表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/12

11.涙の雫

 二輪の花は自分が手に持っている。けれども、手の力加減さえよく知らない。

 エリザは、美しい彩りで香りを放つローデンシーの花たちに尋ねる。


〈どうやって? どうしたら右手を動かせるの?〉

〈あなたが願えば動かせるわ〉


 花たちが答えた。

 分からない。エリザは右手に意識を持ってこようとするが、余計に硬く強ばった気がするだけだ。


〈どうすればいいの。うまくできないわ〉


 気ばかりが先走る。このままでは、何もできずに花売りが行ってしまう。


〈大丈夫。怖がらないで〉


 怖がる?


 エリザははっとした。

 そう、確かにわたしは怖がっているかもしれない。初めて現実の世界で動こうとしている。そして、数百年もの間一緒にいた花たちと別れようとしている。


〈寂しくなるわ〉


 エリザは思わず呟いた。


〈大丈夫。エリザにはちゃんと素敵な人がいるんだから〉

〈えっ〉


 エリザはどきりとして、右手に力が入った。彼女の手は開く。次の瞬間、花がすうっと抜けるのが分かった。


〈さようなら、エリザ〉

〈さようなら、元気でね〉


 二輪の花が下へ落ちようとしている。


〈待って〉


 急な別れに、エリザは思わず右手を差し伸べる。一瞬花に触れる。花は少し角度を変えてそのまま落ちていく。


 やや方向が変わったので、花売りの籠の端に当たり、二輪とも跳ね返ってしまう。籠の外へ落下してしまった。

 あっ、とエリザは叫んだ。

 花売りは何も気づかない。声は届かない。何もできない。


 やがて花売りはそのまま花籠を抱えると、去っていった。


〈そんな……〉


 取り返しのつかないことをしてしまった。

 エリザは言葉を失くす。


 二輪のローデンシーの花は、エリザの台座に落ちていた。草の生えた場所だったので、花に傷がつくことはなかった。けれど、もう花売りは戻ってはこない。


〈ああ、どうしよう〉


 エリザの声に、微かな風のような答えが返ってきた。


〈大丈夫よ。明日花売りが来たら、きっと気づいてくれるから。不思議ね、エリザと離れていてもまだ伝わるのね〉


 今ではエリザは銅像でも、二輪の花は繋がった同じものではなかった。

 女神の力が働きかけているのだろうか。花たちとまだ言葉を交わせるとは、エリザにとっても意外なことだった。




 待ちに待った翌日は、春の終わりにしても日照りが強かった。太陽が空高く昇るにつれ、エリザの体も火照るのが分かった。


〈暑いのでは……〉


 思わず、台座の下の二輪の花に話しかける。


 昨夜の夢のなかでは「明日を待ちましょう」と話し合い、生きた花のために休息をとることに決めた。それなのに、花たちは朝になっても何も伝えてこない。


 心配になったエリザは、もう一度声をかける。


〈暑くない? 大丈夫なの?〉


 不安は的中していた。


〈……そうね。少し春から遠ざかってしまったかもしれないわ〉

〈……今日はまるで夏のようね〉


 二輪の花の弱々しい声に、エリザは足もとをよく確かめる。


 呆然とする。

 花たちは瑞々しさを失い、しぼみかけていた。

 もうローデンシーの花たちは、青銅でできていない。生きている草花なのだ。


〈大変。早く水を……!〉


 一体どうすると水を持ってくることができるのだろう。

 銅像のエリザには、水を持ってくる手段がない。昨日右手をほんの少し動かせたけれど、それさえどうしたかが分からない。エリザは何度も体を動かそうと試みたが、全くの無駄だった。


 花売りがやってくるのを待つしかない。

 しかし、今日に限って高台へ登るには暑く、訪れる人もまばらだった。籠を手にした花売りも、行先を変えている恐れがある。


 その日が暮れるまで、とうとう花売りはやってこなかった。

 



 藍色に染まった町にランプやろうそくの明かりが灯る。

 夜が更けて、それさえ消えてしまうと、暗闇のなかでは様子が分からず、エリザは幾度か花に声をかけた。しかし、夢のなかでさえ声を聞くことはできない。

 ただ星に祈るしかなかった。


 時計台の朝の鐘が鳴って、エリザはうつらうつらしていた眠りから覚める。すぐに足もとに目を凝らした。


 明け初めた眩しい朝日のなかで、ローデンシーの二輪の花は、完全にしおれていた。

 きれいに開いていたはずの花びらは歪な形に閉じかけ、色はくすんでいた。茎や葉も水分を失い、黒っぽく変色してだらりと垂れている。


〈今日には花売りが来るわ。しっかりして!〉


 エリザは動揺しながらも励ます。すると、二輪の花は聞こえるか聞こえないかの微かな声を出した。


〈ありがとう、エリザ。でも、もう花売りが来てもわたしたちには見向きもしないかもしれない。もうしおれているから、持っていかないと思うわ〉

〈そんな。飾ってもらって、人を楽しませたいって言ってたじゃないの〉


 エリザは言い募る。


〈もういいのよ、エリザ〉

〈そんなこと言わないで。しっかりして。それとも、もう……辛いの?〉


 案じると、二輪の花たちが少しだけ笑いかけてくれたように思った。


〈辛くも苦しくもないのよ。心配してくれて、ありがとう。わたしたちはただ自然に還っていくから、ゆっくり眠っていくだけなの。安心して〉

〈でも……どこにも飾ってもらえなかったじゃないの〉


 エリザの声は震えた。しかし、花たちは安心させるように話す。


〈生き返って、この町を感じて、今は大地に触れることもできた。それだけでもよかったの〉

〈そうよ。ずっとエリザを見守ることはできたから。最後は生きた花としてわずかでも過ごせたらよかったの。それに遠い昔には、エリザが少しの間、わたしたちを飾って楽しんでくれたでしょ。それで充分よ〉

〈そんな。わたしが花瓶から放り投げてしまったのに〉


 すべては自分が招いてしまったことなのだ。

 エリザの心は焼かれるように激しく痛む。


 本来なら、昔の自分がこの二輪の花を飾って愛しむべきだった。花瓶ごと床に投げつけてしまうとは、何と酷いことをしてしまったのだろう。


〈でも、エリザはそのことを心から気にかけてくれた。それが女神様にも通じたのよ。だから、わたしたちはエリザと一緒にいることにしたの。それで充分楽しかったのよ。ありがとう、エリザ〉

〈エリザはとても優しかったわ。ありがとう。どうか勇気を出して。幸せになってね〉


 花たちの思いに、エリザは胸が詰まる。


〈どうして。どうして、わたしだけが幸せになれるというの。優しかったなんて、言わないで。わたしを責めればいいのに〉


 エリザは言葉をぶつける。


〈あなたたちだって、願いを叶えなければだめよ!〉


 エリザの胸は塞がれたようになり、目もとに何か熱いものを感じた。


 エリザの目から涙があふれる。

 夜の眠りのなかではなく、朝のローデンセスの町で。

 エリザは銅像でありながら、涙を流していた。


〈エリザ……〉


 二輪の花が呼びかける。エリザの真珠のような涙が一粒、二粒、しおれた花に零れ落ちていく。

 すると、ローデンシーの花は、花びらをふわりと持ち上げ、色鮮やかに美しく開いた。葉や茎は瑞々しく透き通るような緑の色合いに変化する。

 二輪の花は、今や活気に満ちて、さわやかな香気を放つ切り花だった。


〈えっ〉


 エリザは思わず声を上げた。


〈エリザ。あなたのなかの女神様の力は、わたしたちにもまだ伝わるのね。ほら、元気になったわ〉


 銅像のはずのエリザの涙は、そのたった数滴の雫は、花たちを甦らせたのだ。


〈よかった。本当によかったわ。これで花売りが来たら、きっと大丈夫ね〉


 エリザはほっとして、頬を伝う涙を手で拭う。


〈あれ、右手が動く?〉


 驚いたエリザは、また右手が元の位置に戻って、硬くなるのを感じた。すでに花を持っていないので、不自然でない程度にわずかに開かれた形に。

 それでも、ほんの一瞬動いたのは明らかだった。


〈わたしたちを生き返らせてくれて、ありがとう。エリザも、あと一歩で人間に戻るのよ〉

〈でも、わたしひとりで、本当に人間になることができるのかしら〉


 エリザはためらう。


〈大丈夫よ。あなたはもう過去のあなたではないもの。心の傷が癒えたら、人間に戻れるのよ。これまでだって、戻りたいと思うたびに人間に近づいていったでしょう。右手も少し動かせたし。願えば戻れる日がきっと来るわ〉

〈あなたには愛する人がいるもの。もう銅像でいる必要はないでしょう。心から願うだけでいいのよ〉


 花たちはエリザを見上げるようにして語りかけた。


〈本当にそれだけでいいの……?〉


 エリザは疑問を口にする。


〈焦らなくていいのよ。傷ついた心からやっと解放されたばかりだもの。まだエリザは変化に戸惑っている。その気持ちが残っているだけなの。だから心から願って、人間になれる日が必ずやってくるわ〉


 昔の思い出は、これまで町の人たちに少しずつ溶かされ、薄れていった。今はすべて思い出しても、ジェイの存在で霞のようになっている。何も感じなくなってしまいたいという傷ついた心は、癒されている。

 今はもう臆することなく、ジェイのもとへ一歩を踏み出すとき。


〈勇気を出して〉


 花たちの言葉に。エリザはええ、と返事をした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ