451は空だった(3)
「簡単な事なんだよ」リンは、左坂氏に頼んで借りた二枚のコインを手の中でもてあそび、カチャカチャ鳴らしながら、更衣室のロッカーにもたれた。
「おれには難しい事だな」センは隅に置かれた小さなベンチに座ってリンを見上げていた。隣で、左坂も同じように見上げている。彼はにやにやしていた。
「僕ら、間違ってたんだ。特にその始まりは、センなんだ。センが、『盗まれた』と言ったのが、始まりなんだ。それで僕もゼンも、言った本人のセンも、センの服と財布は鍵のかかったロッカーから抜き取られたって思い込んだんだ。盗むという言葉から、持ち去る、抜き取る、どうにかして鍵をこじ開けるという状況を連想した。でも違うんだ。センの持ち物は、ロッカーから消えたんだよ。もっと正しく言えば、消えたように見えたんだ。それをセンは『盗まれた』と言い換え、僕らは『抜き取られた』というふうに置き換えた。ここまでオーケイ?」
「オーケイ」と聞き手二人は言った。
ここで、利用客が一人二人上がってきて奥で着替え始めたので、リンは立ち位置を移動し、ほとんど使われる事のない、プールサイドに出る所のすぐ手前のロッカーにコインを入れ、鍵をかけた。
「さて―――」リンは二人に向き直り、続けた。残り一枚のコインと、今閉めたロッカーの鍵とをもてあそびながら、「本題に入る前に、犯人が何をしたかという事を一応考えてみないといけない。つまり、動機というものをね。二通りが考えられる。嫌がらせか、コソ泥かだよ。嫌がらせのほうは、その動機は犯人に聞いてみなきゃ分からないけど、単なるコソ泥なら、センが狙われたのには理由がある。入る直前、僕にいい物をあげると言って財布を見せびらかしたでしょう。それを犯人に見られたんだ。お金よりいい物、って言ったよね。だから、知らない人が耳に挟んだら――特に、『手癖の悪い』人が聞いたら――ちょっと興味そそられる言葉だったんじゃないかな。それが、コソ泥だった場合の動機だよ。それでね、結局、犯人が何をしたかと言うと――」
ここでまた邪魔が入った。五、六人の男達がぞろぞろと上がってきて、リンとベンチに座った二人の前を通り過ぎて行った。もうすぐ昼時なので、午前に来た利用客は一斉に上がっていくのだ。
「それで―――」とリンは続けた。「嫌がらせにしろコソ泥にしろ、犯人はある方法でセンの服と財布を盗み出し、自分のものにしたけれど、何か理由があって夕方までには返してしまった。嫌がらせだったなら、センを困らせただけで充分満足したんだと思う。盗みが目的だったなら、財布を開けてみて、中に何もめぼしいものが入っていないのを見て、がっかりしたか良心がとがめたか――とにかく返す気になったんだ。それで、すぐ見つかってセンの手元に戻るように、451番のロッカーに入れて、返したってわけ」
「――ふむ」左坂は組んでいた足を逆に組み直した。
リンはちょっと間を置いて、服を着終わった人達が更衣室から一人出て行き二人出て行き、だんだん減っていくのを待った。
「さあ、ここからが、本題だよ」更衣室が再び静かになると、リンはにっこりしてまた喋り出した。「センがロッカーを使う。ロッカーに服を入れる。鍵を閉める。つまりこうするんだね」リンはポケットから五雁倫志郎のロゴプレートを出して手近なロッカーに入れ、コインを入れて鍵をかけた。カチャン、とコインの嵌る音がした。「オーケイ? もう開かないね。じゃあいいよ、セン、この鍵で開けてごらん」
リンはセンに鍵を渡して言った。
センは立ち上がり、鍵に書かれた番号のロッカーに差し込み、回した。コインが戻ってくる。センは開ける。中は空だった。
「消えたね?」リンはちょっと首を傾けて、いたずらっぽく笑った。「つまり、盗まれた、抜き取られた、と僕らが言った状況が、これだよ」
「くっだらねえ」左坂が鼻で笑った。「おい、こりゃ面白いねえ。その鍵は違う鍵だよ。お前さんがまだ持ってるほうのが、今閉めた鍵だ」
「まあ、そういう事さ」リンは自分の手元に残った鍵で正しいロッカーを開け、プレートを取り出した。「消えたっていう事は、多くの場合そういう事さ。テーブルマジックでは、よく物を消すんだけど、大抵の場合そのタネは一緒なんだよ。もとから無いものを、あると思わせる。無いものを、消す。そういう事。451番ロッカーには、もとからセンの服なんか入っちゃいなかった。451番ロッカーは初めっから空だったんだよ。センは空のロッカーを開けたから、開けたら何も無かったんだ。まったく当たり前の事なんだ。犯人はただ、財布が欲しかったんだよ。服なんかきっと、全然興味なかったんだ。でも、財布と服が同じ場所に入っていたから、両方消すしかなかったんだ。犯人は――鍵のかかった場所から何か盗みたい時必ずそうするように――鍵を、盗んだんだ」
「分かった!」センは大声で言った。「あの時だ。鍵を投げて遊んでいた時!」
「オーケイオーケイ。僕に謎解きをさせてよね」リンは調子づいてきて、楽しそうに言った。「センは457番ロッカーに服を入れた。鍵をかける直前、僕にいい物をあげると言って財布を見せびらかしたのを、犯人に見られた。犯人は僕らが更衣室を出た後、自分の服を入れたロッカーには鍵をかけずに、センの隣のロッカー、451番のロッカーに鍵をかけたんだ。空のままのロッカーにね。そして、プールの中で泳いでいる間に、センの鍵を盗み、替わりに自分の持ってきた鍵を置いた。だから、その鍵でセンが開けたロッカーは、空だった。451は空だった。初めからね。センの服は隣の457に入ってたんだ」
「ほおう」左坂は、『故障中、使用禁止』の張り紙をされた451番ロッカーを見やった。「じゃ、あの張り紙はぜーんぜん、意味なかったわけだ」
「うん、そうだね。センはほら、初め間違えて457を開けようとしたでしょ、覚えてる? ゼンが大笑いしてさ。でも、間違ってたのは鍵のほうだったんだ。センは無意識に正しいロッカーを開けようとしてたんだよ。覚えていないつもりでも、体で覚えてたんだ。この辺だったってね。それで、間違えたわけさ」
「うーむ」センは腕を組んで首をひねった。「それはどうかなあ。それこそ、素で間違えただけかもしれない」
「でも、人の記憶ってあなどれないんだよ」リンは力を込めて言った。「いくら、番号なんかよく見てなかったって言っても、泳いでる最中に番号が全然違う、例えば321とかに変わったりしたら、センはおかしいって気付いたはずだよ。457と451だったから分からなかったんだ。7と1は似てるから。その上、どっちも同じ高さ、一番上の段のロッカーだ。ロッカーは縦に六つだから、一足す六は七。451の隣は457になる。これが、違う高さだったりしたら、センは気付いたはずなんだよ。このロッカーは、自分が服を入れたロッカーじゃないってね」
「じゃあ、そこの部分は犯人にとって、偶然が味方したって訳か」センは言った。「おれがたまたま7の付くロッカーを使った事と、たまたま鍵投げをした事が」
「うん、でも、それほどの偶然じゃあないよ。ここのプールってなんにもおもちゃが無いから、子供はみんな鍵投げゴッコして遊ぶし、7か1の付くロッカーは十個のうち二個、つまり五個に一つはそういうロッカーだからね」
「おみごと、おみごと」左坂は三回拍手した。「さすが名探偵。さすが、ルパン一味」
「それじゃ、犯人は――」センはベンチから立ち上がった。
「僕らが着替える時その場にいてセンの財布を見たのは、一人だけ」リンはもったいつけたみたいに言った。「その人は僕らのすぐ後に着替え終わって、後ろから追い付いて、シャワーを……」
「あの潜水オジサン!」
「一番怪しいね。プールの底すれすれに泳げば、鍵は文字通り目と鼻の先だもの」
「おれの財布が欲しくなって?」
「それ以外の説明が付かない。センの知り合いじゃないとすればね」リンは微笑して首を傾けた。「それとも、服が欲しくなったのかな?」
「でも、待て」センはリンをじっと見つめ、ロッカールームを眺め渡し、考え込んだ。「誰にでもできたはずだ。あのオジサンじゃなくても」
「どうかな? そうかもしれない。でも、すんなりと実行できたのは、あの人だけだ。他の人間が鍵を手に取ったら、僕たちに分からないはずが無い。僕たちは確かにずっと鍵を見ていた訳じゃない。視界に鍵が入っていない瞬間は何回もあった。でも、その一瞬に、鍵に触る事ができたのはあの男だけだ。分かるよね? 彼の手の届く所に、鍵があったわけだから」
「でも……」
「まだ、不満そうだね。じゃ、センはゼンを疑う? それとも僕を? 451を空のまま閉めて、鍵投げの最中にすり替える。コインは二つ必要になるけど、それもどうにか上手くやったとしよう。僕らには可能だったよ。そうでないという証明が必要かな?」
「そう、次から次へと言わないで」センはベンチに座り直し、ちょっとのあいだ額に指を当てて考えていた。それからやがて、顔を上げた。
「納得した?」
「うん、まあ」センは煮え切らない調子で言った。「正解だと思うよ」
「じゃあ、行こうじゃないか」左坂が立ち上がった。「奴をとっちめにな」
そこで三人は更衣室を出た。受付には、別な若者が座っていて、「コインを返却――なんだ、お前か」
昨日プールサイドで監視員をしていて、左坂と立ち話をしていた若者だった。かなり痛んでいる茶髪をかき上げて、「早く行ってやりなよ」と左坂に言った。
「来たのか?」
「うん。常連だからすぐ分かるさ。そこのボクに言われた通り、落とし物が届いてるってだまして奥で待たせてある。かなり挙動不審だよ。さっきから二回トイレに行ってる。あと一分待たせたら、やっこさん今度こそトイレの窓から逃げ出すね」
「いっそその現場を押さえてやろうか。写真に撮ってネット公開するって脅迫したら、いくら出すかな」
「そこまでしなくても」センはちょっと困って言った。「おれ、何も盗られてないし――」
「いいや、脅迫はともかく、ぎゅうって目に遭わせてやる」左坂は事務室に入る戸を開けた。センとリンが続こうとすると、手を振って押し留めた。
「外で待ってろ。この建物の外で。結果は知らせてあげるから」
二人はびっくりして若者を見つめた。
「遊びじゃないよ、お前さん達」左坂はちょっと微笑んだ。「ここは俺に任せろ。その為にお前さんの推理を聞いたんじゃないか。――さあなんでいつまでも見てるんだ? 俺は美術品か?」
「いつもそう言ってるんだから」と受付の若者が笑った。




