451は空だった(4)
潜水オジサンは、容疑を否認した。最後まで否定し続けて、言い逃れた。それ以上の追及はできなかった。左坂は「ふてぶてしい野郎」と言って大変くやしがっていた。
「間違いだったのかな」リンはセンと自転車を並べて、のろのろこぎながらの帰り道、ぽつりと呟いた。
「何が?」とセンが言った。今日もまた死ぬほど暑くて、センは頭がぐらぐらしていた。
「犯人さ。あの人じゃなかったのかなあ」
「いや、あいつだよ。他に誰がいる?」
「可能性が非常に高い、ってだけなんだ。絶対にあの人だっていう証拠が無い。だから口を割らせる事ができなかったんだ」
「でも、あいつだよ。これに懲りてもうしないだろ」
「うん……青だったら、こんな手落ちはしないのに」
「――手落ち、でもないだろ。証拠が無いものは無いんだから」
「すっきりしないな」
いろいろな事が、すっきりしなかった。犯人が確定しなかった事も、動機が本当に財布目的だったのかという事も、また、盗んだ物を返した理由も。そもそも、犯行の方法だって、ただ一つというものではなかった。その説明が一番簡潔で、理にかなったように思えるというだけ。それが真実だという保証は無い。
「真実は、いつも一つ――のはずなのに」
「ああ、それは違うよ」意外にも、センは穏やかに反論した。「真実って、無いんだよ。どこにも。ただ、みんながこれは正しいって納得できるようなものを、真実って言うことにするんだ」
「だから、それは、一つでしょう?」
「一つじゃないよ。みんなって言っても、いろんなみんながいるわけだし。国が違ったり、時代が違ったりすれば、真実も変わる。これは、緋鷓の受け売りだけどな……太陽が地球のまわりを回っているのは、嘘じゃないんだって」
「そりゃ、当然、地球は――え、太陽?」
「うん。地球を固定して考えれば、太陽は確かに地球のまわりを回ってるよ。だから地上から見た時そう見えるんだろ? 実際おれ達にとってはそれが真実なんだよ」
「でもね、セン、それは無茶だよ」
「物理の世界では、な。他ならぬ物理オタクの緋鷓がそう言うんだ。物理の世界では、地球を太陽のまわりに回しとかないと、都合が悪いから、そういう事にしてるんだって。一番、簡潔で、理にかなった説明が付く、という理由で、それを真実だという事に決めたんだ。なんだってそうだろう?」
「ん……まあ、でもさ、やっぱり、真実っていうのは――だって、本当の本当は地球が回ってるんだぜ」
「太陽から見れば地球が回ってるんだよ。地球から見れば太陽が回ってるんだよ。火星はどうだ。地球から見ると、あれは時々逆行するんだからな。さまよってるから、惑星だろ。要は、どの星から見るか、だ。太陽から見れば、みんな一つの法則で説明が付く」
「うーん」
二人はゆるやかな坂を、こがずに下って行った。生ぬるい風が、二人の顔面をなでてゆく。
「まあさ」坂が終わってから、センは静かに言った。「盗みとか、嫌がらせとかなんてさ、全部きれいに解決したってすっきりするもんじゃないよ。おれ、あの人が白状したとしても、やっぱりすっきりなんかできないもの」
「うん、それは、そうかもね」
「探偵っていい仕事じゃないよな」
「ま、そうだね。ゼンの言う通り、これからは盗賊団にしようか。でもなんか、こうなっちゃうと盗賊って響きもあんまりいい気がしないね」
「海賊も似たようなもんだしな……」
二人はしばらくああのこうのと候補を挙げて吟味した。
「ねえ、拾ったものを自分のものにするのは、盗みの始まりだと思う?」リンはいろいろ考えてからそっと聞いた。
「ああ、ねこばばってやつか」
「僕が今持ってる倫志郎のプレートは、どうかな?」
「え? そんなの気にする事ないよ。ゴミみたいなものじゃないか、お前以外の人にとっちゃ」
「でも、そう思っていろいろ拾い集めているうちに、他人の物も自分の物だと思うようになる――そういう事に抵抗が無くなる――という事は、あると思う?」
「んー」センはちょっと考えた。「んー。そういうふうにも、言えるのかな」
「そう言う人もいる」
「でも、おれは今回被害者になってみて思ったけど、ドロボウが何故いけないかって、その理由は他の犯罪と一緒だと思うよ。された人が傷付くからだよ。おれ、盗まれたって思ったとき単純にショックだったよ。戻ってきても、なんか嫌な感じだったし、今もちょっとすっきりしない――それが、悪いっていう意味なんじゃないかな」
「そうか」リンは首を傾げた。それから笑った。「じゃあ良かった。僕は、このプレートは僕の物だね」
「うん、それはおれが保証する」センも笑い出した。「リンて、結構気にするんだな、そういう事」
「今までは気にしてなかったけど、今朝ね――」
リンが思わず電話の事を言いかけた時、センが小さく「あ」と言った。二人はもうセンの家のすぐ近くまで来ていたが、門の前に誰かが立っていた。
金茶色の髪をした、ちょっと華奢な少年。背の高い門をじっと見上げ、手を伸ばしかけ、ためらうように引っ込めた。
「ゼン!」センはいきなり怒鳴って、自転車を乗り捨てて駆け寄った。ガシャーンと自転車は横倒しになって、後輪が空転した。リンはあっけに取られた。
「ゼン! ゼン! 大丈夫かお前」センが相棒の顔を覗き込もうとすると、ゼンは何も言わずにセンに飛びついた。「ゼン?」
「―――どうしたら」ゼンはセンの肩を痛いくらいきつく掴み、下を向いてうめいた。「どうしたら」
ゼンの着ているものは全体に薄汚れて、あちこち破れたりほつれたりしていた。髪もくしゃくしゃだ。腕や顔に、引っかいたような擦り傷がいくつもできている。相当派手に転んだようだ。
「行ってきたのか? 闇町に?」
「外側だよ。中まで入ってない……入れなかった」ゼンは力が抜けたように、門の前にしゃがみこんだ。
「闇町?」リンは思わず顔をしかめた。「君たち、僕に隠れて何かやってたの?」
「今朝勝手に出かけたんだ」センが暗い顔で言った。「心配したんだぞ」
「ごめん」ゼンは消え入りそうな声で言った。
「何か分かったのか?」
「乗ってた」と、ゼンは言った。
「乗ってたって?」リンは、センの顔と、ゼンのうつむいている様子を見比べて、急速に不安を強めた。「なんの話? 何が起こったの?」
「リン、本当に――」センは小さな声で言った。「知らなかったんだな。今朝、ニュースを見なかったのか?」
「え?」リンはどきりとした。リンが起きてきた途端、テレビを消してしまった母親の表情が、さっと蘇ってきた。あの会話。ダンとの電話。「闇町で、何か?」
「飛行船が爆発したんだ」センはじっとリンを見て言った。「闇町の上空で。日本政府がからんだトラブルだって。それで、ゼンが――」
「確かめてきた」ゼンが、立てた片膝に顎を乗せて疲れ切った声で言った。「現役時代のコネで、情報を買ってきた。赤波書房は全員乗ってた。うちの父も、ダンも、リンの――叔父さんも」
リンは数秒間、言われた意味が分からなかった。それから急に、何かがはじけるように状況を理解した。「そんな、そんなはずない、僕は今朝」電話の事を話そうとして、リンは黙り込んだ。「――何時頃?」
「六時四十分」ゼンが答えた。
電話の事は言うまい、とリンは胸に刻んだ。
「その情報、信用できる?」センはゆっくりと聞いた。
「僕が買える範囲では、一番」ゼンは言って、それからリンを見た。
「リン、何て顔してるんだ?」ゼンは急に驚いたように言った。「そんな顔するんじゃないよ。飛行船事故って、飛行機ほど死なないんだぜ。みんな生きてるさ。そんな顔するなよ」
「嫌だよ、沢山だよ」リンは一歩下がって、投げ付けるように叫んだ。「本当の事を言って。青は死んだの?」
「青さんは分からない」
「その事故、本当の話?」
「本当だよ。本当に、本当だよ」
リンは、じっと考えた。思い浮かべてみた、それは、奇妙で、唐突で、ぽろりとどこかから出てきたような話だった。リンは自分がどんな気持ちでいるのか、感じ取れなかった。静まり返るようでもあり、嵐が吹き荒れるようでもあった。何も分からない事はなかったのに、何もかも訳の分からない、でたらめな言葉の組み合わせにも思えた。
何もかも突然だった。
「どうする?」センが、普段通りの口調で、さっぱりとした声で言った。
「まず、母さんに知らせないと」ゼンは立ち上がった。
「その後、どうする?」
「どうする?」ゼンは弱く笑ってリンを見た。「二人に任せるよ。プールでも行こうか?」
リンはちょっと首を傾げた。「プールなら、海のほうがいいな」
「よし、じゃ、海にしよう」センが決めた。「すぐ行こう。まだお昼だ」
「旅に出よう」リンはいきなり言った。
「そうだ、それがいい」ゼンは門を開けて入って行く。
日差しは空からも降り、アスファルトに照り返して下からもぎらぎらと降る。リンはちょっと目を閉じた。かすかに、風が吹いていた。
「リン、荷物を取って来い」センがちょっとたってから言った。「水着と、着替えと、歯ブラシだ」
「そう? 着替えはいくついるかな」
「そうだな――今着てるのの他に、もうひとそろいあればいいだろう。あまり多くても邪魔だもの」
「本当に旅に出る?」
「本当に旅に出る。いいだろう?」
「うん、とてもいいよ」リンは自転車のスタンドを上げる。
「お前の家に行くよ。用意して待ってろ」
「分かった」
それからリンは自転車をこいで、ぐんぐん自分の家へ帰った。焼けつくような暑さの中を、だらだら汗をこぼしながら。
(「ロッカーの隣人」・終)
「君のいない船」に続きます。
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