いかにしてその聖女は裏切り、堕落するに至ったか
「君が聖女サマ? 思ったよりも弱そうだね」
斬りかかった剣士を一切触れずに両断し、異形の青年はそう言った。
弓使いに暗殺者、それから他の兵士が武器を取る。
「聖女様には指一本触れさせない」とか「悪しき魔族の将め、ここで討ち取ってやる」とか騒ぐのを、イェラはただ静かに聞いていた。
*
イェラがまだ『夜明けの聖女』と呼ばれる前、イェラの世界にいるのは優しい両親と頼れる兄達、そして親切な村人達だけだった。
村は貧しく、それでも活気に満ちていた。母は機を織り、父と上の兄は畑を耕し、下の兄はよく森で狩りをしたり魚釣りをしたりしていた。幼いイェラは彼らを手伝うという名目でその間をちょろちょろと動き回っていた。
村人達は明るくおおらかで、年は違えどみな友達だった。毎日が楽しくて、幸せだった。
「イェラ」というのは、祖母から受け継いだ名だ。少し古い響きだし、何より言いづらい。それでもイェラは、世代を超えて家族のつながりが感じられるこの贈り物が好きだった。
といっても、祖母のことはよく知らない。イェラが生まれた時にはすでに祖母は亡くなっていた。祖父と二人、仲睦まじい夫婦だと村では有名だったらしい。
祖父母はどこか遠くの国からやってきて、この村に根付いたようだ。当時は移民……否、難民などそう珍しい話ではなかった。魔族を統べるものが現れて国を興し、その近隣に住んでいた人々は祖国を追われていたからだ。祖父母もその動乱の渦中にいて、そこから逃げてきたのだろう。
魔族が住まうは永遠の夜の国。人と魔族の争いは激化し、夜の国から闇が広がるたびに人は領地を失っていった。だが、それはイェラにとっては歴史の話だ。イェラが生まれた時分には、小康状態が続いていたのだから。
魔族の蹂躙によって人間がすっかり疲弊したのと同様に、魔族も蹂躙に飽いていた。永遠の夜を生み出したのは魔族の王だ。その強大な魔力でもって魔族を従えた、ただひとりの悪魔の女王だけが魔族の世界を維持できた。
魔族は本来、昼間の光にひどく弱い。ゆえに女王が昼夜を問わず生み出す闇の外では、本当の夜の間だけしか満足に動けなかった。
悪魔の女王でなければ昼を制することができない以上、人の国をいくら殺戮と暴力で蹂躙したところで自分が王になれるわけでもなし。賢い魔族の中には、人の世の陰に取り入るほうを選ぶものも出た。形を変えたその侵略に、迎合する人の支配者も現れた。
魔族は遊びで人を食い、戯れに殺す。だから他の娯楽を見つければ、そちらに食いつく魔族もいた。魔族が何に娯楽を見出すか、幼いイェラには予想もできないが。
見せかけの和平。惰性による平和。イェラが生まれたのは、そんな時代だ。
ただ、それを快く思わない人間もいたらしい。
そんな不満なんて、片田舎で暮らすイェラには関係のない話だった。だってイェラにとっては、この目に映る狭い世界こそがすべてで、その世界の平穏が保たれるのであればそれでよかったからだ。
だからイェラは知らなかった。祖国の王都で暮らす教会の人間が聖戦の再開を訴えていたことも。悪魔の女王の討伐のため、聖なる義勇軍が発足していたことも。聖戦の象徴たる旗手の登場が待たれていたことも。
しわだらけの教皇よりも、でっぷり太った国王よりも。民衆には、もっとわかりやすい英雄が必要だった。それは歴戦の将軍や、美しく聡明な王女のかたちをしていた。
だが、まだ足りない。もうひと押し、疲弊した民を再び奮い立たせるだけの希望がほしい。おぞましき悪魔の女王とそのしもべによる支配に終止符を打ち、これぞ神の愛だ奇跡だと民衆が納得するだけの偶像が。
選ばれたのが、イェラだった。
ただの田舎の村娘。他に勇者として立った将軍や王女のような政治的な権力はなく、むしろ翻弄される立場の子供。中央で策謀を練る大人には、さぞ御しやすく映ったことだろう。
何故イェラだったのかといえば、イェラは生まれつき変わった目の色をしていたからだ。
上半分が澄み渡る青、下半分が鮮やかな橙。朝焼けに染まるその双眸に、出兵志願者を募るためにわざわざ王都から来ていた聖職者が目をつけた。イェラの意見は聞かれないまま、イェラの存在が中央に知らされた。
すぐに中央から迎えが来た。ぜひとも義勇軍の旗印に、と。
それがどれだけ危険なことか、大人はすぐにわかったのだろう。イェラの両親は、イェラを差し出すことを拒んだ。イェラの兄達は烈火のごとく怒り、イェラを背に庇った。愛しい故郷や家族と離れたくなくて、イェラは泣いた。使者達の強引さを目にした村人は、人さらいだと使者達に向けて石を投げた。
使者達は帰っていった────その二日後、村は魔族の襲来を受けて壊滅した。
人類解放を謳う尊き使徒に無礼を働く、強情で蒙昧な非国民どもは、人知れず罰を受けたのだ。
幸い、近くの町に逗留していた王都からの騎士団が魔族を倒し、唯一の生存者を保護した。偶然にも、その少女は世にも珍しい瞳の持ち主だった。
魔族による永遠の夜を終わらせ、人の世に黎明をもたらす者。一夜にして魔族にすべてを奪われた悲劇の少女。魔族へ復讐を誓い、人の正義を知らしめるべく立ち上がった高潔な乙女。イェラの意思は置いてけぼりのまま、虚偽で飾り立てられたイェラは中央に拉致された。
そして、イェラは『夜明けの聖女』と呼ばれるようになった。
ただそういう特異な色の目を持っていたというだけで、イェラ自身に優れた何かがあったわけではない。
当時のイェラはたった十歳の、学のない村娘だ。そんな平民と同列に扱われることを王女は嫌がったし、労働と言えば畑仕事しか知らない少女を見た将軍は鼻で笑った。
それでも、イェラに偶像としての価値を見出した者の目は正しかった。他者と違う、たぐいまれなる美しき双眸。農民という出自と、悲劇に見舞われた少女というキャラクター。話題性のあるそれらは民衆に親近感を持たせて憐憫を誘い、己の正義を焚べさせるのに十分な効果をもたらした。
いつしか村で起きた虐殺は、『夜明けの聖女』を脅威とみなした魔族が幼きその芽を摘み取るために行ったものだということになっていた。そして勇敢な人間の戦士達が、小さないのちを守ったのだ、と。
それを虚構だと訴えるのはイェラだけで、けれどイェラの声は誰にも届かないまま握り潰された。
王女が出兵と支援を呼びかけ、将軍が兵を鍛えて彼らを率いる。では、聖女は何をすればいいのか。イェラに求められた役割は、その両方だった。
王女と共に民に声をかけ、兵に混じり将軍に師事した。戦場で兵士達と共に馬を駆り、いつか悪魔の女王の首を切る場に立ち会う。それが聖女の役目だった。
神の加護を受けし聖女が傍にいれば、兵士達も恐れず悪魔の軍勢に立ち向かえるだろう、ということらしい。
確かにかつて世界には、神に愛されるがゆえに神聖な力を振るうことができる者もいたと聞く。
だが、自分に特別な力などないことはイェラが一番よく知っていた。それを訴えたところで誰にも聞く耳は持たれない。そんな「本物」はどこにも見つけられなかったし、馬鹿な民衆や使い捨ての兵士を騙すだけなら間に合わせの「聖女」で十分だったからだ。
イェラが戦場で討ち取られれば、人は哀しみの涙を流し魔族への憎しみを煮えたぎらせる。
イェラが生きたまま勝利を収めれば、人は聖女と聖女を見出した中央に神の奇跡を見る。
どちらに転んでも、権力者達には都合がよかったのだろう。
イェラの逃げ場はどこにもなかった。大好きな人達を切り裂いた剣の煌めきも、反響する断末魔の叫びも、むせかえるような血と死のにおいも、イェラの心に深く刻まれていた。
自分が逃げれば、逃げた先でまたあの地獄が生まれるかもしれない。そもそも逃げたところで、一体どこに向かえばいいというのか。頼れる者のないイェラの足はすくむばかりで、忌まわしいあの夜の惨劇はどんな頑丈な鎖よりも強くイェラを縛りつけていた。
それでもひとつ、イェラには意地があった。
大切な人を殺した人間達のために美しく死んでやることはできない、という明白な意志が。
イェラの心はずっと周りから無視されて、置いてけぼりにされてきた。それでも、その想いだけは捨てなかった。
戦場で死ねば、イェラの死体は彼らに利用される。死後、より強固な幻想として塗り替えられない偶像になる。
イェラの本当の言葉は忘れられて、都合のいいよう作られた英雄がイェラに成り替わる。それだけは絶対に許してはいけなかった。
あの日、あの夜、踏み躙られた多くの命。彼らの無念を知るイェラにできることを、ない頭を絞って必死に考えた。
彼らはイェラに、聖女になんてなってほしくなかったのではないか。だってイェラを聖女にするために、彼らは殺されてしまったのだから。
それに彼らは、イェラを中央に奪われまいとしてくれた。彼らは、人としてのイェラを守ろうとしてくれた。
希望の偶像でも、聖女という英雄でもない、ただの村娘のイェラを、彼らだけが知っている。認めている。だからイェラは、いつか必ず普通の人間に戻ると決めた。それしか彼らの魂に報いる方法がわからなかった。
イェラは王女のように、聖女だからと遊興や贅沢に耽ることをしなかった。
『夜明けの聖女』は金や男に溺れず、清貧と貞淑を絵に描いたような人だと噂が立った。
イェラは将軍のように、聖女だからと威張ることをしなかった。
『夜明けの聖女』は決して驕らず、誠実で公平な人だと噂が立った。
いつか本当の平和とやらが訪れた時、しがらみなく表舞台から消えること。それがイェラの望みだった。金も権力も名声も、地位はもちろん愛だって、イェラにとっては足枷だった。それこそが、権力者が聖女をいつまでも飼い殺すために用意した餌なのだと、イェラはちゃんと知っていた。
だからそれらを望まなかった。民にとってのイェラが清く正しい“聖女”でいるうちは、文句などは言わせなかった。
それでも権力者は、イェラを手なずけるのを諦めなかったらしい。
『夜明けの聖女』と呼ばれて六年目に迎えた初陣の時、イェラが率いるよう言い渡された部隊はお飾りの花形の寄せ集めだった。
イェラとともに前線に出る剣士は、篭絡の密命を負っていた。戦争の間にイェラを惚れさせて、自分の陣営にとって都合のいい人形にしたいらしい。
彼はイェラに愛を謳い、何をしても喜ばないイェラを「気味の悪いガキ」「出世のためのただの道具」だと陰で嗤っていた。それでもイェラは動じなかった。
イェラの副官気取りの弓使いも、篭絡の密命を負っていた。剣士は王権寄りの派閥らしいから、教会からの回し者だろうか。剣士の例を見ていたのか、イェラが色恋沙汰に動じないことを彼は知っていた。
だから彼は強引にイェラを組み敷いてその純潔を散らし、屈辱と恐怖による隷属を迫った。それでもイェラは応じなかった。
イェラの護衛を務める側仕えは、見張りと暗殺の密命を負っていた。イェラが剣士からの贈り物を捨てたときも、イェラが弓使いに襲われたときも、彼女はただそれを見ていた。
イェラにとっても、彼女のことはどうでもよかった。彼女がイェラにとって意味のある存在になることがあるとすれば、イェラが国を裏切って逃げ出したときだけだろう。
イェラの部隊に属する兵士は、誰の欺瞞にも気づかなかった。イェラも、剣士も、弓使いも、憧れるに足る英雄らしかった。
偽勇者達に率いられた兵士の士気は高く、他の部隊に比べると快進撃が続いた。将軍が率いる部隊にも勝るとも劣らない活躍をしていると聞かされて、イェラの眉間にはしわが寄った。
恋人面の剣士と主人面の弓使い、それから傍観者気取りの暗殺者と、無知で無邪気な一兵卒。
彼らを率いるイェラの進軍は、どうやら確かに順調らしい。魔族の傀儡の人間の国からの刺客や、遊撃する魔族の夜襲など、あらゆる妨害をはねのけるイェラ達は、少しずつでも着実に永遠の夜の国に近づいていった。
それにつれ、なんとか将やらなんとか卿やらと、何やら力のあるものが敵方にも現れ始めた。
魔族には、組織らしい組織は特にないと聞く。ただ強いものが、勝手に四天王だの元帥だのを僭称して、それを支持する配下を従えているだけなのだと。それらを統括するものこそが悪魔の女王であるという規律以外は、あまりに自由すぎる縦社会だった。
しかしそれは、何かしらの地位を名乗れるだけの実力があると一定数の魔族からも認められているということでもある。その警戒に違わず、己の位階を自称して襲撃してくるものの力は他の魔族とは一線を画していた。自称公爵より自称男爵のほうが強かったときは、なんの冗談かと思ったが。
その日イェラ達が倒そうとした魔族は、辺境伯を名乗っていた。永遠の夜の国と、最果ての人の国の国境に城を構えるからだろうか。
この国境に巣食う魔族を撃破すれば、後に続く義勇軍の本隊も、そしてこれから前線に投じられる新たな兵士達も、一斉に永遠の夜の国になだれ込める。夜の国への侵攻のため、なんとしても討つべき魔族のひとりだった。
朝日が昇ってすぐに城へと奇襲を仕掛け、配下の魔族を討ち滅ぼす。辺境伯への道はすぐに開けた。
「ごめんね、僕は目が悪いからよく見えないんだけど……君達が、聖女サマご一行というやつでいいのかな」
年は二十歳そこそこか。ひょろりとした、背の高い青年だ。
その青年……辺境伯は困ったように笑った。三対の腕は、二本の足と合わせるとさながら蜘蛛のようで。一列に並んだ四つの目に白目はなく、つややかに輝く金属めいた青黒色の瞳はまるで宝石のサークレットのように見えた。
「君が聖女サマ? 思ったよりも弱そうだね」
異形の目がイェラを捉えた。じっと目を凝らし、イェラを見つめている。
そこには侮蔑も嘲笑もなく、ただ事実に基づく感想を述べているだけのように見えた。
イェラが何か応じる前に、功に逸った剣士が剣を抜く。一歩、二歩。詰めた間合いも辺境伯には届かない。かざした剣が辺境伯を捉えきる前に、剣士だったものの欠片が床に散らばった。
剣士の血が不自然にほとばしる。糸だ、と叫んだのは暗殺者だった。確かに彼女の言う通り、剣士の血によって赤く染まった糸のようなものが視えた。
どうやらこの部屋にはあの蜘蛛のような辺境伯が吐いたらしい糸がすでに張り巡らされていて、どういう原理かそれに触れれば人の肉などたやすく切断されてしまうようだ。
ならばこれなら、と弓使いが矢をつがえる。けれどその矢は思うように飛ばず、それどころかわずかに体勢を整えた刹那に弓使いは糸に絡め囚われた。辞世の句は何もなく、彼の生は醜い音で引き結ばれた。
退路はすでにどこにもなかった。暗殺者も、一兵卒も、不可視の糸を赤く彩る獲物に過ぎない。ぼとぼとと肉塊が落ちていくこの部屋は、すぐに血と死のにおいでいっぱいになった。
気づけば無事なのは、その場から一歩も動かなかったイェラだけになっていた。
「あれ。ねえ、聖女サマ。聖女サマしかいなくなってしまったみたいだけれど、どうしたい? 好きにしてくれればいいよ」
「見逃してくれるなら見逃してほしいけど……もしあたし達がここから帰らなかったら、全滅したって思われるよね」
ここでむざむざ彼に殺されたくはない。かといって、退却して本陣に帰らないのも駄目だろう。
部隊の面々とともに、華々しく戦死した英霊として扱われるなどまっぴらだ。国から離れ、背負う部隊もなくなった今、逃げ出せるのかもしれないが……「聖女」が死んだことにされるのは嫌だった。
「あのね、あたし達が全滅したら、すぐに別の部隊が来ると思うの。その部隊も全滅すれば、また新しい部隊が来るわ。でもあたし達はあなたの部下をたくさん殺してしまったから、戦力が足りないんじゃないかしら」
「その時は、城中に糸を張り巡らせておけばいいだけさ。……ああ、でも、赤く染まった糸と死体はその都度片付けないとだめだな。次から次へと攻められるなら、確かに僕一人だと手が足りない。腕はこんなにあるのにね」
自分で言った冗談が気に入ったのか、辺境伯は小さく肩を震わせた。
彼は足元に転がっていた弓使いの頭を拾い、器用に指先でもてあそぶ。弓使いの頭にはぐるぐると糸が巻かれていき、まるで繭の中に閉じ込められているようになった。
「あたし、ここから生きて帰ったら、新しい部隊を連れてあなたに会いに来るわ。あなたの準備が終わったころに。そしてあなたは、あたしが連れて来た人達を殺せばいいじゃない。殺し終わったら、あたしも掃除を手伝うから。それを続ければ、本隊が全滅すると思うの」
「……君は、聖女サマじゃなかったの? 君は人間で、人間の味方なんだろう?」
「そうだけど、そうじゃないもの。あたしは自分のことを本気で聖女だと思ったことは一度もないし」
イェラは思った。自分以外の部隊の全員が全滅したことにしていったん帰投すれば、ここで死んだことにはされない、と。それに、蜘蛛の手伝いを申し出れば、蜘蛛は気分よくイェラを送り出してくれるかもしれない。
でも、それはあくまでもその場しのぎだ。イェラのたくらみに気づいた将軍がイェラを殺すかもしれないし、イェラが死んだと噂を王都中に流すかもしれない。それ以前に、蜘蛛が怒ってイェラを殺すことも考えられる。だからそうなってしまう前に、もっと何かうまい手を講じなければいけなかった。
「面白いなぁ、君。名前はなんていうの?」
「イェラ。ただのイェラだよ」
えら、えーら、いえら。発音の難しい、珍しい名前を蜘蛛の魔族はたどたどしく繰り返す。
「人間は、君の瞳を黎明のしるしと呼んだけど。僕の目には、朝焼けも夕焼けも同じに見える。その二つはとてもよく似ていると思わない?」
イェラの前にいるのは、永遠の夜を信奉する人類の宿敵だ。彼らを打ち破るため、イェラは祀り上げられた。
「だから、人間が君を夜明けの聖女と呼ぶのなら、僕は君を宵待ちの娘と呼ぼう」
けれどこの魔族は、イェラの呪いをたやすく解いた。いつか昇る朝日であれと定められた双眸をこれまで抉り取らずに済んだのは、このときのためだったのかもしれない。
「僕はガルキス。よろしくね。お近づきのしるしに、これをあげるよ」
そして彼は、とても捕食者とは思えない気安さでイェラに微笑みかけた。
「あっ、人間は人間を食べないんだっけ」
「……そうね。ふつう、ご飯としては食べないわ。餌食にする人は、いるけれど」
軽やかに放られた繭を受け取ったイェラは、それを力いっぱい床に叩きつけて踏み潰した。
*
ガルキスが紡ぐ糸は、ガルキスが乗せる魔力によって驚異の切断力や拘束力を発揮する。ただし欠点として、生き物の血を吸いすぎるとその魔力は霧散してただの粘つく脆い糸に変わるらしい。
ガルキスの糸で編まれた防具は、使い捨てだが強固だった。まるで絹織物のような肌触りの防護服をまとい、イェラは城中の掃除をする。
赤い糸を払い、肉片や装備品の欠片をかき集めて、飛び散った血を落とす。二度目となる大掃除は、コツを掴めたのか一度目よりはかどった。
イェラ自身が囮となって連れてきた二つ目の部隊を、ガルキスはたやすく切り刻んだ。けれど、三度目はないだろう。城にはガルキスをあるじと慕う魔族達が再び集まり始めていたからだ。掃除の助けは、もう必要ない。
「イェラ。僕としては、義勇軍だっけ、彼らを全滅させてみたいんだけど。あんまり騒がしいと、女王様の機嫌が悪くなっちゃうかもしれないからね。あと何度君が往復すれば、君が連れてくる人間はいなくなるのかな?」
だから、掃除の後にそう尋ねられたのは意外だった。
「わからない。まだたくさんいるはずだけど、もう誰も来てくれないかも」
「そう。それじゃあイェラも疲れるよね。だからイェラ、その人間達のところに案内してくれる?」
ガルキスは、行きつけの店の紹介をねだるぐらいの気安さでそう尋ねた。イェラが否と答えるなどと、微塵も思っていない様子だった。
そしてイェラもまた、否と答える気はなかった。
*
ガルキスは、イェラのために新しいドレスを仕立てた。何物にも染まらないほど黒く、繊細な意匠のドレスだった。ガルキスの魔力で紡がれたそのドレスは、イェラの肌に不思議と馴染んだ。
「夜明けの聖女よ、何故魔族と共にいる!? 兵士達はどうしたのだ!?」
夜半、二本の腕でイェラを抱きかかえたガルキスは、月を背にして本陣に降り立った。
慌てふためく将軍に、ただ呆然とする一兵卒。闇から現れる配下の魔族が、一人、また一人と抵抗を許さないまま兵士達を屠っていく。
「皆殺しにはしないでね。証人が必要なんだから」
ガルキスの背に腕を回し、イェラは何度繰り返したかわからない注意を促す。配下の魔族はイェラの言うことなど聞かないが、ガルキスには忠実だ。同じことをガルキスが告げれば、魔族達は各々の発声でもって了承の意を示した。
「ガルキス、もう少し付き合ってくれる? 下手に生かして帰しても、“聖女”としてのあたしが死んだことにされるだけだから。そんな噂に塗り潰されないように、生まれ変わったあたしをもっとたくさんの人に見てもらいたいの」
ほうほうの体で消えていったわずかな生き残りを見送り、ガルキスは空いている手を一本使ってイェラを撫でた。あえて生かした生き残りの一人、将軍が落としていった右腕をもてあそぶイェラを見て、ガルキスは微笑とともに頷いた。
イェラはガルキスとともに、かつて通った道を遡った。昼になると人里や街道から遠く離れた物陰に隠れて眠るガルキスに寄り添って野宿し、夜になればガルキスに抱きかかえられて街に侵入った。
夜の間にガルキスが街中に張り巡らせた殺戮の糸は、呑気に出歩く住人達を切り刻む。朝の光に弱いガルキスに代わり、イェラはその血と死のにおいを吸い込んだ。
『夜明けの聖女』が闇に侵食されたという噂は、またたく間に世界中に広がった。もはや聖女は民衆を導く希望の光などではなく、唾棄すべき裏切りと邪悪の象徴となった。
あれは聖女の偽物であり、善戦むなしく死んでしまった聖女の亡骸に魔族が取り憑いているのだ……祖国の首脳陣はそういう言い訳を思いついたようだが、民の怒りの鎮火には追いつかなかった。たとえ変じた理由がどうであれ、情けのない殺戮者に対してまで憐れみと理解を示せるほど民は優しく傲慢ではないのだから。
仮宿に選んだ廃墟に戻る。この街に来るまで、イェラとガルキスはいくつもの国、いくつもの集落で虐殺を繰り広げた。そろそろ十分だろう。
今晩のうちに発ち、ガルキスの城に戻る予定だ。もはや誰もイェラを聖女とみなさない。聖女などというくだらない幻想は失墜し、代わりに魔女への怨嗟が鎌首をもたげていた。それこそイェラの望みだった。
眠りから覚めたガルキスは、戻ってきたイェラの頬にはねた返り血を舐め取った。
「可愛いイェラ、僕の宵待ちの娘。満足したかな? 人間はたくさん死んだし、しばらく手は出してこないと思うけど」
両端の小さめの目と、真ん中の大きい二つの目。ガルキスの異形の眼は、まるで慈しむようにイェラを見つめていた。
イェラが頷くと、ガルキスは嬉しそうに笑った。
「それじゃあ帰ろう。僕の家に。イェラも一緒に帰ってくれる? それともどこかに一人で行くの?」
魔族は何故、イェラをそばに置いてくれるのだろう。特別美しくもなければ頭がいいわけでもない、ちっぽけなイェラを。魔族の考えることはよくわからない。
それでもひとつだけ、言えることがある。イェラの帰る場所は、ガルキスのそばだった。
*
ガルキスは人間に死をもたらす。ガルキスが繰り返す殺戮は、あの夜の惨劇を塗り潰した。
網膜に焼きつく記憶の中のイェラは、なすすべもなく蹂躙される側だった。目の前で大切な人が殺されていくのに、何もできなかった。
けれど今のイェラは蹂躙する側だ。もう、誰もイェラに手出しはできない────イェラが逃げ場所に選んでも、ガルキスは決して奪われない。
ガルキスの城には昼も夜もない。ガルキスも配下の魔族も、そしてもちろんイェラだって、好きなときに好きなことをして過ごしていた。
「ねえ、イェラ。そろそろ君を僕の眷属にしてもいいかな」
イェラを膝に乗せながらその髪を梳き、ドレスのリボンをきちんと結び。瑞々しい果実を手ずからイェラに食べさせ、果汁のついた指を舐めさせる。六つの腕で器用にイェラの世話を焼くガルキスは、うかがうようにそう尋ねた。
「眷属になると、どうなるの?」
「僕のお気に入りだって、僕が自慢できるようになる。イェラを僕の魔力で染めるから、身体から僕のにおいがするんだよ。それだけだけど。僕が女王様ぐらい強ければ、不老不死にもしてあげられたけど」
「不老不死なんていらない。あたし、普通の人間として死にたいの。……でも、眷属になっても今と大して変わらなくない? 今さらだと思うんだけど。それでもいいなら好きにすれば?」
ガルキスが仕立てたたくさんのドレスで着飾られ、どこに行くにもガルキスと一緒で、ことあるごとにガルキスに愛されて。イェラの身体には、ガルキスの残り香のない部分などどこにもなかった。そうあることを、イェラ自身がよしとした。
配下の魔族も、イェラをガルキスのつがいだと認識しはじめている。これ以上何かが変わるとは思えない。
それでもガルキスは嬉しそうに顔を輝かせる。イェラの承認によって眷族にする行為は、彼にとって何か特別な意味を持つらしい。
「ありがとうイェラ。ずっと大切にしてあげるよ。ただでさえ聖女にされて壊れちゃったのに、ここまで魔族にも染められて、可哀想なイェラ。それでもなお普通の人間でいたがる君のこと、とても可愛いと思うんだ」
イェラの四肢を、薄い布状になった糸が絡め取る。ガルキスが愛を注ぐときの癖だ。
拘束されて身動きの取れないイェラを、けれどガルキスはいつも好意を囁きながら優しく抱きしめたり撫でたりしてくれるし、ずっと気遣ってくれるから、恐怖や不安は感じなかった。
乱暴な弓使いとは違い、ガルキスはイェラをお姫様のように扱ってくれる。だからイェラも安心して身を委ねていた。
けれど今日はいつものように、肌を重ねて愛を注がれなかった。代わりにじんわり身体が熱を帯びた。
*
「お披露目に行こう」その一言で、イェラは城の外に連れ出された。
ガルキスと半年ほど一緒に暮らしていたが、永遠の夜の国の領土に足を踏み入れるのはこれが初めてだった。いや、一応ガルキスの城だって領土内ではあるのだが。
ガルキスの城の地下には、鎖で繋がれて飼われている人間がいた。
イェラをペットとするなら、彼らはまるで家畜のようだ。なんのために飼っているのかと問えば、魔族専用の栄養補給のためだとガルキスは答えた。
本来魔族の食事とは、生き物の生気のようなものを吸うだけでいいらしい。肉まで食むのはただの嗜好品としてだ。とりあえず、イェラがこれまで食べた肉料理に人肉は含まれていないようでほっとした。
夜闇に沈む街の中にも、鎖で繋がれた人間が散見された。家畜のようにも奴隷のようにも見える。恐らくはその二種類がいるのだろう。
かつてこの地がまだ人の国であったときから暮らしていたのか、それともどこかから攫われてきたのか。魔族に手を引かれ、着飾ったイェラのことを、彼らは恨みがましげに睨みつけていた。
これも何かの魔術なのだろう。点在する灯りは炎とは違うようだが、かがり火よりも明るく道を照らしている。夜と言えど視界は悪くなかった。
道行くものはほとんど異形、すなわち魔族だ。たまに、服を着て、鎖にも繋がれず、自由に出歩いている人間も見かけた。彼らの共通点は、手の甲に奇妙な刺青があることだ。
「ねえガルキス、あの人達は?」
「どこかの誰かの眷属か、魔族に忠誠を誓った人間だよ。あのしるしが見える? これからイェラにもあれを入れてもらうんだ。魔術の刻印だから痛くないよ、大丈夫」
「そうなんだ。痛くないならいいや」
イェラと境遇を同じくする人間は他にもいるのだ。そのことがイェラを勇気づけた。
彼らはどう見ても普通の人間だった。イェラの目には、人と魔族が手を取り合って生きていく、新しい社会の形としてしか映らなかった。
「それにあれがあれば、自分の主人か女王様以外には傷つけられなくなるからね。魔族を傷つけられなくなるけど。……要らなくなったら手首ごと斬ってから殺して捨てる決まりだけど、僕はイェラを捨てないから安心してよ」
ガルキスは、うっとりとイェラの手の甲を撫でた。
連れてこられたのは、とても大きくて豪華な宮殿だった。きっとここに悪魔の女王がいるのだろう。
ひとに似たもの、けものに似たもの。宮殿には多くの魔族がいた。刻印を持つ人間も散見された。美味しそうな食事が用意されていて、綺麗な音楽も聞こえる。
まるでパーティーだ。イェラはずっと聖女として修行していたし、権力者が多く集まるような場所には好き好んで行かないようにしていたから、華やかな場は新鮮だった。ここには無理やりイェラを引きずり出した者もいないし、マナーのなっていないイェラを嗤う者もいなかった。
悪魔の女王は、鋭い牙と山羊のような角の生えた美しい女性だった。
天真爛漫に微笑むその姿からは、とても一撫ででいくつもの国を滅ぼした残虐さは感じられない。彼女の瞳は赤と黒にわかれていて、それがイェラに奇妙な親近感をもたらした。
悪魔の女王のそばには、顔に刻印を持つ青年が立っていた。けれど他の刻印持ちの人間と違うのは位置だけではない。彼のそれは、刺青ではなく焼き印だった。
「女王様、宰相様。この子が僕のイェラです。どうかこの子に刻印を与えてください」
「イェラ?」
ガルキスは堂々と宣言して跪く。イェラもとりあえず座ってみた。宰相と呼ばれた青年は、イェラをまじまじと見つめていた。
珍しくて言いにくい名前にもかかわらず、宰相はあっさりイェラの名を呼べた。まるで、以前から呼んでいたことがあるかのように。
「噂には聞いていたが、まさか本当にその目を持っているとは。……あの二人、よく生き延びたな」
「どうかなさいまして? おまえが駄目だと言うのなら、刻印はあげないのでして」
「……いや、なんでもない。与えてやるといい。お前に刃を向けないのなら、害はないからな」
宰相は首を傾げた女王にそう告げて、イェラから視線を外した。女王はイェラに向けて手をかざす。
「わたくし様の名において、おまえに祝福を授けましょう。喜びなさい、おまえも今日からこの国の民でして」
ばちり、一瞬だけイェラの手の甲の上で光が迸った。そこには、魔族の所有を示す刻印が刻まれていた。
「これでイェラは、僕だけのイェラだ!」
「そうだね、ガルキス。あたしはもうどこにも行けない。……ううん、どこにも行かない」
ガルキスは六本の腕でイェラを抱きしめた。だからイェラも抱きしめ返した。
他の魔族も、刻印を持つ人間も、イェラを歓迎した。その中において、イェラは特別でもなんでもなかった。ただの一人の人間だった。
イェラはとっくに聖女なんかではなくなっている。魔族に身も心も堕とされて、魔女とそしられるようになっていた。
それでもイェラは気にしなかった。それにイェラは、“ふつう”を手に入れた。あたらしいせかいのなかでへいわにいきるふつうのにんげんに、イェラはやっとなれたのだ。
*
ガルキスとの蜜月はずっと続いた。しあわせだった。
多分この日々は、イェラが死ぬまで続くのだろう。いつか死ぬそのときは、ガルキスの手によって殺されたいというのはイェラのひそかな願いだった。
「人の誇りも忘れて魔族の虜囚となった哀れな女め。彼誰の魔女よ、せめてここで殺すことでその魂を救ってやる……!」
ガルキスの膝の上にちょこんと腰掛け、六本の腕でしかと抱きとめられたイェラを、戦しか知らない哀れなひとがた達が睨む。
その数は五人。いたずらに世界に戦火をもたらす彼らは、自らを勇者と名乗っていた。またどこかの国が義勇軍を発足させたのだろうか。それとも、祖国の残党かもしれない。
イェラの祖国は数年ほど前に、夜の国への侵略行為に苛立ったらしい悪魔の女王によってまばたき感覚で滅ぼされた。だから世界は、少し平和になったと思ったのに。まだこうして、血と戦に酔うひとがたが現れるとは。
「僕もいるのに。悲しいなぁ、君達は僕のことを見ていないよね? 視線の先にいるのは、僕の可愛いイェラかな? ねえイェラ、どうしたい?」
目の悪いガルキスは、膝の上のイェラをじっと覗き込む。イェラの存在を確かめるようにぺたぺたと肌に触れるガルキスに接吻をして、イェラは静かに微笑んだ。
「それが救いらしいから、あのひと達を殺してあげて」
ガルキスは、イェラの意思を置き去りにしない。
血しぶきが糸を赤く染め上げる。これで世界は平和に一歩近づいた。
ガルキスは配下の魔族に掃除を命じる。イェラを愛おしげに抱きかかえて立ち上がり、ゆっくりとイェラの四肢にヴェールのような糸を纏わせていく。きっとこのまま寝室に連れて行かれるのだろう。
少し恥ずかしくて、けれどそれ以上に嬉しくて。魔族と人は子供を作りづらいけれど、前例がないわけではない。ガルキスとの子供ができれば、きっと未来の架け橋になる。
────人と魔族が手を取り合える新しい世界に、勇者はいらない。