赤から青へ(2)
おそらく、闇町で最初に「情報」というものそれ自体を扱い始めたのが、ハナダ出版社だった。それまで、闇町で活動する組織はそれぞれの金儲けの片手間に情報の奪い合いを繰り広げるだけだった。それでも、それは戦争とも呼べるほどの泥沼的な死闘だったのだが、しかしあくまでも自分の優位を獲得する為の手段でしかなかったのだ。ハナダが初めて、これを目的として据えた。
ハナダは日刊新聞の発行から着手した。闇町で起こる日々の出来事、権力の応酬、金と物の流通を、たとえ表面的なものであれ、ともかく記事にして皆に行き渡る情報とする。情報の開放を行ったのだ。反響はじわじわとやって来た。自分に不利な情報を晒されたくない、あるいは有利になる情報がもっと欲しいという各組織が、揃ってハナダに圧力を掛け始めた。危険なポジションだった。だが、青は上手く、信じられないくらい上手に立ち回り、そのポジションを固めていった。情報市場の独占。安く買い上げ、高く売り捌く、情報の仲買だ。それと平行して、闇町の内部と外部の情報の行き来にも手を加えていった。どんな情報でも必ずハナダの手を通して流通するように、町の構造そのものへの改革を試みた。無謀な計画だった。全てが成功したわけではない。だが、青はどうにか勝利を収めた。その矢先の失踪である。
従って、警察からの情報が真っ先に(不法に)入って来たのも、幸か不幸かハナダビルの事務室だった。「川に転落した子供の捜索をしていたら、別人の遺体が上がった。闇町の住人ではないのか」と。
初めのうち、ハナダの重役達はその情報に目もくれなかった。青の後任に北泉を据える手続きに追われて、それどころでは無かったのだ。第一、死体が出たのなんのという方面の処理は赤波書房という小さな組織が担っている。ハナダの出る幕ではない。せいぜい、闇町の住人らしき死体が警察の手に渡った事を赤波に知らせてやるくらいだ。
気付いたのは、八羽島だった。仕事が一段落ついて皆が気を抜いた時に、一人机に向かって個人プレーを押し進めていた八羽島である。彼は数時間前に入って来たきり見向きもされていなかったメールを、ふと確認し直した。そして青ざめた。
『……確認に立ち合った両親が自分の子供ではないと主張。その根拠は①胸に見覚えの無い文字(刺青?)②転落時と服装が違う③ズボンのポケットから見覚えの無い鍵……』
鍵? 鍵だって?
何か、それは予感のようなものだった。
先程、と言っても日付が変わってしまったから昨夜だが、たまたま廊下に出たら北泉がロッカーに本を幾つか仕舞い込んでいる所だった。「キー見付かったんだな」と声を掛けた所、それまでようやく機嫌を直し掛けていたかに見えた北泉がさっと顔色を変え、ついで目を逸らし「違う、こじ開けたんだ!」と言い返したのだ。八つ当たりだ、と直感的に思った。北泉は、八羽島に対して腹を立てているのではない。昨日からずっと、何か違う事の為にむっつりして神経を尖らせていたのだ。そう感じられた。居合わせた木山も、事務室に入ってから「なんかあの方、後ろ暗い処でもありそうな態度?」と囁いた。そうなのだ。怒っているというより、何かうんざりしたような、また不安で気掛かりな事を抱えているような、そういう落ち着きの無い態度なのだ。突然ボスが消えて困惑しているのなら分かる、後任に指名されて先行きが不安だというのならそれも分かる、だがそうではない。この一晩、今後の為の様々な手続きを進めて行く間も、北泉は何処か上の空といった目付きだった。とりあえず最もてこずりそうな部分を片付け、どうにかやって行けそうな兆しが見えてきても、北泉の様子は変わらなかった。八羽島の事なんかどうでも良いみたいで、誰に話し掛けられても同じ応対だった。
いつからだ?
目の前の文章を何度も目でなぞりながら、八羽島は記憶を辿った。青がいた時は、彼はいつも通りだった。そうだ、あの朝、ロッカーキーが消えたのだ。妙に皆ご機嫌で、床に這いつくばって探したりして。そんな暇があったら寝ろと青に言われたっけ。その後しばらくも、普段通りだった。その日、青が消えた。やっぱり、青が消えてからだ。俺はなんだか無性に悔しくて、あいつに掴み掛かって――いや、違う。その時も、おそらくまだ、北泉は今とは違っていた。あんな暗く、ぴりぴりした目付きになったのは、もっとその後だ。
翌朝からだ。
八羽島は腹の底の方から沸きあがるざわざわとした不安を感じた。事務室を見回す。森谷がしょうもないコンピュータゲームをしている他は、皆何処かへ出掛けるか、突っ伏して眠るかしていた。北泉は見当たらない。
「モリさん、モリさん」八羽島は立ち上がって森谷の机に歩み寄った。
「なんだい、まじめ君。自由時間はリラックスする為にあるんだぞ」
「水死体の件、聞きましたよね」八羽島は隣の椅子を引き寄せて座った。
「ああ。警察が持ってる体な? くだらない話だと思うよ」
「くだらない?」
「大体、土左衛門なんて見られたものじゃないのは八羽島さんも知ってるだろう」森谷は画面にずらりと並んだトランプの束をあっちからこっちへ、こっちからあっちへと、しきりに移動させながら、片手間に言った。「体がパンパンに膨らんじまうんだ。顔とか体つきなんかで本人とは思えまいよ。服だって変色するし。いろんな所にぶつかって傷だらけになりゃあ、まるで暴行されてから川にぶち込まれたように見えるだろう。だからね、遺族は本人じゃないって頑張るものさ。信じたくないだろ。これが自分の子供だなんてなあ。持ち物が違う、服が違う、見た事ないあざがある、あったはずのほくろが無い、いろんな事言って目を背けようとするんだ。当然じゃないか。俺だって身内の事だったらそうなるさ」
「青さんじゃないかと……」
「そう思いたくなるのは分かるけどな。だが、赤の他人だ。いや、この場合、青の他人か?」森谷はにやにや笑った。「もう三日くらい探し回って、結局見付からなければ両親も諦めるさ。早とちりだよ、早とちり」
「でもね……」八羽島はここで声を低めた。「……北泉、なんかおかしいと思いません?」
「そうかな……色々ストレスもあるんだろう」
「それだけとは思えないんです。仕事が不安なのかと思えば、仕事中も上の空だし……さっき、ロッカーキー見付かったのかって聞いたら、なんだか物凄く怒るし……あのメールには、ズボンのポケットから鍵が見付かったって」
「ああ、それで、その鍵で、ね。ははん。推理か」
「考えてみたんすよ。いつから北泉がおかしくなったか。ずっと、俺の事を怒ってるんだとばかり思ってたんです。でも、どうやら違うらしい……あいつがあんな顔つきになったのは、青さんがいなくなった夜の、その翌朝からです。一晩中何処か行ってて、朝帰りだったっしょう。何処行ってたんでしょうか」
「ふうーん……ふふん……」森谷は顎に手を当ててまたにやにやした。「あの晩に、彼が青さんを突き落として来たと?」
「可能だったかも知れない、そして動機があったというだけです」
「動機……社長の座か……出来過ぎてる気がするな……」
「確かめてみたいんすよ」八羽島は力を込めて言った。「俺だってこんな疑いは持っていたくありません。だから、一言電話して、確かめたい」
「警察にか?」森谷は初めて画面から目を離した。
「あの組織だって馬鹿じゃありません。両親が首を振ったというだけの理由でこっちに連絡してくるはずがない。何か確たる証拠があって、それを伏せてるんすよ。あいつらのよく使う手です」
森谷は首を傾げた。「まあ、あんたがサブリーダーだよ」