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10.生き返る花たち

「エリザ」


 名を囁く声が聞こえた。

 夢のなかなのだろう。美しく可憐な花が二輪、揺れている。


「記憶を取り戻したのね。辛かったでしょう」


 話しかけてくるのが、自分がかつて花瓶ごと投げた花だと、エリザはもう知っている。


「ええ。思い出したら、本当に苦しいわ。辛くてまた何も感じなくなってしまいたい。でも」


 エリザは胸がつかえてきて、息を整える。


「でも、一度は花瓶を投げたわたしのために、あなたたちはずっと一緒にいてくれたのね。ありがとう」


 やっとそう話す。二輪の花は優しく彼女の手もとで揺らぐ。


「元気になってほしいの。わたしたちを最後に思いやってくれたエリザに」


 エリザは儚げな笑みを浮かべた。


「そうね。長い間見守っていてくれたものね……。立ち直らなくては……ね」


 栗色の髪を手で払い、目尻を拭う。

 夢のなかでは人間だから、涙も浮かんでくるのだと彼女は気づく。


 少し前までは夢を見ることさえなかったのに。今では、夢のなかで人間に戻っている。

 自分は思ったより、銅像ではなくなってしまっている。この数百年をかけて少しずつ。この秋からは大きく、確実に。

 人間に近づいている。


「エリザ」

「エリザ。どうか元気を出して」


 二輪の花の慰めに、エリザは頷いてみせる。


 少しの間俯いて、エリザは自分の心を整理する。


「……あの人はもう何百年も昔の人で、あの出来事もずっと前のことよね。わたしは長い間銅像で、この町を見てきて楽しかった。あなたたちがいてくれて、本当に心強かった。嬉しかったわ」


 銅像としての歳月は、彼女の痛ましい思い出を確かに溶かしている。


 心を一枚の絵にたとえるのなら、あの遠い日の悲しみは、彼方のぼんやりとした背景の一部に過ぎない。前面にくっきりと描かれているのは、今のローデンセスの町の人々の笑顔。美しい町の景観。

 それに。


「悲しい出来事のあとにさまざまなことに出会ったから、もう悲しんでばかりいられないわね」


 エリザの言葉に、花々が頷くように揺れる。

 エリザは自分の胸にじわりと温かさを感じる。


「それに、わたしはジェイと出会った……」


 今、甦る思い出は、ジェイと過ごした穏やかな時間。心躍るような幸福な気持ち。

 そのひとつひとつが、エリザにとっては宝石のように輝いている大切なもの。


 二輪の花は微笑みかけているようだ。


「そうよ、エリザ。あなたの心が変わったから、人間に近づいたの。あなたが人としての自分を望めば望むほど、人間らしい感覚を持てたのでしょうね。もう銅像には戻らないと思っているでしょう?」

「エリザ、女神様はあなたの時を一旦は止めた。それは人として幸せになってほしいからよ。人間に戻るときが来たのよ」


 人間に戻りたいとエリザは心から願ったのだ。人間になって、ジェイに会いたいと。


 これまでの数百年、最初は何も感じないただの銅像だった。そこから少しずつ町を眺め、音を聞けるようになり、楽しんで過ごしてきた。幸せだった。それがずっと続いてほしい気持ちでいた。

 だけど、別の幸せを見つけたのかもしれない。そちらへ向かって、歩き出したいと思う。

 でも。


「でも、やっぱり怖いわ」


 エリザは、今度は自分の体が冷たく震えるのを感じる。


「ジェイは猫がいなくなって、大きな町へ行ってお嫁さんをもらうことを考えているもの」


「大丈夫よ、エリザ。猫はこの近くにいる。きっとここへ来るから、勇気を出して」

「猫がいるの?」


 思わず問いかける。


「そうよ。この辺りにあの白い猫はいる。すぐに見つかるはず」

「本当に?」


 エリザは驚いて紫色の瞳を見開く。

 猫がいると聞いて、どこか複雑な思いがした。


「わたしたちは人間とは違う感覚を持っているから、分かることがあるの。大地の女神様の力もいただいているのよ」

「だけど、ジェイはわたしのことをどう思うか分からないわ。もしもジェイがあの人と同じように……」


 言葉を口にしたら、エリザは急に不安に襲われる。


 あの人のことはもう、名前で呼ぶ気持ちさえ、ないのだけれど。

 あの人と同じように、ジェイもわたしの前から立ち去ってしまうかも……。


「大丈夫よ」

「きっとうまくいくと思うわ」


 二輪の花は、くすくすと笑うかのように声を上げた。


「ジェイは特別よ。あの人とは全く違うでしょう?」

 

 ジェイはあの人とは違う。それは確信が持てた。


 あの人は、いつも富と権力の話ばかりしていた。いつも自信たっぷりに、自分のことや自分の家柄のことを話していた。

 わたしは、そんなあの人に愛されていることに夢心地でいた。


 けれど今は、浮かれた気持ちばかりの昔の自分とは別のつもり。 

 恋い慕う想いも、あの人とジェイとでは、まるで違うはず。


 ジェイは本当に変な人だと思う。靴のことばかり夢中で話して、銅像なんかに話しかけて。

 大人なのに、わたしの歌声を聞くことができたおかしな人だ。

 だけど、そんなジェイがとても好き。ジェイと一緒にいたい。


 エリザの様子を見て、花たちは優しく言葉を足す。


「言ったでしょう、ジェイは魂の響きがあなたと同じようだって」


 確かに、前にそんなことを聞いた。花たちは続ける。


「誰でもあなたの歌を聞けるわけじゃないし、姿を感じられるわけじゃないわ。あなたの心に共鳴できる人だからこそ、あなたの本当の姿を見ることができたのに違いないのよ」


 そういえば、ジェイは銅像のエリザに似た人がいたら、と話していた。

 わたしの歌声を耳にしてくれた人も何人かいる。だけど、ジェイはそれだけじゃない。

 ジェイの青い瞳は、人間のわたしの姿を見つけ出してくれた。


 ジェイ……!


 この声が、聞こえないと知っていても、何度でも呼びかけてしまう。


「エリザは自分で分かっているでしょう」


 花たちの囁く言葉に、エリザはこくんと頷いた。


 ジェイはわたしに向き合って、理解してくれる人だ。

 人間として、きっとジェイに会おう。


 エリザの決意を感じたのか、花たちは告げた。


「わたしたちももう、もとの生きた花に戻るって決めたの」

「戻れるの?」


 エリザにはまだ信じられなかった。

 二輪の花は、夢のなかで色合いや質感が変わっても、現実ではいつも銅像の一部に戻ってしまう。本当に生きた切り花に戻れるのだろうか。


「もう準備はできているの。ほら、もうすぐ花売りがここへやってくるわ」

「花売りの籠へわたしたちは入り込むのよ」

「花売りの、籠……?」


 このところ天候にも恵まれ、連日のように花売りが通りかかる。

 花売りの娘はよく銅像の下の台座に腰かける。花いっぱいのその籠へ、二輪のローデンシーの花が入っていても、全く違和感はないに違いない。

 花売りはきっと他の草花と一緒に、この花たちを丁重に扱うだろう。


「わたしたちは、普通の花に戻ったら、きれいに飾ってもらうのが夢なの。どの花でも同じ想いを持っているものよ。花を飾って愛でてもらえるのが一番の幸せ。エリザも人間になれると分かったから、もう行くわ。そろそろお別れするわね」

「そんな。急じゃないの」


 エリザは驚いたが、花たちの気持ちは変わらない。


「わたしたちは、エリザが人間に戻れると思う日まで見守るって決めていたの。もう大丈夫だと分かったら、行くわね」

「そろそろ花売りがここへやってくるわ。エリザは目を覚ますのよ」


 エリザはこれが夢のなかだと改めて気づく。


「わたしたちは元の姿に戻るわ」

「起きて、エリザ」


 花の声がだんだん遠くなっていった。




 花売りの娘は、普段と変わらずにやってくる。花籠を置いて、腰かけたようだ。

 水底から浮かび上がるように、エリザの意識は覚醒する。


 その瞬間、エリザは辺りにとてもよい匂いを感じ取った。

 瑞々しくさわやかな香り。ほのかな甘さも相まって、ゆったりとくつろげるような気分になる。

 ローデンシーの花の香りだと、遠くから記憶を呼び覚ます。


 右手に触れるものがある。

 二輪のローデンシーの花が揺れ動いている。銅像の一部だった花は、生き返っていた。


 透明感のある緑色の葉をつけた茎が、二本真っすぐに伸びている。一本の花は、花びらの中心が白くて先に向かってオレンジ色に染まる。もう一本は、白からピンク色に染まる。そんな美しいローデンシーの二輪の花。

 花売りの籠の草花と何一つ変わりはない。いや、どの花よりも生き生きと艶やかに輝いて見える。


 そのローデンシーの花たちの下には、藤の蔓で編んだ籠が置かれている。

 なかにはバラをはじめ、ガーベラ、ユリ、マリーゴールドなど数種類の花が挿してある。ローデンシーの花ももちろんある。いずれも人々の目を楽しませ、心を和ませる色とりどりの美しい花々。朝市のあとの時間帯のせいか、籠からあふれるほどではない。

 二輪の花が忍び込むには充分な空間がある。


〈さあ、エリザ。右手を開いて〉

 


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― 新着の感想 ―
[一言] 「愛でてもらえるのが一番の幸せ。」 花だけでなく、エリザもきっとそう!と思いました。 (*´Д`*)ジェイは魂の響きが同じだったのですね! 両想いになる要素しかないじゃないですか! 女神様の…
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