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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

宝石しか見えない娘

作者: 縦.ロル子

 挿絵(By みてみん)

 人々は、私のことを呪われた可哀想な娘だと言う。

 宝石以外の物が見えなくなる呪いに冒された、哀れな盲目の令嬢サラ・ヴィリアーズと。

 でも、私はそうは思っていない。

 だって、美しい物だけを見て生きていけるのだから。

 私の目から宝石の放つ輝き以外を全て奪った呪い。

 私だけは、この魔法を祝福と呼んだ。


   ♢♦︎♢


 その祝福は二年前の冬に贈られた。

 目覚めると、嫌でも目に入るはずの朝の日差しはなく、ただ部屋中の家具に散りばめられた宝石がまばゆい光を放っていた。

 誰にも打ち明けていないけれど、その前日の夜には妙な出来事があって。

 それは、私の部屋に見知らぬ老婆が入り込んで変な忠告をして去るという内容だった。

 あまりにおかしな話だから夢と現実を混同したのかもしれないけれど、翌朝それ以上に奇妙な魔法にかかったのだから、きっと現実なのでしょう。

 あのやり取りは、今でも鮮明に思い出せる。

 その晩、私は寝室でその日新しく手に入れた宝石を広げ、満たされた気分で眺めていた。

 そうしていると、ノックもなしにいきなりドアノブが回された。


「やあ、お嬢ちゃん。お邪魔させてもらうよ」


 しわがれた声でそう言いながら部屋に入ってきたのは、不思議な身なりの老婆だった。

 纏っている黒いローブは、上質な素材で作られているように見えるのに所々破れていた。

 高価そうな宝飾品をあちこちに身に付けているのに、靴は履いていない。

 そして、老婆の腕には私が今まで見てきた中で最も美しい水晶玉が抱えられていた。


「あなた、どちら様? 私に何のご用?」


 その気になればすぐに使用人を呼んで追い出せたけれど、その手段は選ばなかった。

 老婆が抱えていた美しい水晶玉をもっと近くで見たいと思ったから。

 私は一瞬にしてその水晶玉に魅了され、身の危険など何も気にならなくなっていた。

 それどころか、どうにかして老婆から水晶玉を買い取ってやろうと考えていた。


「お嬢ちゃんに一つ忠告をしようと思ってねえ」


 老婆は勝手に私の部屋の椅子に腰掛けて話し始めた。


「お前さん、このまま宝石に執着し続けると取り返しのつかない事態になるよ」


 老婆は水晶玉に見入っている私を咎めるかのように、こちらの目を覗き込んできた。

 自分の企んでいることが見抜かれたようで少し不快な気分になったわ。

 それと同時に、どうして私が宝石に目がないことを知っているのか恐ろしく感じた。


「なぜ、私のことを知っているの?」


 私は恐れをできる限り隠すようにして聞いた。


「そりゃアタシは霊能者だからねえ。見ればわかるよ、お前の過去も、未来も、全て」


 私は思わず唾を飲み込んでいた。

 老婆は私を品定めするかのように見つめ続けている。


「お前さん、宝石以外の物には一切価値が無いと考えているだろう?」

「……ええ、そうね」


 宝石以外の物など、醜いだけ。

 花や衣服は場合によっては宝石を引き立てることもあるけれど、基本的には無価値ね。


「一つの宝石が出来上がるまでに、どれだけの貧しい人間が苦しんできたか考えたことはあるかね?」

「いいえ、考えたこともないわ」

「正直者ではあるな……まだ手を差し伸べてやれなくもない」


 老婆がぶつぶつと何かを言っていたようだけど、耳には入らなかった。

 それよりも、その前の言葉に意識が向いていた。

 苦しみ?

 貧民が美しい宝石の完成に携われるのなら、疑うまでもなく幸福でしょう?

 そう考えているうちに、老婆の値踏みするような視線はもう気にならなくなっていた。


「いいかね、お前さんは自分がどれだけ恵まれた環境にいるかを知らなすぎる。貧しい人間の苦労を知らないで、親の財産で好きなだけ宝石を集め周りは一切顧みない」


 ……このお婆さん何か言ってるわね、ぐらいにしか思わなかった。

 老婆への恐怖から解放された私は、再び彼女の水晶玉に夢中になっていたから。

 今まで水晶は数えきれないぐらい見てきたし、所有もしているけれど、ここまで一切の濁りもない物は初めて見た。

 透明さだけでなく、大きさにも目を見張る。

 いったいどれほどの年月をかけて、ここまでの芸術品が生み出されたのかしら。


「その心構えでは、じきに天罰が下るよ。お前さんもそう思うだろう?」

「え、ええ。確かにそう思うわ」


 急に話を振られたので、適当に相槌を打った。

 老婆の話が全く耳に入らなくなるほど、本当に魅力的な宝石だった。

 ここまで素晴らしい水晶玉は世に二つとないと断言できた。


「しかし、一つだけ救われる方法がある。今すぐ持っている宝石を全て手放すんだよ。そうすりゃ災いを免れることができよう」

「…………」

「おい、聞いているかい?」


 ──もう我慢できなかった。

 どうしても欲しいと思ってしまった。


「……いくら出せばその水晶玉を私に譲ってくださる?」


 そう尋ねると、瞬く間に老婆の表情が歪んでいく。


「なんと! 忠告に耳を傾けないどころか、アタシの水晶玉まで欲しがるとは!」


 老婆は声を荒げながら椅子から立ち上がった。


「まったく、呆れたねえ。こいつは救いようが無い。お前は神の怒りに触れたよ!」


 気がつくと、老婆は姿を消していた。

 私は老婆の意味深な言葉など気にもかけず、あの美しい水晶玉だけを惜しみながら眠りについた。

 そして翌朝。まるで老婆の予言が当たったかのように、宝石以外の物を見ることができなくなっていた。


   ♢♦︎♢


 その出来事から二年と数ヶ月経った春。

 私は何不自由なく十七歳の誕生日を迎えた。

 幸いなことに貴金属も見ることができたおかげで、さほど生活に困ることは無かったの。

 お父様に頼んで屋敷中に宝石や金の装飾をつけてもらったから、家の中は自由に歩けた。 テーブルに、ソファに、ベッドに、絨毯から手洗い場まで。

 指輪を嵌めれば自分の指先もなんとなくわかるし、金箔の文字で本を作らせればお勉強もできたし、もともと宝石以外のことに興味がなかったから娯楽にも困らなかった。

 食事だって、銀の食器は見えるのだから慣れれば一人でできたわ。

 皮肉にも、私の欲深さが原因で下った天罰は私をより多くの宝石で飾ることになった。

 ……いいえ、これは天罰ではなくて祝福よ。美しい物だけを見て生きていけるのだから。


 誕生日のパーティーも、多くの美しい物たちに囲まれて特に困ることはなく終わった。

 頂いたプレゼントは当然宝石ばかり。そうよね、それ以外は見えないもの。

 私は美しい贈り物の数々を宝石箱にしまい、ベッドに横たわった。

 しかし、あと少しで眠りに就けるというところでガサガサという物音に妨げられた。

 不快に思いながら目を開けると、異様な光景が。

 ドレッサーに収納されているはずの私のアクセサリーが宙に浮いている。

 誰かが勝手に私の宝石を取り出しているようね。

 ポケットにでも放りこんでいるのか、次から次へと私の宝石は視界から消えていく。


「そこのあなた、何をしていらっしゃるの?」


 私はベッドから上体を起こし、宝石泥棒に声をかけた。

 しかし返事はなく、泥棒は盗みの手を止めない。


「とぼけないでちょうだい。うちの使用人じゃないのはわかっているのよ」


 うちの使用人は、私が認識できるように全員が同じデザインの銀のネックレスを装着している。

 お父様とお母様も私のために常にたくさんの宝飾品を身につけているから、何もつけていないこの人はヴィリアーズ家とは関係無い部外者ということになる。


「今すぐその手に持った宝石を離しなさい。さもないと人を呼ぶわよ」


 私はベッドから降りて、壁にかかった金のベル紐に手をかけた。


「おいおい、ここのお嬢さんは盲目って話じゃなかったのかよ」 


 観念した泥棒は宝石を手放したけど、私はその声に驚いた。

 ……少女の声だったのだ。


「ポケットに入れた物も全てよ」

「はいはい」


 やはり気のせいではない。もう一度聞いても女の子の声だわ。


「じゃ、宝石は返したから帰らせてもらうよ。人は呼ばないって約束だろ」

「待って」


 今すぐ出て行ってもらおうと思っていたけど、気が変わった。この子に興味がある。


「少しだけお喋りに付き合ってくださらない?」


 私はベル紐を音が鳴る寸前のところまで引っ張ってみせた。


「わかった、わかったからそれは勘弁してくれ!」


 私は小さな泥棒さんを椅子に座らせてお喋りを始めた。


「泥棒さん、あなたお名前は?」

「……アンバー」

「アンバーって、宝石の?」

「そうだよ。あたしの目が琥珀みたいな色してたからって、親がそう名付けたらしい」


 へえ、あなたって宝石と同じ名前なのね。

 私はこの子のことが少し気に入った。

「……すぐ死んだけどね」とアンバーは付け加えた。


「でも、本物の琥珀ほど美しい目ではなさそうね。だってあなたの目は見えないもの」


 本物の琥珀なら見えるから、全く見えない彼女の目は本物の美しさには遠く及ばない。


「あっそ。……って、結局あんたは盲目なの? 見えてるの?」

「宝石と貴金属だけは見えるわ」

「だからあたしが宝石盗んでるのがわかったのか。……ちくしょう、噂は間違いかよ」


 どうやら、アンバーは私が完全な盲目だと勘違いして宝石を盗みに来たみたい。


「ところで、どうして泥棒なんてしようと思ったの?」

「そりゃあ生活に困ってるからだよ。働いても働いても大人どもに絞られるばっかりで、その日のパンを買う金だって無い。綺麗に生きてたらとっくに飢えて死んでるさ」


 アンバーの声からは全く反省の色が読み取れなかった。


「あなた、まさか日頃から盗みを働いているの?」

「そうだけど、それがどうかした?」


 信じられない。日常的に盗みをしないと生活できない境遇の人がいるなんて。


「あなた、何歳?」

「えーっと、十五歳だ。秋に十六になる。あんたは?」

「……今日が十七歳の誕生日よ」


 私より年下の子が働いて、それでもその日の食事に困って盗みに走っている。

 私は二年前の老婆の言葉を思い出していた。


『どれだけの貧しい人間が苦しんできたか考えたことはあるかね?』


 あと、水晶玉に夢中であまり聞いていなかったけど「自分がどれだけ恵まれた環境にいるかを知らなすぎる」みたいなことも言っていたような覚えがある。

 ……考えたこともなかった。だって、私の周りに貧しい人はいないから。


「そろそろ夜の見回りが来るわ。もう帰っていいわよ」 

「本当に帰してくれるんだな。てっきり裏切って捕まえてくると思ってたから逃げる準備はバッチリだったのに」


 喋りながらアンバーの声は徐々に遠くなっていく。

 部屋を出て行こうとしているようだけど、その前に。


「待ちなさい。まだポケットに一つ入っているでしょう」

「……ちっ、バレてたか」


 アンバーの不満そうな声と共に、視界にアクアマリンが嵌められた銀の腕輪が現れた。

 持っている宝石は全て把握しているもの。誤魔化しなんて通用しないわ。

 私はアンバーから腕輪を取り上げようとした。

 しかし、途中で考えが変わって手を止めた。


「……やっぱりあなたにあげるわ。一つぐらいなら譲ってあげてもいいと思ったの」

「同情か? ま、ありがたく頂くよ」


 再び視界からアクアマリンの腕輪が消えた。

 確かに同情もある。でも、それは報酬の意味の方が大きかった。

 私が今まで見てこなかった──見えなくなってしまったものへの好奇心が生まれたのだ。


「よければ明日も来てちょうだい。そうしたらまた宝石を一つあげるわ。ちょうど話し相手が欲しかったの」


   ♢♦︎♢


 こうして、私とアンバーは毎晩こっそりお喋りをする関係になった。

 とは言っても、家に篭りきりの私に話せることはあまりなくて。

 基本的にはアンバーの話を聞くのが中心になっている。

 あの子が語る思い出はどれもゾッとする話ばかり。

 例えば、盗みがバレて殺されそうになった話、他の盗人が取ったお金を盗んだ話、意地悪な雇用主に一泡吹かせてやった話、一枚しか無い着替えが風で飛ばされた話、五日ぶりに食べ物にありつけた時の話、それから、とある家に引き取られたものの暴力を振われて逃げ出した話。

 泥水を飲まざるを得なかった日の話は思わず叫びそうになったわ。

 それでも、アンバーはどんなに悲惨な出来事でも面白おかしく語るから、私は夢中になって耳を傾けた。

 彼女の話を聞いていると、だんだん私の見ている宝石の輝きしかない世界がつまらなく思えてくる。

 そして、素敵なお話の対価として私は宝石を一つアンバーに手渡す。


 そんな日々が続くうちに、私たちには変化が現れた。

 アンバーは宝石を貰い続けて生活に余裕ができたらしく、悲惨な体験の話から徐々に明るい内容の話が増えてきた。

 聞いたところ、アンバーはスラム街と呼ばれる場所に住んでいて、そこで同じように身寄りの無い小さな子供たちの面倒を見ているらしい。

 宝石を売ったお金で薬を買って病気の子供を助けることができたと嬉しそうに報告してくれたときは、知らない子のことなのに私まで大喜びしてしまったわ。

 あとは、「明日」の話をすることが多くなった。

 今までは過去やその日にあった出来事の思い出話しかしてこなかったけど、徐々に小さな夢を語ってくれるようになったの。

 そうね、例えば……


「なあサラ。明日パンを二つ食べてみようと思うんだけど……いいかな?」

「好きにすればいいじゃない。何が問題なの?」

「だんだん自分が贅沢な奴になってるのが嫌なんだ……って、何驚いた顔してるんだ?」

「一日にパンを二つ食べるのが、贅沢……?」 


 というやり取りが以前あった。本当にあの子は欲が小さくて微笑ましい。

 ……私とは大違いね。あの子が一日に二個のパンを食べて小さな贅沢を味わっている間に、私は一日に何十個もの新しい宝石をお父様に買い与えてもらっている。

 それに気づいてしまってから、私がお父様にねだる宝石の数は減っていった。

 私に起きた変化はそれだけではなかった。

 アンバーと出会ってから、月日が経つのがとても早く感じるの。

 どうやら、楽しい時間はすぐに経つらしい。

 それをアンバーに報告したら、「そんなの五歳児だって知ってるぞ」と馬鹿にされた。

 でも、私は今までそんなふうに思ったことはなかった。

 ……きっと、何も面白くなかったのね。大好きなはずだった宝石に囲まれていても。


   ♢♦︎♢


 本当にあっという間に時は流れて、気がつけば秋になっていた。

 そして、来週はアンバーの十六歳の誕生日。

 私はどんな贈り物をすればアンバーが喜んでくれるか、そればかり考えていた。

 でも、いくら悩んでもいい案が浮かばない。

 宝石を大量にあげるのが一番確実で手っ取り早いのはわかるのだけど、すぐに売り払われてしまうと思うと寂しい。

 そこで、今までの会話に何かヒントがないかと考えて、記憶を辿ることにした。


 ……どのくらい時間が経ったのかしら。

 私は喉の渇きも忘れるくらい夢中になっていた。

 そして、ようやく手がかりになりそうな会話に辿り着いた。

 それは、初夏に交わされたやり取りの一つ。


「なあ、そろそろ堂々と玄関から入らせてもらえないか? 忍び込むのだって簡単じゃないんだぞ」

「だめよ。こんな小汚い娘を屋敷に招くなんて、お父様がお許しになるはずがないもの」

「小汚いって、サラには見えてないくせに……」


 ……恥ずかしいわね。まだアンバーのことを貧民として見下していた頃の会話だわ。

 私は一瞬思い出さなければよかったと感じたけど、すぐに名案が浮かんだので撤回した。

 お父様に頼んで、アンバーを雇ってもらうのはどうかしら。

 あの子、すごく器用で賢いから結構何でもできるのよ。きっと役に立つわ。

 そうすればずっと一緒にいられるし、アンバーも貧しい路上生活から抜け出せる。

 我ながら素晴らしい発想ね。早速お父様にお願いしに行きましょう。

 お父様は私に甘いから、なんだかんだで許してくれる気がするの。

 ……しかし、私の楽観的な考えは砕け散ることになった。 


「なに、お前は卑しい浮浪者を毎晩屋敷に招いていたと言うのか。今すぐそいつと関わるのを止めなさい」


 私のお願いを聞いた途端、お父様の声は今まで聞いたこともない厳しいものに変わった。


「嫌よ! 大切な友達だもの」

「友達だと? お前は野良犬に餌を与えて良いことをした気分になっているだけだ。そいつはお前のことを格好の餌場としか思っていない。いつか噛まれることになるぞ」

「アンバーはそんなことしないわ!」


 ひどい。まだアンバーのことを何も知らないのに、好き放題なことを言って。


「ここ最近、頻繁に屋敷から物が盗まれている。そいつの仕業に違いない。お前に取り入って色々屋敷のことを聞き出したのではないか?」

「違う、それはアンバーじゃない!」


 きっと使用人の誰かの仕業よ! と言い放ってやりたかったけど、周りに使用人がたくさんいるこの状況で言って敵を作るのはよくないと思い我慢した。


「とにかく、これ以上そのアンバーという小娘を屋敷にあげることは許さん。警備を強化して見つけ次第縛り上げてやる」

 お父様の残酷な言葉はそこで終わりではなかった。

「そうだ、この機会に伝えておこう。……サラ、お前の婚約が決まった」

「えっ……」

「そんな暗い顔をしないでくれ。相手はうちの何十倍もの資産を持っているんだ。それだけ有力な家なのに、宝石しか見ることができない呪われたお前を妻に迎えてくれる。これほどいい縁談はなかなか無い。ただ……」


 お父様の声が少し暗くなった。


「相手の家は外国にある。大西洋の向こう側、新大陸だ」


 心臓が鉄の塊になってしまったかのような感覚がした。冷たく、重くなっていく。

 私は見知らぬ土地に嫁に出される。遠く離れた海の向こうに。


「お父様は私を捨てるのね」

「捨てる? とんでもない。必ず年に一度はお前に会いに行くと誓おう」


 そう、年に一度しか来れないほど遠くなのね。

 ……待って、そうしたらアンバーとはどうなる? きっと二度と会えないわ。


「その婚約、破棄してちょうだい。私そんなところに嫁ぎたくないわ」

「サラ。私だってお前と離れるのは寂しい。だがこれはお前を思ってのことなんだ」

「これのどこがよ。金のために私を売っただけじゃない」


 私が反抗的な態度を見せると、お父様は子供をなだめるような調子で話しはじめた。


「私はサラを愛している。本当は片時も離れたくない。しかし、悔しいことに生活の全てに宝石が必要な贅沢な娘を一生養えるほどの財産はヴィリアーズ家に無い。だから、うちよりもずっと財力のある家に嫁いで、いつまでも幸せに過ごしてもらいたいんだ」


 その言葉を聞いて、私は何も言い返せなくなってしまった。

 この目が呪われている限り、私は財産を多く持っている誰かに守ってもらわないと生きていけない。

 ……与えられた箱の中でしか生きられない。

 私は初めて自分の目にかかった魔法を心から憎んだ。


「……わかったわ。私、嫁ぎます。でも、その代わりにお願いがあるの」 


   ♢♦︎♢


 お父様との会話を終え、夜が来た。

 私はいつものように寝室でアンバーが来るのを待つ。

 だけど、これが最後。

 せめてお別れぐらいはさせてよと、お父様に交渉したのだ。


「よっ」


 開けておいた窓からアンバーが入ってきたみたい。


「……遅いじゃない」

「あれ、元気ないな」

「そうかしら」


 意味もなく強がってしまった。私に別れを告げる勇気はまだ無い。


「それより、これを見てちょうだい」


 私はテーブルいっぱいに広げた琥珀を指さした。


「これが『アンバー』か? ……初めて見た」


 アンバーは自分の名前の由来になった宝石に興味津々だ。 


「この中から一番あなたの目に似ている琥珀を選んでほしいの。そこに鏡があるから」


 そのために私は家中の琥珀をかき集めた。加えてお父様に最後のわがままよと無理を言って、大急ぎで街からもたくさん取り寄せてもらった。


「ええー、面倒なことさせるなあ」

「いいからやりなさい」

「はいはい、お嬢様の仰せのままに」


 アンバーは億劫がりながらも、琥珀の山から一粒つまんでは鏡を見て自分の目とくらべる作業を始めてくれた。


「言うほど似てない気がしてきたな」

「テーブルの端に置いたのは安価な琥珀なの。高級なものは真ん中に集めたから、そっちから比べたらどうかしら」

「お、こっちの方が似てる。あたしの目って綺麗なのかも」


 その言葉を聞いて、ますますアンバーの目を見てみたくなった。

 ……どうしてこんな目になってしまったのかしら。

 この目にかけられた、宝石以外見えなくなる魔法。

 確かにアンバーと出会う前は祝福だと本気で思っていたけど、今では呪いでしかない。

 解けるものなら解いてしまいたいわ。

 でも、水晶玉に夢中で老婆の話を聞いていなかったせいで、方法は全くわからない。

 私はあれこれと考えを巡らせた。どうすれば呪いを解くことができるの?


「うーん、これかなあ」


 そうしているうちにだいぶ時間が経っていたようで、アンバーが自分の目に最も近い宝石を選び終えていた。

 アンバーがつまんだのは、今日お父様が取り寄せた最高級の琥珀だった。

 最高級というだけあって、目を見張る美しさだ。

 ただ、ちょうど真ん中の部分が黒く塗りつぶされている。


「もしかして、虫が入っている? 一部が見えないわ」

「ああ。この虫がいい感じにあたしの茶色い瞳孔みたいだから」


 つまり、この黒い部分が虫の死骸ということね。

 ……困ったわ、私は虫が大嫌い。

 いくら琥珀は中に虫が入っていると価値が上がるとはいえ、宝石以外の物は見えないし、何より虫を身に付けるなんて考えられない。

 でも、それがアンバーの瞳だと言うのなら。


「それを渡してちょうだい」


 私はアンバーから琥珀を受け取った。

 透明感のある、艶やかな黄褐色の宝石。

 しかし、真ん中にはぽっかりと黒い穴が空いている。

 不思議ね、虫なんて大嫌いなはずなのに。

 どうして見えないことがこれほどまでに残念なのかしら。

 見たい。私、やっぱり宝石以外の物をこの目で見たいわ。

 ……さて、親愛なるお友達に贈り物を渡さないとね。


「ありがとう。お礼にテーブルの上の琥珀は全部あげるわ」

「えっ⁉︎ どうしたんだよいきなり。いつもは一日一個なのに」


 動揺するアンバーは可愛らしいので思わず笑みが浮かんだ。


「誕生日プレゼントよ」

「早すぎないか? まだ一週間あるのに」


 それは…………。

 沈黙が走る。私はすぐには理由を言えなかった。

 見えないけれど、きっとアンバーは首を傾げているわ。

 ああ、ついにこの時が訪れてしまったのね。

 私は覚悟を決めて、ようやく口を開く。


「もう、会えないからよ」


 それから、私はアンバーに事情を話した。

 お父様に話したら二度と関わるなと言われたこと、あとは……結婚のこと。

 私が話している間、アンバーは何も言葉を発さなかった。


「とにかく、もう来ないでちょうだい。あなたは痛い目に遭うし、私は怒られるわ」


 寂しいとか離れたくないなんて本音は言えなかった。

 私の話が終わったところで、彼女はようやく口を開いたのだけど……

 ──アンバーの反応は想像よりずっと淡白だった。


「そう。今まで世話になったよ」


 本当にアンバーの反応は薄情と言ってしまいたいぐらい冷めていて、手際良く琥珀を集めるとすぐに窓の方へ歩き出した。

 ……それは私を傷つけた。こんなにも好きなのは、私だけだったの?


『そいつはお前のことを格好の餌場としか思っていない』

『そいつはお前のことを格好の餌場としか思っていない』

『そいつはお前のことを格好の餌場としか思っていない』


 お父様の言葉が頭の中で繰り返し響く。

 やめて! それ以上言わないでよ!

 私は右手に握った虫入りの琥珀をかなり強い力で握りしめていた。

 ただ、アンバーは何かを思い出したかのように立ち止まった。

 ポケットからはみ出ている琥珀の動きで推測しているだけだから、こちらを振り返ったかまではわからないけれど。


「最後に一つだけ質問させてくれ。サラは結婚したいのか?」


 私に興味が無かったくせに、どうしてそんなこと聞くの?


「いいえ。破談にできるものならしてやりたかったわ」


 そう答えると琥珀は再び窓に近づいたが、すぐにまた止まった。


「ごめん、もう一個だけあった。……結婚の日はいつ?」


 いったいどういうつもりの質問なわけ? まあ、答えてあげましょう。


「早くても来週には海の向こうに攫われてしまいそうね。お父様、かなり急いで準備を進めているようだったから」

「……ふーん」


 せっかく答えてあげたのに、やはりアンバーの反応は薄かった。

 その呟きを最後に、琥珀は──アンバーは私の前から消えた。


   ♢♦︎♢


 あれから一週間が経過した。当然、アンバーはあの夜以来姿を見せていない。

 私はつい先週までアンバーとお喋りしていた椅子に腰掛け、空いたもう一つの椅子をぼんやりと眺めた。

 寝室でひとりになると、つい彼女のことを考えてしまう。

 十七歳の誕生日の夜、小さな泥棒さんの出会い。

 内緒のお喋り、一日一個手渡す宝石。

 一緒に過ごすことで変わっていった私たち。


 ……そして、あっけない別れ。

 アンバーの態度には怒る気も起きなかった。

 お父様の言う通りだったのかもしれないわ。

 喪失感を抱いているのは、私だけ。

 アンバーは今頃スラム街を自由に駆け回っている。

 ……私のことなんてすっかり忘れて。

 それでも、どうしてかしら。私はアンバーの目に似た虫入りの琥珀を手放せずにいた。

 アンバーに別れを告げた次の日、私はその琥珀をネックレスにして身に付けた。

 どうかしてるわ。私は虫が大嫌いで、アンバーはもう私《餌場》に関心を示すことは無いのに。

 私は眠りに就く前にネックレスを外そうと、虫入りの琥珀に目をやった。

 美しい黄褐色の塊の中に、ぽっかりと空いた黒い穴。

 その黒い影の正体は、虫……小さな命。

 私には見ることができない「美しくない物」


 そういえば、私は最後までアンバーの姿を知らないままだった。

 私はネックレスを外しながら彼女の姿を思い描いた。

 背は私より高い? ──いいえ、満足に食事を取れていないからきっと低いわ。

 どんな髪型? ──長い髪は邪魔だと言って短く切ってそうね。

 肌の色は? ──この前「サラは色白すぎて気味悪い」なんて言ってたから、少なくとも私よりは濃い肌色をしていると思う。

 じゃあ、目は──私は首から外した虫入りの琥珀に再び視線を向けた。

 アンバーの瞳は、この琥珀のような……


「あれ、その琥珀。随分とお気に召したようですねえ、お嬢様?」


 その時、窓の方から少女のからかうような声が聞こえ、私は驚きのあまり琥珀を落としてしまった。


「誰っ⁉︎」


 裏返った声で反射的に尋ねる。

 ……いいえ、聞くまでもなかったかもしれない。

 私はこの声を知っている。私は半年間この声を待ち焦がれる日々を過ごしていた。

 ──アンバーの声だ。


「ひどいなあ、一週間会わなかっただけで声を忘れるなんて薄情なお嬢様だこと」


 薄情は、こっちの台詞よ……! 今更何をしに来たっていうの?

 ドクドクと心臓が暴れ出すのを感じる。

 アンバーの声を聞いたことで、それまで不気味なぐらい抑えられていた感情が、一気に溢れて私を飲みこむ。

 驚き、焦り、怒り、嫌悪、罪悪感、期待、そして……喜び。

 しかし、私は毅然とした態度を演じざるを得なかった。

 私から言い出したこととはいえ、アンバーは一度私の元をあっさりと去ったのだ。

 この子と心の繋がりを期待してはいけない。

 それに、お父様に見つかったらアンバーが危険だ。

 早く追い返さなくては。


「あら泥棒さん。もう宝石はあげないと言ったでしょう。いったい何のご用?」


 私は本心を隠しながら、わざと突き放す態度をとった。

 すると、アンバーは私の右手を取った。ガラス細工でも扱うかのような優しい手つきで。


「泥棒らしく盗みに来たんだよ。……花嫁をね」


 そこからは鮮やかな手口だった。

 アンバーは私を椅子から立たせ、あっという間に私は廊下に連れ出されてしまった。


「ちょっと待って。私はついて行くなんて言ってないわ」


 右腕を引っ張られて歩きながら、私は抗議した。


「合意の元だったら盗みとは言わないだろ」


 アンバーは歩く速度を全く落とさないまま、悪びれずにそう答える。


「……なら、これは盗みとは言わないわ」


 それが私の出した答えだった。

 逃げた先に待ち受ける未来とか、アンバーへの不信とか、そんなものはこの子の手に触れた途端にどうでもよくなってしまった。

 この手を二度と離したくない。

 どうか、ここから連れ出してほしい。

 私はアンバーと一緒にいたい。

 この気持ちは、どうしようもないの。


「そう」


 アンバーの反応は素っ気なかったけれど、私の手を握る力がきゅっと強くなった。

 そこから何かを感じ取った私は、思わず微笑んでいた。


「ここは警備が薄いんだ。あそこの勝手口から脱出するぞ」


 アンバーはまるで自分の家のように迷いなく私を一階まで案内し、小声でそう指示する。


「あなた、私よりこの屋敷に詳しいのね」

「そりゃ、どこかの誰かさんに呼びつけられて毎晩忍びこんでましたからね」


 アンバーはいつもの軽快な調子でそう言った……いいえ、若干様子が変だわ。

 勝手口から屋敷を出ることに成功したので、少しぐらいお喋りしてもいいでしょうと思い、ちょっと声をかけてみる。


「あなた、さっきからかっこつけてる?」

「んなっ!」


 図星を突かれたような焦りの声があがる。


「……そうだよ、悪かったね。だって、まるで物語みたいだろ?」


 しかし、現実は物語のようにそう上手くは運ばない。


「おい、サラ後ろ」


 アンバーに言われて振り返ると、大量の銀のネックレスが見えた。

 うちの使用人たちね。途中で見つかったようで、大勢でこちらを追ってくる。


「ちっ、バレてたか。サラ、走れるか?」

「ええ、そのくらい余裕よ」


 そう言ってみたはいいものの、ここは屋敷の中と違って目印になる宝石が無い。

 要するに、真っ暗闇。アンバーが手を引いてくれるとはいえ、何も見えない中を走るのはやはり怖い。

 まだ彼らと距離はあるけど、盲目の私が逃げ切るのは無謀な気がしてた。


「そうだ、これを着けよう。サラ、ちょっとだけ止まるぞ」


 すると、アンバーは突如立ち止まって何かを取り出した。

 アクアマリンの腕輪? これって……!


「覚えてるか? あんたが最初にくれた宝石だよ」


 繋いでいた手が離され、アンバーは左腕に腕輪を着けると再び私の右手を取った。

 もちろん覚えている。だって、私はかつて持っている宝石は全て把握していたもの。

 ……それに、あなたとの始まりの思い出だから。


「随分懐かしい物を持っていたのね。てっきり売り払ったかと思ったわ」

「まあ、いろいろあって手放せなかったのさ。とにかく今はこれを目印にしろ」


 こうして、私たちは再び手を繋いで走り出した。

 私は余計な恐怖は考えないようにして、ひたすらアクアマリンを追いかけた。

 ときどき手が離れてしまっても、私は恐れない。

 何度もつまづいた。何度もよろけた。

 それでも、私は足を止めなかった。

 アンバーとの出会いを象徴するアクアマリンの腕輪が、私の道を示してくれたから。

 アンバーが側にいてくれたから。

 やがて、ざわざわと揺れる木々の音は聞こえなくなり、人の話し声や馬車の音が聞こえるようになった。ずいぶんと長い距離を走ったようね。

 人混みに入ったらしく、周囲には指輪やネックレスが浮かんでいる。


「サラ、大丈夫か?」

「私は平気よ」


 アンバーは走るのを止め、呼吸が乱れた私のことを気遣ってくれた。

 暗闇の中を走るのは怖いし、ずっと引きこもっていた私にとって走ることは苦行だ。

 でも、立ち止まるわけにはいかない。

 アンバーと一緒にいられるなら、どんな無理だってしてみせる。

 ……ただ、ちょっと気がかりなことがあって。


「街に着いた。もう少し進んだところの路地裏に入れば逃げ切れるはずだ……サラ?」


 アンバーは私の不安を察したらしい。


「なんだか順調に行き過ぎている気がするの。盲目の私が、大勢の大人たちから簡単に逃げ切れるはずがないでしょう? どうして彼らはすぐにいなくなったのかしら」


 先ほど私たちを追っていた銀のネックレスの群れ、もとい使用人たちは、割とすぐに追跡を諦めて去っていった。どうにも不可解だわ。


「こりゃ先回りされてる可能性もありそうだな。悪いけど、少し遠回りしようと思う。もう少しの辛抱だ」


 賢いアンバーはすぐに私の言いたかったことを理解してくれた。

 私は頷き、引き続きアクアマリンの輝きに引っ張られた。


「そうだ、これでも被っとけ」


 アンバーから思い出したように布のような何かを頭に乗せられたけど、今自分の姿がどうなってるかはわからない。

 長いこと人混みに潜んで歩き続け、ようやく人の気の無い路地裏に足を踏み入れる。

 ここからは、再びアクアマリン以外は見えない闇の中だ。

 ……悪臭がする。私は思わず左手で鼻をつまんだ。


「ははっ、お嬢様には刺激的な臭いだったか?」

「そうね、斬新な香りだわ。社交界では絶対に流行らないだろうけど」

「あ、そればっちいから踏まない方がいいよ」

「どれ⁉︎ 避けようがないわ」


 ふふっ。アンバーがいると、汚いはずの空間でも楽しいものになる。

 笑い混じりの文句を言いながらアンバー曰く「ばっちい」物を避けつつ進むと、悪臭がしないおそらく開けた空間であろう場所に到着した。

 人の気配や声はするのに、宝石や貴金属は一切見えてこない。

 もしかして、貧しい人々が集まる場所?


「こっちだ」


 アンバーに引っ張られて、今度は右へ左へくねくねと曲がりながら進む。

 どうやらまた狭い場所に来たようで、時々板のような物が体に当たる。


「階段を登るから気をつけて」


 呪われてから初めて経験する、宝石で飾られていない階段。

 何も見えないし、自分がどの程度の高さにいるのかもわからない。

 足を乗せるたびにギシリと嫌な音がして、かなり怖い。

 それでも、私は弱音を吐かなかった。

 優しい手が私の背中を支えてくれたから。


「到着だ。よく頑張ったな」


 二十段ほど登ったところで、アンバーから労いの言葉を贈られた。

 アンバーは私の頭に被せていた布らしき何かを取ると、私を床に座らせた。


「ここがあなたの家なの?」

「家っていうか、寝ぐらというか。まあそんなところ」


 これが、アンバーの家なのね。

 隙間風を感じる。外の騒音も聞こえてくる。

 私がここで暮らしていくのは過酷な試練になりそう。


「そういや、体調はどうだ? 体力の無いお嬢に無理させすぎちまったよな」 


 特に問題は無いわ、と言いたいところだけど、一つだけどうにかしたいことがある。


「とても喉が渇いたわ」

「ああ、汲んでくるよ。ちょっと待ってて」


 私が要望を告げると、アンバーの言葉と共にアクアマリンの腕輪は私の前から消えた。

 ギシギシと階段を踏む音が、次第に遠ざかっていく。

 こうして、アンバーの存在を証明する物は私の周りから無くなった。


「……やだ、行かないで! 戻ってきて」


 その瞬間、私は取り乱した。

 それまで感じなかった恐怖が、一気に襲いかかってきたから。

 ──真っ暗。上下左右どこを向こうがずっと広がる闇。

 自分がどんな形をしているかさえ認識できない。

 寝る直前の格好で逃げ出したせいで、何も宝石を着けていなかったのだ。

 アンバーの目に似た琥珀も、本物のアンバーが戻ってきた時に部屋で落としてしまった。

 ──寒い。私の肌に触れるのは冷たい床と隙間風だけ。

 アンバーが握ってくれた手の温もりは、私をどれほど勇気づけたか。

 ──孤独。世界から自分一人だけ忘れられてしまったような感覚がする。

 このままアンバーが帰ってこなかったら、私はどうなるの?


「怖い、怖いわ……!」


 ほんの少し、ここに来たことを後悔してしまいそう。

 こんな思いをするぐらいだったら、宝石に囲まれた鳥籠の中で大事に守られていた方がよかったのかしら?

 私の中で迷いが生まれたその時、ギシリギシリという音が外から聞こえ始めた。

 音は徐々に近づいてくる。


「アンバー⁉︎」


 私は暗闇の恐れを忘れて立ち上がった。

 初めて聞いた時は嫌な音だと思ったのが、今ではこの上なくありがたい音に感じる。

 私はアクアマリンの腕輪が現れるのを今か今かと待ち構えた。

 ……ところが、私の視界に現れたのは見覚えのある銀のネックレスだった。


「お迎えです、お嬢様」


 アンバーとは正反対の、冷たい大人の男の声が響く。


「そんなっ……」


 どうしてヴィリアーズ家の使用人がここにいるの?

 アンバーは? アンバーはどうなったの⁉︎

 銀のネックレスが近づいてきて、私は左腕を強く掴まれた。

 皮肉なことに、それはアンバーが右手を優しく握ってくれていたことを思い起こさせる。


「いやっ! 離して!」

「それはできません」


 左手がさらに強く引っ張られた。使用人は私をここから連れ出そうとしている。


「私は歩かないわ!」


 私は両足に力を込めて踏ん張った。


「わかりました。お嬢様はお歩きにならなくとも結構です」

「ひゃあっ」


 背中に腕を回されて、体が浮き上がるのを感じた。どうやらかかえられたみたい。


「降ろしなさい!」


 私は抵抗したものの、あっけなく階段まで運ばれてしまった。

 ギシリ、ギシリと使用人が私を持ち上げたまま一段ずつ降りていく。

 この上なく怖い。さっきアンバーと上ったときの何倍も。

 持ち上げられたことで高さがあるからか、それとも……あの子の温もりが無いからか。


「あぁ……」


 いくら抑えようとしても、身震いが止まらない。


「ずいぶんと怯えていらっしゃるようですが、ご安心ください。お父様は怒っていらっしゃいませんよ。貴女を心配されてます」


 ……違うわよ、と言い返す気力も無かった。

 使用人は私を抱いたまま、今度は右へ左へと細かく曲がりながら歩いていった。

 狭い場所らしく、時々体に何かが当たる。

 おそらく来た道を戻っているのでしょう。


「どうやって私を見つけたの?」

「街に逃げることは予測できたので、先回りをし人を雇って街中を監視させました」

「……そう」


 やはり、無理だったのね。ヴィリアーズ家から逃げることは。

 そうこうしているうちに、私は再び広い空間に連れてこられたみたい。

 私はゆっくりと地面に降ろされた。

 ずらりと並んだ銀のネックレスが私を囲む中、一点だけぽつりと銀のネックレスではない装飾品が浮かんでいる。


「……お父様」


 ネックレスだけでなく、腕輪や指輪まで見える。

 金の細工の上に散りばめられた、色とりどりの宝石。

 見慣れたお父様の姿、もとい装飾品だ。


「サラ! 無事か? 心配したんだぞ。さあ、早くうちへ帰ろう」


 指輪がこちらに近づき、前後に動く。おそらくお父様は手招きをしている。

 でも、私は頷かない。


「嫌よ、私はアンバーといたいの。海の向こうに嫁に行くなんてごめんだわ」

「やはりそうなるか。……こうなってはやむを得ない」


 お父様の不穏な言葉に私は身構えた。

 いったい何をするつもりなの?

 警戒する私の前に現れたのは──見覚えのあるアクアマリンの腕輪だった。


「アンバー⁉︎」

「サラ、すまない。捕まっちまった」


 どうやら、私たちの居場所を掴んだお父様たちは、アンバーが隠れ家から離れるのを待ち伏せし、彼女を捕らえてから私を確保したみたい。

 まさか、アンバーを人質に私を連れ戻す脅しをかけるつもりなのかしら。


「サラ、素直に帰らないならこの野良犬の首を掻き切るぞ」


 予想は的中してしまった。

 アクアマリンの上には銀のネックレスと……宝石で飾られた棒状の物体。

 きっと、使用人がアンバーの首元にナイフを当てているんだわ。

 この人、わざわざ私に見えるように宝飾されたナイフを持ってきたのね。

 ……凶器まで宝石で飾るなんて、本当に趣味が悪い。

 私はもはや宝石を忌避しつつあった。

 けれども、私は宝石の世界から逃れることはできない。


「……わかったわ。家に帰ります。だからどうかアンバーは傷つけないで」


 こうするしか、なかった。

 私は何もできない愚かな娘。

 宝石が憎い、お父様が憎い、こんな呪いを招いた自分が憎い。


「それでいいんだ。サラが賢い娘で助かった。私だって人殺しにはなりたくないからね。ブラウン、ナイフを下ろしてやれ」


 お父様の指示を受け、ブラウンと呼ばれた使用人は宝石で飾られたナイフを下ろした。

 すると、金の豪華なアクセサリーの群れはアクアマリンの腕輪の方へ移動した。

 お父様がアンバーに近づいているんだわ。


「可愛い娘の願いだ。本当は傷の一つぐらいつけてやりたいが、特別に見逃してやろう。二度とヴィリアーズ家に近づくな。……そうだ、これは没収させてもらうよ。これは私がサラに買い与えたのだ、お前みたいな者が手にしていい物ではない」


 そう言うと、お父様はアクアマリンの腕輪をアンバーから取り上げてしまった。

「そうだな、最後に()()()にお別れぐらいは言わせてやろう」


 妙に「友達」を強調した言い方は、かつて私がお父様にアンバーのことを教えたときのことを思い出させる。あの時、お父様はアンバーが友達だと認めてくれなかった。


「サラ、自由にしてやれなくてごめん」

「いいのよアンバー、あなたは何も悪くない。全て私の自業自得よ」


 もう少し自分を蔑む言葉を並べたいところだけど、今はそれよりも優先して伝えるべきことがある。


「でも、あなたに会えたのは宝石に魅入られて呪われたから。それだけで、今では忌まわしいこの魔法もやはり祝福だったように感じられるの。アンバー、あなたが好きよ。あなたに会えたことが私の人生で何よりの幸運だったわ」


 本当なら、アンバーに琥珀を選んでもらったあの夜に言いたかった言葉。

 周りにはお父様と大勢の使用人がいるけれど、私は堂々と愛を告げた。

 恥とは思わないわ。むしろ聞かせてやりたかったの。

 ねえお父様、聞いたかしら? 

 私がどれだけアンバーを好きか。

 これは、お父様へのささやかな抗議。


「はあ、本当に真っ直ぐで健気なやつ」


 アンバーは呆れたような言葉を発したが、その声はとても暖かくて柔らい。


「……あたしも、サラのこと結構好きだよ」


 それを聞いて、胸が熱くなった。今すぐアンバーの名を叫んで駆け寄りたいと思ったけれど……。


「あら、結構好きな程度で誘拐してしまうの? ずいぶん見境の無い泥棒さんね。てっきり好きで好きで仕方ないから誘拐したと思ってたのに、騙されたわ」


 これは生まれ持った性質ね。さっき素直に想いを告げた私の唇は、いつもの不器用さんに逆戻りしていた。


「……わかったよ。好きで好きで仕方ないから誘拐しました、これで満足か?」


 私は驚いた。この子がここまで素直になることなんて今までなかったもの。

 おまけに人が見ている前で。

 もしかしたら、私と同じでお父様に抗議の意を込めているのかも。

 ふふっ、私たちは通じ合ったようね。

 ところで、今のアンバーはどんな表情をしているのかしら。

 見れないことが心底悔しい。きっと、とても可愛らしい顔をしているわ。


「そうね、その言葉を聞けて、ようやく家に帰れそうだわ」

()()()、サラ。気をつけて帰るんだぞ」

「ええ、()()()


 私たちは敢えて「またね」という言葉を選んだ。

 そこまで言葉を交わすと、少し間を置いてお父様が声をかけてきた。


「別れの挨拶は済んだか? では帰ろうか、愛しの我が娘よ」


 私はお父様に手を引かれ、表の大通りに戻された。

 そこに停めてあった嫌になるぐらい豪華な馬車に乗せられる。

 私でも見えるようにと、もはや宝石で線が引かれた馬車の絵のようになっている。

 馬までも煌びやかな装飾を施されていて、鞍の輝きが私を不快にさせた。

 ……もう、アンバーがどこにいるのかはさっぱりわからない。


「出発しろ」


 お父様の命令で馬車は動き出した。

 馬車の中は宝石でいっぱいに飾られていて、どこがドアで、どこが座席かよくわかる。

 一方、馬車の外はどこまでも広がる闇の世界。

 でも、私の心はその闇に後ろ髪を引かれていた。


「いつまで外を眺めているんだ。何も見えないだろうに」


 お父様はそのことが気に食わないようで、不機嫌そうに話しかけてきた。


「何も見えないから見ているのよ。もうこんな醜い物見たくないわ」


 私はギラギラと輝く座席を少し強めに叩いた。

 私もお父様も、お互いに苛立ちを隠せていない。


「サラ。今のお前は、珍しい景色を見せられて一時的に惹かれているにすぎない。そんなもの、すぐに飽きる」


 私はお父様の言葉を無視した。馬車に揺られて体が動くのを感じる。


「サラ」


 お父様はもう一度私の名を呼ぶ。ただし、先ほどの苛立ちを感じる声とは打って変わって、優しげなものだった。


「私はお前の幸せを願っているんだ。わかってくれ。全てお前のためなんだ」


 お父様は私をなだめようとしたようだけど……それは全くの逆効果。

 その言葉で、私の怒りをせき止めていた壁は崩れ落ちた。


「これのどこが幸せと言えるの⁉︎ 初めてできた友達と引き離されて、その子とは二度と会えない海の向こうへ嫁に出されて、一生宝石でできた孤独な檻の中に閉じ込められるのよ? 私は何のために生きているのかしら?」


 お父様にここまで強い言葉をぶつけたのはこれが初めてだった。

 ……なんとなく、これが最後になるような予感もした。


「気持ちはわからなくもないが、お前は宝石が無い環境では生きていけないだろう」


 その通り。私は宝石が無い環境では生きていけない。

 アンバーの誘いに乗って逃げてきたけど、やはり彼女には大きすぎる負担をかけていた。

 あの子の人生を壊さないためにも、これが最善だったのかもしれないわ。

 でも、私は……、私の人生は。

 綺麗なだけの宝石で飾られた牢獄で、ずっと一人。

 そうしないと生きていけないと言うけれど、それ、生きていると言えるのかしら?

 お人形と何も変わらないわ。

 だったら、宝石の無い世界で、たとえ生きることはできなくても……‼︎


「なら、そこで死んだ方がましかもしれないわ」


 それが私の答え。

 私は座席からゆっくりと立ち上がった。


「サラ、お前なんてことを……! おい、何をする気だ!」


 ここでぐずぐずしていたら止められてしまう。

 躊躇う暇なんて無かった。


「何も見えなくていい、私はアンバーといたかったの!」


 ──そう叫び、私は一心不乱に馬車から飛び出した。


   ♢♦︎♢


 ……時間の流れが淀んだような感覚がする。

 普通なら私の身はすぐに地面に打ちつけられるはずなのに、まだ宙に浮いている。

 とはいえ、非常にゆっくりではあるが少しずつ落下しているのを感じる。

 目の前は真っ暗。安心できる宝石の空間を捨てて、何も見えない闇の中へ。

 走行中の馬車から、外を見ないでいきなり飛び降りる。

 この身が地面に堕ちるとき、私は間違いなく大怪我をするわ。

 下手をしたら死ぬかもしれない。

 だけど、それでよかった。

 後先考えずに飛び降りてしまったけれど、これでお父様が少しでも私の主張に耳を傾けてくれるなら。お嫁に行かなくて済むのなら。

 たとえ、それが死という形になったとしても。

 私は目を閉じた。もう、宝石なんて見なくて済むように。


 ──その時。 

 ガチャン、と何かが砕けるような音がした。

 それは私の中から聞こえた。骨が砕ける音かしら。

 ……いいえ、それはおかしいわ。だって、私はまだ空中にいるもの。

 不思議に思った私は、思わず再び目を開いた。


「‼︎」


 言葉にならない衝撃が私に降り注いだ。

 そこには、驚きの光景が。そう、光景。

 私は……()()いたのだ。


 ──光。

 最初に感じたのはそれだった。

 しかし、宝石の輝きではない。

 ……月の光だ。

 決して華やかではないけれど、安らぎを与える穏やかな光。

 宝石には放つことのできない輝き。

 それを皮切りに、今まで入ってこなかった情報が一気になだれ込んでくる。

 夜空の色。果てしなく漆黒に近い青。

 石畳の道。円を描くように並べられて模様ができている。

 レンガ造りの建物。一部の壁には蔦が這っているものも見える。

 帰り道を急ぐように通りを歩く人々。

 宝石なんて一つも付いていない、普通の馬車。

 素晴らしい。ただそう思った。

 醜いだなんて、ありえない。


 そう考えた時、私の視線はひとりでにある人物へと強烈に吸い寄せられた。

 ただ、視界の右端に女の子が見えただけだった。

 にもかかわらず、その瞬間に彼女以外見えなくなって、姿が鮮明に映し出されたのだ。

 まるで虫眼鏡でも使ったかのように。

 私より歳の若そうなその子は、こちらに向かって走り出す体勢で固まっていた。

 驚きと絶望が混じったような表情で。

 背は低く、痩せ細った体型。

 赤毛を肩より上で短く切り揃えている。

 屋外にいることが多いのだろう、日焼けして浅黒い肌。

 じゃあ、目は──


「……アンバー」


 やっと見つけた。

 やっとこの目で見ることができた。

 それにしても、酷い顔ね。

 そして……優しい人。

 馬車が動き出してしばらく経ったのにまだその距離にいるということは、あの子は馬車を追いかけていたということ。

 あんな恐ろしい目に遭ったのに、最後まで私を見送ってくれようとしていた。

 そして、飛び降りた私を見てこの反応。

 いつもの澄ました態度からは想像もつかないわ。

 まあ、とにかく私も今すぐあなたのところへ走って行きたい。

 そのためには、この状況を無傷で乗り切らないといけないのだけど……。

 今なら叶う気がする。

 幸い、時間は今もなおゆっくりと流れている。

 私は飛び降りた勢いで後ろに曲げていた足を下に伸ばしてみた。

 姿勢を整えると、落下というよりは宙から舞い降りる構えが出来上がった。

 そしてそのまま、ゆっくりと両足で地面に着地した。

 足でそう感じたのではなく、この目で見たの。


   ♢♦︎♢


 私が着地したことで、一連の奇跡は終幕した。

 全てがゆっくりになった世界も元通り。

 何事も無かったかのように人々は歩き出す。


「サラ‼︎ おい、今すぐ止めろ!」


 背後からはお父様の怒鳴り声。

 馬車は動き続けているようで、少しずつ遠ざかっていく。

 こうしてはいられない、お父様から逃げなくては。

 どうせまた捕まるとしても、最後にアンバーを目に焼き付けておきたい。

 私は走り出した。

 自分の目で地面を見て、道行く人を避けて。

 ……大切な人の元へ。


「それがお前の幸せなのか?」


 微かにお父様の声が聞こえたような気がした。

 でも、私は振り向かずに走り続ける。

 私が走っていることに気づいたアンバーも、驚きを隠せない間抜けな顔のまま、私の方へ向かってくる。


「アンバー‼︎」

「サラ‼︎」


 私たちは、勢い余ってぶつかったかのように抱き合った。


「サラ、まさか目が見えるのか……⁉︎」

「そうよ! 呪いが解けたみたい」


 そう答えると、アンバーはさらに強く私を締め付けた。


「危ないことすんなバカ、どれほど心配したと思ってるんだよ……!」


 今にも泣き出しそうな、震えた声。


「ごめんなさい。もうあなたに会えないと思うと、命がどうでもよくなってしまって」

「……二度と命を粗末にするな」


 アンバーは私を抱きしめるのを止め、顔が見えるまで離れた。

 綺麗な目ね。それも、本物の琥珀以上に。

 アンバーはさらに言葉を続ける。


「あたしがずっといてやるから」


 真剣な表情で、真っ直ぐ私の方を見ながら。

 その言葉はまるで愛の告白のようで、私の胸をざわつかせる。

 でも、ずっと一緒なんて無理な話。

 それはさっき嫌というほど理解した。


「まさか、また逃げるって言うの? 無理よ。お父様はどこまでも追いかけてくるわ」


 私は背後を確認した。やはり、お父様の馬車が遠くからこちらに向かってきている。


「いいや今なら逃げ切れる」


 悲観的な私とは反対に、アンバーは自信あり気な顔をしている。


「これでもさっきは気を遣ってちゃんとした安全な道を選んでたんだ。目が見えるようになった今なら、多少の無茶もできる。ここには金持ちが知らない道がたくさんあるんだ」


 多少の無茶、金持ちの知らない道。なんだか嫌な予感がするわ。


「ねえ、その道ってまさか屋根の上とか排気口の中とか言わないでしょうね」

「せいかーい」

「嘘でしょ……」


 見事に推測が的中し、私は嘆く。


「さあどうする。サラ、あんたに危険なことする覚悟はあるか?」


 アンバーは試すような、挑発するような目で私を見つめた。

 ……そんなこと、聞くまでも無いのに。

 だって、さっき馬車から飛び降りたのよ?


「あるに決まってるでしょう。でも、さっき危ないことをするなと言ったのは誰かしら」

「えー、誰だっけ」


 私が指摘すると、アンバーはとぼけた顔で肩をすくめた。


「ま、危ない場面になったらあたしが守ってやるよ。それじゃあ、ついて来い」


 アンバーは歩き出し、手招きをする。


「ええ、どこまでもついて行くわ」


 そう返事をし、私たちは闇に溶けるように夜の街へ消えた。


   ♢♦︎♢


 樹海のような街。

 壁という壁を登って、降りて。

 土の底へ、深く、深く。

 地上の人は誰も知らない、暗闇の世界。

 でも、そこにはあなたがいるから。

 地底の琥珀が私を照らすから。

 その一筋の光だけで私は満たされるの。


   ♢♦︎♢


 瞬く間に奇跡の夜から一か月が経った。

 あれから、私たちは住む場所を変えひっそりと暮らしている。

 アンバーが面倒を見ていたスラム街の子たちが少し気がかりだけど、あの子たちは「僕たちは大丈夫だよ」と笑顔で私たちを見送ってくれたから、それを信じたいわ。

 幸い、今のところヴィリアーズ家の者は一度も目にしていない。

 でも、私たちを見つけられないというよりは、探すのを諦めた……そんな気がするの。


 生活の方は、アンバーに渡した大量の琥珀のおかげでそこまで過酷というわけではない。

 けれども、お金には限りがある。

 そこで、先週からついに私も働き始めることになった。

 育ちの良さそうな見た目ゆえか、想定よりもいい条件で働けることになったのは嬉しいのだけど、皮肉なことに私を雇ったのは装飾品の加工場だった。

 ……労働って、大変なのね。

 私が何の苦労も無く得ていたジュエリーの数々が、ここまで辛い労働のもとで作られていたなんて。

 でも、働くのはきつくても実に満たされた生活を送っている。

 椅子で休んでいた私は、床であぐらをかいて座っていた可愛い同居人の方に目をやった。


「ねえ、私のどこが好き?」


 ふと気になった疑問をアンバーに投げかけてみた。

 ずっと不思議だったのだ。あんなわがまま令嬢だった私を、どうして好きになってくれたのか。


「なんだよ急に。まるで恋人みたいなこと聞いてきて」


 アンバーは呆れた顔をしている。

 私にとって、この子の表情が移り変わるのを見ることは何よりの楽しみ。


「気になったのよ。私の何が好きで誘拐なんて真似をしたのか。まさか、容姿が美しかったからとかではないでしょうね?」

「あんた、随分とお顔に自信があるみたいだな……。まあいいや、答えればいいんだろう? そうだなあ……」


 アンバーは腕を組んで考え込んだ。


「気が強いようで怖がりなとことか、反応が大げさでいじりがいがあるとことか、言い方がキツいのが逆に話してて清々しいとことか……」

「なんだか、褒められている気がしないわね」


 すると、アンバーは突然立ち上がった。

 彼女は椅子に座っている私の前に移動し、屈んで私と目線を合わせる。

 二つの琥珀の光が私を射抜く。


「……でも、一番好きなのは目かな」

「やっぱり見た目じゃない」

「最後まで聞けって」 


 アンバーは屈むのをやめ、私の目の前で再びあぐらをかいてこちらを見上げた。


「あたしのことを嫌な目で見ない金持ちは初めてだったんだ」


 アンバーの瞳は、嬉しげかつ寂しげな輝きを放っている。


「それはものすごい皮肉ね。見えてなかったんだもの。……というか、私だってあなたのことを小汚いとか言ったじゃない」


 私は恥ずべき過去を思い出して唇の形を歪めた。


「あれはお父様の受け売りだろ。あんたはちゃんと考えを改めて反省もした。とにかく、サラは他の奴らとは違ったんだ。綺麗な目だった」


 結局見た目じゃない、と口を挟んだら怒られそうだからもう少し様子を見ましょう。


「宝石以外眼中に無くて、好きな物に真っ直ぐな目。ある意味子供みたいに純粋な目。最初はそれが好ましいと思った。だから、明日も来いと言われた時は嬉しかった。報酬抜きでだぞ?」


 思ってたよりちゃんとした理由で安心した。

 でも、そうなると宝石を求めなくなった今は……?


「そんな不安な顔すんなって。サラの言いたいことはわかってる。なら今は、だろ? 宝石に執着するのを止めた後のあんたは、今度はありとあらゆる物事をキラキラした目で見るようになった。そん時は呪いが解けて無かったから見るってのは比喩だけど」


 そこまで言うと、アンバーは妙にかしこまった顔になった。


「それでな」


 まるで大事なことを話すかのように、一呼吸おいてから。


「あたしだって好きでこんな生活してたわけじゃないし、時には自分の環境が嫌で嫌で仕方なくなる時だってあった。この世に生まれたことを後悔することもな。そんな時に、あたしの貧乏暮らしの話を聞いて夢中になるサラを見ると、なんだか救われたような気になったんだ。あたしも誇りを持って生きていいんだって」


 ゆっくりと、間を置きながら。一つ一つの言葉から、アンバーの心の重みを感じた。


「アンバー……」


 知らなかった。いつも飄々と生きているように見えていたこの子が、影でこんな苦しみを抱えていただなんて。


「だから、本当は別に宝石なんて要らなかったんだ。むしろあたしが礼を言いたかった。……サラは、あたしに生きる自信をくれた」


 美しい琥珀の瞳は心なしか潤んでいるように見えた。


「も、もう恥ずかしいから終わりな! 湿っぽいのはガラじゃねえし!」


 しかし、もっとよく見ようとしたところでアンバーがくるりと座り直し、背を向けてしまったので確認はできず。


「……そうだ。話変わるけど、最初に貰ったアクアマリンを手放せなかった理由、わかった気がする」


 アンバーは背を向けたまま次の話題を切り出した。


「あのアクアマリンは、あんたの目に似てたよ」

「そう? 具体的にどこが?」

「あのなあ、自分の目の色ぐらい覚えとけよ」


 アンバーは勢いよくこちらを振り返った。

 私がとぼけたせいで、さっきの照れ臭い空気はすっかり消えてしまったみたい。


「まあ、言われてみればそんなような色だった気がしてきたわ」


 アクアマリンのような、透き通る海の色。


「ああ、改めて見るとよく似てる」


 アンバーは私の目を覗き込んだ。


「それにしても、可愛いわね。私があなたの目に似た琥珀を身につけるずっと前から、あなたは私の目に似たアクアマリンを大事に取っておいていただなんて」


 私は少々おちょくるような口調で話した。

 ところが、アンバーは予想に反して怒らない。


「……あんたのお父さんに取られちまったけどな」


 どうやら、結構失くしたことを気にしているみたい。

「そんなに悲しまないでちょうだい。私だって、あの琥珀は屋敷に落としてしまったわ。 ……それに、今の私たちには不要でしょう?」


 私はアンバーに微笑みかけた。

 私の言葉の意味を理解できない様子のアンバーは、不思議そうな顔で私を見つめ返す。

 琥珀も、アクアマリンも必要無いわ。だって……。

 私は椅子から降り、あぐらをかいたアンバーの目の前に膝をつけて座り直した。

 ようやく二人の目線の高さが合い、お互いの瞳の距離はほとんど無くなった。


「だって、本物をいつでも見られるもの」


 アンバーの目が、一瞬驚いたように見開かれる。


「……そうだな」


 そして、私たちは顔を見合わせて笑った。

 お互いの目を、しっかりと見つめ合いながら。

 なんて幸せな時間なのかしら。ずっとこうしていたいぐらいだわ。

 でも、いつまでもそうしているわけにはいかない。

 なぜなら、私たちは働かないと食べていけないのだから。


「さーて、そろそろお仕事の時間ですよ、お嬢様?」


 アンバーはそう言いながら立ち上がり、私に手を差し出した。

 この子はヴィリアーズ家の使用人の真似が気に入ったらしく、たびたび私の従者のような振る舞いを見せてくる。


「もうお嬢様じゃないでしょう」


 そうは言いながらも、私はちゃっかり彼女の手を取って立ち上がる。


「ふーん、ならあたしのエスコートもいらないな」


 アンバーは意地悪な笑みを浮かべると、私から手を離し、ふらっと先に出て行ってしまった。


「ちょっと、置いていかないで」

「もう自分で歩けるだろー」

「……はあ、薄情な従者だこと」


 私は呆れつつも笑顔を浮かべていた。

 この子といるのは、本当に楽しくて仕方がない。

 それから私は、アンバーを追って路地裏に出た。

 アンバーがすいすい進む一方、私はふらふらした足取り。

 目が見えるようになっても、依然として路地裏の「ばっちい」物を避けるのにはとても苦労するの。

 ……加えて、人を避けるのにも。

 貧しい人は休む家が無いことも多く、道端で座り込んでいることがある。

 狭い通路を塞がれるものだから、最初のうちはよくぶつかって怒鳴られた。

 その度に口の達者なアンバーに助けてもらったわ。

 もうしばらくの間ぶつかっていないけれど、用心はしておきましょう。

 今回避けるべき相手は一人。

 ぼろぼろのローブを纏った、かなり高齢のお婆さん。

 大変そうね。老いた身で路上暮らしなんて。

 ヴィリアーズ家にいたときなら何か手助けできたかもしれないけど、今の私は同じ貧しい民の一人に過ぎない。自分が生きていくのに精一杯だわ。

 私は申し訳なさを感じつつも、老婆の横を通り過ぎようとした。


「久しぶりだねえ、お嬢ちゃん」


 ところが、老婆は私に話しかけてきた。しかも、久しぶりとのこと。

 私は足を止め、老婆の方を向いた。

 本当に知り合いかしら? きっと人違いよ、と思いながら老婆を観察してみる。

 顔には見覚えが無い。

 そんなことより、このローブ、あちこち破れているけど生地自体はかなり上質ね。


「忘れたのかい? まあ、あの頃のお前さんは人に興味など無かったからねえ」


 聞き覚えがあるような声ではあるけど……。


「なら、こっちの方は覚えているだろう。ほれ」


 そう言うと、老婆はローブの中に手をやり、美しい透明な玉を取り出して膝に置いた。

 それは、私が今まで見てきた中で最も美しい水晶玉。

 見たことの無い美しさ……いいえ、私は一度これを見たことがある。


「まさか、あなたは……」

「ようやく思い出したか。あの時の霊能者だよ」


 私の記憶は正しかった。彼女と出会ったのは、もう三年近く前のことになる。


「ようやく宝石以外の物に目を向けるようになったようだね。そしてお前さんは見事に呪いを解いた。それにしても、まさか宝石どころか家まで捨てるとはな」


 老婆は垂れ下がった目をさらに垂らし、歯を見せて笑い出した。

 初めて、この人の顔をちゃんと見た気がする。

 かつての私は、本当に人と向き合ってこなかったようね。

 老婆をしんみりと見つめていると、彼女は私の視線に気づいて笑うのを止める。


「……いい目をしておる。今のお前さんなら心配はいらないようだ」


 あの時、私は老婆に見つめられて不快になった。

 でも、今はどこか清々しい気分になる。


「さて、お嬢ちゃんの成長も見れたことだし、老いぼれは去るとしよう」


 すると老婆は立ち上がり、私が来た方面に向かって歩き出した。


「待って」


 私は慌てて引き止める。


「一つ聞きたいことがあるわ。あの呪いをかけたのは、あなたなの?」

「……もしそうだと言ったら、お前さんはアタシを恨むのかね?」


 老婆は振り返らずに答えた。

 どうかしら。呪いそのものは恨んだこともあった。

 でも、やっぱり……。


「いいえ。あの呪いのおかげで私はアンバーに会えて、こうして二人で暮らしているの。むしろお礼を言いたいぐらいだわ」


 これは私の嘘一つない本心。

 過ちや苦しみは数多くあったけれど、その全てが繋がって今の幸せがある。


「そうかそうか。……では、一つ訂正させてくれ」


 私の答えを聞いた老婆は、振り返って再びこちらを見つめた。


「お前さんは、今もなお宝石しか見えていない」


 ……不思議な言葉だった。

 どうして? 今はちゃんと見えているのに。

 私は老婆に真意を尋ねることにした。


「それはどういう──」

「おーい、サラ。何やってるんだ?」


 しかし、背後から名前を呼ばれ、思わず振り返ってしまう。

 アンバーが、待ちくたびれた様子で路地裏の出口の壁に寄りかかっている。


「ちょっと待って、今この人と……あら?」


 ……そこに老婆はいなかった。

 以前会った時のように、突然姿を消してしまったのだ。


「早く来いよー。遅刻したら怒られるぞ」

「そうね。今行くわ」


 私は老婆を諦め、再び「ばっちい」物を避けながら路地裏を抜けた。

 そこでは、愛おしい琥珀の瞳が私を出迎える。

 美しいものでいっぱいの世界の中で、一番愛しいあなたが。


   ♢♦︎♢


 人々は、かつて私のことを呪われた可哀想な娘だと言った。

 宝石以外の物が見えなくなる呪いに冒された、哀れな盲目の令嬢サラ・ヴィリアーズと。

 でも、私はそうは思っていない。

 だって、たくさんの美しい()()を見て生きていけるようになったのだから。

 私の目から宝石の放つ輝き以外を全て奪った呪い。

 私だけは、この魔法を祝福と呼んだ。

                                   

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