れる人もまばらだった。籠を手にした花売りも、行先を変えている恐れがある。
その日が暮れるまで、とうとう花売りはやってこなかった。
藍色に染まった町にランプやろうそくの明かりが灯る。
夜が更けて、それさえ消えてしまうと、暗闇のなかでは様子が分からず、エリザは幾度か花に声をかけた。しかし、夢のなかでさえ声を聞くことはできない。
ただ星に祈るしかなかった。
時計台の朝の鐘が鳴って、エリザはうつらうつらしていた眠りから覚める。すぐに足もとに目を凝らした。
明け初めた眩しい朝日のなかで、ローデンシーの二輪の花は、完全にしおれていた。
きれいに開いていたはずの花びらは歪な形に閉じかけ、色はくすんでいた。茎や葉も水分を失い、黒っぽく変色してだらりと垂れている。
〈今日には花売りが来るわ。しっかりして!〉
エリザは動揺しながらも励ます。すると、二輪の花は聞こえるか聞こえないかの微かな声を出した。
〈ありがとう、エリザ。でも、もう花売りが来てもわたしたちには見向きもしないかもしれない。もうしおれているから、持っていかないと思うわ〉
〈そんな。飾ってもらって、人を楽しませたいって言ってたじゃないの〉
エリザは言い募る。
〈もういいのよ、エリザ〉
〈そんなこと言わないで。しっかりして。それとも、もう……辛いの?〉
案じると、二輪の花たちが少しだけ笑いかけてくれたように思った。
〈辛くも苦しくもないのよ。心配してくれて、ありがとう。わたしたちはただ自然に還っていくから、ゆっくり眠っていくだけなの。安心して〉
〈でも……どこにも飾ってもらえなかったじゃないの〉
エリザの声は震えた。しかし、花たちは安心させるように話す。
〈生き返って、この町を感じて、今は大地に触れることもできた。それだけでもよかったの〉
〈そうよ。ずっとエリザを見守ることはできたから。最後は生きた花としてわずかでも過ごせたらよかったの。それに遠い昔には、エリザが少しの間、わたしたちを飾って楽しんでくれたでしょ。それで充分よ〉
〈そんな。わたしが花瓶から放り投げてしまったのに〉
すべては自分が招いてしまったことなのだ。
エリザの心は焼かれるように激しく痛む。
本来なら、昔の自分がこの二輪の花を飾って愛しむべきだった。花瓶ごと床に投げつけてしまうとは、何と酷いことをしてしまったのだろう。
〈でも、エリザはそのことを心から気にかけてくれた。それが女神様にも通じたのよ。だから、わたしたちはエリザと一緒にいることにしたの。それで充分楽しかったのよ。ありがとう、エリザ〉
〈エリザはとても優しかったわ。ありがとう。どうか勇気を出して。幸せになってね〉
花たちの思いに、エリザは胸が詰まる。
〈どうして。どうして、わたしだけが幸せになれるというの。優しかったなんて、言わないで。わたしを責めればいいのに〉
エリザは言葉をぶつける。
〈あなたたちだって、願いを叶えなければだめよ!〉
エリザの胸は塞がれたようになり、目もとに何か熱いものを感じた。
エリザの目から涙があふれる。
夜の眠りのなかではなく、朝のローデンセスの町で。
エリザは銅像でありながら、涙を流していた。
〈エリザ……〉
二輪の花が呼びかける。エリザの真珠のような涙が一粒、二粒、しおれた花に零れ落ちていく。
すると、ローデンシーの花は、花びらをふわりと持ち上げ、色鮮やかに美しく開いた。葉や茎は瑞々しく透き通るような緑の色合いに変化する。
二輪の花は、今や活気に満ちて、さわやかな香気を放つ切り花だった。
〈えっ〉
エリザは思わず声を上げた。
〈エリザ。あなたのなかの女神様の力は、わたしたちにもまだ伝わるのね。ほら、元気になったわ〉
銅像のはずのエリザの涙は、そのたった数滴の雫は、花たちを甦らせたのだ。
〈よかった。本当によかったわ。これで花売りが来たら、きっと大丈夫ね〉
エリザはほっとして、頬を伝う涙を手で拭う。
〈あれ、右手が動く?〉
驚いたエリザは、また右手が元の位置に戻って、硬くなるのを感じた。すでに花を持っていないので、不自然でない程度にわずかに開かれた形に。
それでも、ほんの一瞬動いたのは明らかだった。
〈わたしたちを生き返らせてくれて、ありがとう。エリザも、あと一歩で人間に戻るのよ〉
〈でも、わたしひとりで、本当に人間になることができるのかしら〉
エリザはためらう。
〈大丈夫よ。あなたはもう過去のあなたではないもの。心の傷が癒えたら、人間に戻れるのよ。これまでだって、戻りたいと思うたびに人間に近づいていったでしょう。右手も少し動かせたし。願えば戻れる日がきっと来るわ〉
〈あなたには愛する人がいるもの。もう銅像でいる必要はないでしょう。心から願うだけでいいのよ〉
花たちはエリザを見上げるようにして語りかけた。
〈本当にそれだけでいいの……?〉
エリザは疑問を口にする。
〈焦らなくていいのよ。傷ついた心からやっと解放されたばかりだもの。まだエリザは変化に戸惑っている。その気持ちが残っているだけなの。だから心から願って、人間になれる日が必ずやってくるわ〉
昔の思い出は、これまで町の人たちに少しずつ溶かされ、薄れていった。今はすべて思い出しても、ジェイの存在で霞のようになっている。何も感じなくなってしまいたいという傷ついた心は、癒されている。
今はもう臆することなく、ジェイのもとへ一歩を踏み出すとき。
〈勇気を出して〉
花たちの言葉に。エリザはええ、と返事をした。