451は空だった(1)
俺はいつも通りの程度に元気だけどお前はなんだか良くなさそうなのでなんとかしなければいけないと考えた。詳しく言うとセンとゼンから彼らの父親経由で俺に手紙が届いた。そういう事は絶対にするなって言っといたのに無鉄砲な。その手紙によると二人は近日中に本土へ無断で帰るつもりだそうだから、お前がこの手紙を読む頃には帰っているかも知れない。会ったら言っとけ、俺がこの事で呆れ返って怒ってるってな。その手紙に、お前が本土で一人で辛い思いをしているらしいと書いてあった。なんだかお前はFにいるセンとゼンに手紙をいくつか送ってきたけど、一番最近届いた封筒の中には手紙の替わりに引き裂いた白紙が入っていたんだそうだ。センとゼンは事を重大と見てすぐ本土に帰る。そういう事がもっと長ったらしく書いてあった。紙を破るなんて俺は大した事だとも思わない、現に俺の父親を自称しているお前の叔父さんはいつも紙どころか服や新品のティッシュボックスを引き裂いて、散らかったゴミを全部ゼンの父親に片付けさせているけど平然としたもんだ。無論そんな例は全然参考にならないし、お前はまだ若いし、俺はお前が心配だから八月の第一水曜日にお前の為に時間を取ろうと思う。その日の午前三時丁度にお前の携帯電話に公衆電話からかけるのでもし起きられたら取って欲しい。最近闇町は危険が多くなってもう俺の携帯からはかけられなくなった。もしこの手紙が水曜までに届かなかったらこの話は忘れて構わない。三時に起きられなくて寝過ごしても構わない。十回かけて出なければ俺は諦める。お前は俺がお前の為にそれだけやったという事だけ覚えていてくれ。お前とはもう会えないかも知れないでもそんな事も何でもない。お前はいつか俺を忘れるけれど俺はお前を一生忘れていない。お前は幸せになれる人間だから何でも忘れて幸せになった方がいい。俺の人生はあまり長くないし俺は幸せにもなりたくないのでどんな事でも一生覚えている。お前はそんな風に思っちゃいけない。
D.
封筒には朱書きで「速達」とあった。ぎりぎりではあった。
リンは夕食後すぐに布団に入り、目覚まし時計を二時半にセットして無理やり寝た。夜更かししてずっと起きているという手もあったが、どうも三時まで起きていられる自信が無かったのだ。夜更けに起きるとさすがに外は真っ暗だった。何回も欠伸が出たが、まもなく緊張が高まってきてすっかり目が覚めた。
電話は本当に三時かっきりに鳴った。一秒とたがわなかった。リンは一回目の着信音が終わらないうちに受け取った。
「はい、五雁倫志郎です」リンは思わず勢い込んで言った。ところが、
「はい、高瀬青です」受話器から飛び出したのは、予想もしなかった声だった。
「は?」リンは今が夜中だという事も忘れて叫んでしまった。「青?」
「そうですよ。文句ある? 君は私が青だという事に何か文句があるのかな」青はいつもの調子でまくし立てた。「眠くて眠くて仕方ないのに、わざわざ、君なんぞの為に電話に――ちなみに私が大嫌いな文明の利器ベストワンだよ――そんな電話の野郎めに、君ごときの為に出てやったこの私に、君は文句があるんだろうね」
「大ありだ。ダンをどこへやった。ダンを出せ」
「お前に大介は渡さない」青は上機嫌に芝居がかって、がらりと口調を変えた。「大介は現在この俺のものだ。欲しかったら金払え、一万円で手を打とうか」
「奇妙に安いね」
「リン、大丈夫か?」青から受話器をひったくってダンが出た。「元気?」
「ああ。びっくりした」
「びっくりさせてみたんだ。面白いかと思って」ダンは相変わらずのぼそぼそとした口調だった。
「うん。面白いよ。とても面白かった」
「手紙届いたか?」
「昨日届いたよ」
「やっぱり、随分遅れたな。シャバの郵便局の嫌がらせなんだ」
「ふーん……」
ちょっと沈黙が流れた。
「どうだ、元気か?」ダンが聞いた。
「うん、元気だよ。センとゼンは一昨日帰ってきた」
「何か言ってた?」
「なんにも。ホームシックになったから帰ってきたって」
「へえ。それは本当かもしれないな」
「僕のためだって事は知ってたけどね」リンは自嘲するような調子で言った。
「なんだか、気に食わないみたいだな」
「――どう思えばいいのか分からないよ。あの手紙の事なら、あれは何も考えてなかった。手が勝手にやったんだ」
「いいんだ。勝手にやらせとけ。センとゼンも事もな、沢山こまらせときゃいいんだ」
「まあね――」リンは少しの間にいろいろな事を考えた。十遍も読み返したダンからの手紙。いつの間にか聞き慣れていた青の声。ダンの声。「――そのつもりだよ。楽しくやってるよ」
「俺は」言いかけてからダンは言葉を考えている様子だった。「――まあいいや。元気そうで。ちょっと声が聞きたかっただけだ」
「なんだか、ダンのほうが元気なさそうだよね」リンは少し笑って言った。「あの手紙の文面を見た感じ」
「手紙? 手紙になんて書いてあった?」
「ダンは僕を忘れなくて、僕はダンを忘れるって」
「そんな事書いたかな。書いた気もするけど」
「ダンみたいな面白い奴僕は忘れられないよ。覚えていて辛くなる事も無いしね」
「――それは何より」ダンは低く呟いた。
「え? なんて言った?」
「何よりって言ったよ。青がもう少しお前に言う事があるそうだ」
「ヘイ少年」リンの返事も待たずに、相手は交替した。青は随分浮かれているらしかった。「その後、進展はあったか?」
「僕がそう聞こうと思ってたんだ。ダンと進展はあったの? 今、デート中?」
「いや別に」青は突然けろりと真面目な声に戻った。「進展はあって無きがごとし。と言うのはつまりあったんだけどね」だんだんまた浮かれてきて、「あったと言うかあったと言うか。ってか、この先は君には言えないけどね君は何しろ未成年だからね私もだけど――」
「分かった。青さん、あんた酔ってるね」
「酔わないよ。ワイン一本くらいじゃあ」
「いや、酔うよ、ワインは」
「酔わないの、俺は。今、口が勝手に喋ってるだけで理性はちゃんと働いてるよ。その後探偵活動に進展はあったか無かったか私は聞いたんだよ、さっき」
「君の理性が働いてるとは僕には信じられないけど――」リンは青につられて楽しくなってきた。「――探偵団なら今活動中だよ。また事件に巻き込まれちゃってね」
「ほうほうほう。謎の事件かい?」
「盗難事件だよ」
「とうなん? 君らはそんな俗っぽいくだらない取るに足らない事件を相手にしてるの? よっぽど暇なんだね羨ましい」
「でも、謎の事件なんだよ」リンは青に、今回の事件について説明した。青は聞きながら、時々ダンにも要約して話を伝えた。
「それで?」聞き終わると青は挑発するように言った。「まだ解決してないの?」
「青はもう謎が解けたとか言う気なの?」
「君の要領を得ない説明じゃそもそも何が謎なのか分からないよ。犯人? 動機? 方法? どれを取ってもどうとでも言える事だね――まったくつまらない事件だ」
「僕はね、犯人がもしプールの利用客だったなら、センの服をどこに隠したか、これだけははっきり言えると思う」リンは青の言葉には構わず、昨日からまとめてきた考えを並べた。「自分のロッカーの中に入れて、鍵をかけたんだ。いいかい? 僕らはセンの服が無い事に気付いて更衣室中を探し回ったけど、鍵のかかったロッカーの中に何が入っているかは調べられなかった。これが理由の一。理由の二は、仮に犯人が盗んだ物を持って更衣室を出たなら、元の場所に戻すためにまた更衣室に入らなきゃいけない。だけど更衣室の入口はずっと受付のお兄さんが見張っていて、一度帰った客がまた来たら怪しまれる。だから犯人はセンの服を更衣室の中にしか隠せなかったんだ。僕らがセンの服を探した時、センの服は更衣室にあったんだ。でも、僕らは見つけられなかった。鍵のかかったロッカーに入っていたからだ」
「ふむふむ」青はさも感心したような声を出した。「論理積だな。更衣室の中であり、かつ、君たちの捜索を免れた場所、って訳だ。まあ抜け穴は沢山あるけど確率は高いね。それで?」
「ん――今んとこ、それだけ」
「それだけ? 私ははっきり言ってやろう。君はバカだ」
「うるさい」
「疑わしい人間を私が一人一人挙げて差し上げよう」青はどうやらいつもの調子でやり始めるらしかった。この口調で喋りだすと長いのだ。「まず考慮の範囲はね、その時その場に居た全員、つまりあんたと双子とプールの職員とその他の客だ。その場に居なかった人間については、考える必要は無いと思うね。だって現実問題として、これはその場に居なければ不可能な犯罪だから。それから、こういう場合考えとくべきなのは、その場に本当は居たのに、居ない事にされている人間。見落とされている人間。そういうのが居れば、そいつは犯罪を行うに当たって有利な立場に居た事になる。したがって、探偵としては決して見落としちゃいけないポイントだ」
「そんな事分かってる」内心彼女の隙の無い論理に舌を巻きながら、リンは強がりを言った。
「見落とされやすいのは、第一にプールの職員。居るのが当たり前と思われる。したがって人の記憶に残らない。第二に、泳ぐ以外の目的でプールに来た人。例えば配管の工事とか、郵便物の配達とか、職員の昼飯の出前を運んでくるとか、そういう目的で来た人間だ。これも人の記憶に残りにくい。また、制服なんかを着てると、制服という枠の中で認識されるから、例えば青い作業着を着ていたという記憶は残っても、実際そいつが何歳だったのか、どんな人相だったのかは印象に残らない事が多い。そんな訳で、居て当たり前と思われる上に、注意も払われない、後から『そう言えばああいう奴が居た』などと指摘される可能性も少ない、そういう立場の人間がいたら、まず疑ってみるべきだよ。特に、プールの職員に絞って言えば、正規の職員よりアルバイターが怪しい。正規職員は何かとしがらみがあるし、組織への義理やバレた時のリスクや、同僚からの監視の目、いろいろ面倒な事があるからね。その点アルバイトってのは気楽で手軽で後腐れの無い立場、せこい手を使って小金稼ぎも悪くない。実際、私がプールのロッカールームから物を盗みたくなったら、まずはロッカールームを掃除するアルバイトに雇ってもらう。逆に、私がもしロッカールームの掃除係だったら、隙あらばロッカーをこじ開けて財布を盗むね。分かるかな?」
「青ならやりかねないね」
「そう? そう見えるかな。事実、私は盗癖があるんだ」青は冗談ともつかないような事を言って流した。
リンは言葉に詰まった。
「次に挙げるべきは」青は淡白に続けた。「部内者。あんたか、センか、ゼンだ。まず動機がある。仲間に対する悪ふざけ、あるいは個人的な悪感情。友情のもつれ? 何でもいいけどね。知り合いであるという事は、それだけで動機を増やすって事。見ず知らずの人間に嫌がらせをしたくなる人間がそうそういると思う? 知り合いだからこそ、文句も出るし、憎しみも生まれるし、殺意も生まれるんじゃないか」
「僕らの友情をなんだと思ってるんだ?」
「俺はそれくらいになれれば羨ましいと思ってる」青はリンの抗議を遮った。「人を憎むとか、人を許せないというのは、それだけ相手に興味がある証拠だ。相手に興味があって、相手に期待をかけていて、その期待にそぐわないから腹も立つし文句も出るんだろう。つまり、好きなんだ。好きだから、許せないんだ。極端な話、自分の興味の無い人を憎む人間がいるか? 憎むって事は興味があるって事だろう。相手が憎らしくなるくらいなら、君らも充分打ち解けて仲良くなったという事だ。喧嘩するほど仲がいいとはそういう意味だと俺は思うけどな」
「……それで?」
「そう、君ら三人は怪しいという事だね。まったくもって疑わしい。三人でセンの服を探したの? 分担して? どこをどう分担したのやらね。自分の担当の所に隠しておいて、無かったと偽れば済む事じゃないか。信頼というやつには、根拠が無いからね。特に、俺は、三人の中で一番怪しいと思う奴を挙げてやろう。それは岸全一だ」
「何故」リンは反射的に言った。
「つい最近まで不良じゃなかったかな? 暴走族のヘッド? まあ暴走はする奴の勝手だが、万引きなんかはどうかな。私はそこらへんの不良文化は詳しくないけど、新人のワルガキには先輩ワルが強制的にさせるという話も聞くね。盗みは癖になるよ。だから盗癖って言葉があるんだろう。手癖が悪い、とも言う。手に癖が付くんだ、つまり慣れると考えるより先に手が動く。ゼンに聞いてごらんよ、あんた盗癖持ちじゃないのって。多分殴られると思うけどね」
「ゼンは僕を殴ったりしないよ」リンはちょっとむっとして言った。「ゼンは不良なんかじゃないよ。すごく、いい人なんだ」
「そうか? でもリンがもしゼンに盗癖持ちかって聞いたら、ゼンは怒ると思うよ。友達だからね。君が好きだからこそ、ゼンは怒るはずだ。もし怒らなかったら、ゼンは君の事なんか興味ないって事」
「ああ、分かった分かった。青は堕落した人間だったね。やっと思い出したよ」
「そうかい、思い出してくれてありがとう。だんだん不機嫌になってきたようだね。つまり私に対して腹が立っている。私に対して興味、あるいは期待を抱いている。私が好きなんだ」
「黙れ馬鹿」
「残念だけど黙れないよ。怪しい奴はまだ沢山いる。まず、他の利用客の中にセンの知り合いがいれば、そいつが怪しい。いたか?」
「そう言えばいたねえ。三人くらい」
「要チェックだ。知り合いは知り合いって時点で怪しい。さっきも言った理由でね。大体それを抜きにしても、悪い事するって時に、見ず知らずの他人にはやりづらいものだよ。盗みってのは他人の所有物を自分の物にするって事。特に衣服なんかは非常にプライベートな所有物だし、知らない人の服をその人に無断で手にする事を考えてごらん? 君みたいな育ちの良い少年なら何の後ろめたい所が無くても、そういう事するのは気が引けるんじゃないかな。抵抗があると思う。物には、使う人の魂が乗り移るという事だ。実際そんな事は起こり得ないとしても、僕らはそれを『感じる』んだよ。使った人の体温や、匂いや、それ以外のいろいろなものの総合としての、気配を。見知らぬ人の服には見知らぬ気配、知ってる人の服には知ってる気配、そういうものさ。他に、そうだな、リンやゼンの知り合いはいたかな」
「ゼンの知り合いはいなかったようだけど……」リンは吉井モモの事を説明した。気乗りがしないので簡単に済ませるはずだったが、青は鋭く察して矢継ぎ早に質問を浴びせ始めた。リンはしぶしぶ答えた。
「なんだか庇いたがるようだね。リンの彼女なの?」
「別に、全然。男みたいな子」
「直前にリンの家に来ている所が意味深だな。金具を届けに? 彼女が集めたの、それ」
「うん……いろんなもの拾うのが趣味なんだよ」
「その女は疑わしい」青はさっそくやり始めた。「直前に会った知り合いは、そうでない知り合いより怪しいね。悪ふざけにしろ嫌がらせにしろ、顔を突き合わせるからそういう事を思い付く。遠距離いじめなんてあんまり聞かないじゃないか。直前に顔を合わせたという事は、きっかけ、あるいは心理的動機付けになり得るよ。ちょっと抽象的な話になるけどね」
「僕の友達なんだよ。あまり勝手な事言わないで欲しい」
「おいおい、寝ぼけた事言わないで。探偵の仕事は疑う事だよ。医者があらゆる人間を公平に診なきゃいけないように、探偵はあらゆる人間を公平に疑わなきゃいけないんだよ。友達も身内もあるもんか。リンには悪いけどその吉井さんて人、盗癖持ちの可能性があるよ。落ちている物を拾う癖があるんだろう? 元は他人の物だったかもしれない物を、自分の持ち物にしてしまう事に抵抗が無い。君はお母さんやなんかに物を拾うのははしたないって教わらなかったかな。それはただカッコ悪いってだけじゃない。自分の物でないものを自分の物にする、それは、盗みの始まりなんだ。もちろんボルトを拾うのが悪いって訳じゃない、でもそういう事がきっかけとなって抵抗感が薄れていく。初めは誰の物でもないさもない石ころだったのが、そのうちボルトになり、学校の備品になり、個人の持ち物になり、お金になる。そこにハッキリとした境界線は無いんだ。自分の意志できちんと境界を引いてどこかで引き返さない限り、いずれ無邪気な趣味がれっきとした犯罪癖になってしまうよ。私がこんな事を言って君は今怒ってるみたいだけど、こんな事を言うのも私自身が盗癖持ちだからだ。闇町の底辺で暮らした事がある者は、みんなどうせそうなってしまう。初めは抵抗があってできないんだよ、でも、だんだん慣れていくんだ。どんなものでも自分のポケットに入れば自分の物って思うようになる。それが人間の本能なんだ。もう一つ余計な事を言うけど、吉井モモさんは素顔で男子更衣室に入れるような外見かな?」
「本当に余計だよ、もう黙れ」リンは冷たく言った。「僕らが楽しくやってるのを君はそうやってぶち壊すんだね。もういいよ。ダンと替わって」
「怒った? 悪かった。謝る」青はまるっきり冷静に言った。「すまなかったよ、酔っぱらいのたわごとだ」
「ダンと替われ」
ちょっと間があって、ダンが出た。
「元気か?」
「いや、最悪だ。ダンはよくこんな女に耐えられるね」
「―――んー」ダンはお茶を濁した。
「青さんはダンに優しいの?」
「さあ。考えた事ない」
「ダンは青さんに優しいのに。君は損してるよ、きっと。不公平だ」
「そうかな……」ダンの返答はどこか平和ボケだった。
「あーあ」まもなく怒りの収まってきたリンは、仕方なく溜め息をついた。「ダンは、青のこと好きなんだね」
「そうかな……」
「そうかな、じゃないよ。ダン。君ね、あんまりいつまでも女の子を待たせると、ふられちゃうんだから」
ダンは無言だった。
仕方ないのでリンは話題を変えた。「ダンは、今回の事件、どう思う?」
「そうだな。楽しそうだな」ダンは大真面目に言った。
「いや、そうじゃなくてね。犯人とか動機とか方法について、何か意見ない?」
「さあ……」ダンはちょっとの間考えた。結構真剣らしい。「……あのさ、結局何が不思議なのか分からないって青は言ってたけど、ロッカーからセンの服が消えたから不思議なんだろう」ダンは考え考え、ゆっくりと言った。「夜に戻ってきたって事は、センの持ち物は結局その場所かその付近にずっとあったんだろう。付近と言っても十センチかもしれないし、十キロかもしれないが、とにかく夜までに戻せるような付近に、だ。それで……まあ俺には何だか分からんな。俺が犯人だったら変な事考えないで腕力でこじ開けて全部盗って返さないで逃げるけどな。それがすっきりしたやり方ってもんだ。こせこせと返しに来たりして、しかも何も盗らないなんて、変だな。それは不思議じゃなくて、ただ変なだけだ。犯人は変なんだ」
リンは考えた。急に浮ついていた心が静まって、頭が冷えて、思考が高速で回転し始めたように感じていた。「―――ダン。何故」
「え?」
「どうして、消えた、と言ったの? そう思うの?」
「何?」ダンは聞き返した。「お前がそう言わなかったのか? 鍵を閉めたロッカーが、開けたら空だったんだろ?」
「―――『盗まれた』じゃなかった。……『なくなった』、『消えた』んだ。僕は、確かにバカだ。バカだったんだ」
「それ、何か違うのか?」ダンはきょとんとしたようだった。
「何も違わない――同じ事だ。『消えた』んだ。だけど僕らは、同じだって事を……忘れていた。大変だ。仮説が……ああ、なんてバカだったんだ!」
「リン? リン? 解決したのか?」
「仮説が増えたんだ。解決するかもしれない。今すぐではないけれど」
「おい少年」いきなり相手が青に変わった。「まだ怒ってるの? もうそろそろ許してくれるだろうね」
「ああ、ああ、一生許さないよ君なんか。それより青に聞くけどね、密室から物を消す方法はいくつあるんだ?」
「いくつでも。しかしその質問に答えようとすれば、そうだな……一、二、三、四、数え方にもよるけど四通りくらいかな。大雑把に言ってね。君だって私が答えそうな事くらい分かっているはずだけど、君は私に答えて欲しいのかな? まあいいさ、仲直りの代わりに答えてしんぜよう」青はそこで少し言葉を切り、考えをまとめているようだった。
「第一に」と青は言った。「密室そのものを偽る、すなわち開けられないと見せかけて実は抜け道がある。……ところで、私は密室から物を消す事は不可能だという前提で考えてるよ。物は消えたりしない。消えたように見えるだけだ。そして、それがさも不思議な現象であるかのように見せかける為には、どこかを偽る必要があるね。だから第一には、密室を偽る。第二には、物を偽る。どういう事かと言うと、消えたように見えるのが当然の物を、さも魔術で消したかのように思わせるんだ。例えばドライアイスとかね。あれは消えるでしょう? 少なくともそう見える。しかしそんな事不思議でもなんでもない。不思議だと思わせる為には、ドライアイスをドライアイスでないと偽るんだね。これが第二の方法。第三に、入れた事を偽る。これは手品の基本で、元から入ってないんだ。古典的な方法だが、最も手軽でタネが割れにくい。第四は、消えた事を偽る、消えてないのに消えたように見せるんだ。これはドライアイスとは違うからね。ドライアイスは消えたように見えるのが当然だが、例えばリンが鍵のかかった部屋で私を殺したとしよう。君が逃げないうちにセンが扉をこじ開けて入ってきてしまった。君は扉の裏に隠れて一瞬だけセンをやり過ごし、センが私の死体に気を取られている間にセンに近付いて、『おい、どうしたんだ』と、こう言えばいいのさ。センは君が部屋の外から来たと思う。そして犯人は消えた、と思う。本当は消えてもいなければ、消えたように見えるわけでもないのに、ね。そういうやり方が第四の方法だ。基本はこの四つだろうね」
「僕が考えてるのと合ってて良かったよ。ドライアイスっていうのは初めて聞いたけどね」リンは電話口で微笑んだ。「それで抜け落としは無いんだね?」
「無いね」青は断言した。「証明は簡単だ。密室に入れた物を消す方法。密室、入れる、物、消す、の他に偽る要素は無い。よって基本は四通り。あとは組み合わせるなりなんなりするんだ」
「それは、それじゃ結構だよ。うん」
「結構とはなんだ。生意気な。ちなみに、君たち、鍵は肌身離さず持ってたんだろうね? 密室の成立条件だ」
「肌身離さず……文字通りではない。鍵投げゴッコやってたから」
「何だって? 何ゴッコだって?」
「鍵投げ……みんなの鍵をプールに投げて、誰が一番に取れるか競争するの」
「はー。そうですかー。高一と中二にもなって大人げないことやってんだね。男は幼稚だって本当だね。本当にね。それじゃ、いつ盗まれたって文句言えた立場じゃないじゃないか」
「でも、肌身からは離れたけど、目は離してないよ。一度投げたって、三十秒もしないで取るんだから……」
「いいですか、五雁くん」青は諭すような口調で遮った。「目なんてものはね、働き者である事は確かだけど、その分怠けるのも上手なんだよ。実に抜け目なく、隙あらばサボってるんだよ。君は今自分の部屋を見てるのかい? さっきからずっと見てた? 見てたつもりだろうね。だけどさっきから、今話してるこの瞬間も、君の目はサボってるよ。まばたきしてるだろう。してないと言えるか? してるさ。その瞬間、君は何も見ていないんだ。何も、だよ。なのに、君はそれを感じない。目は怠け者だ。見ていないのに、君は見ていると思い込む。昔のアナログ映画なんか、上映時間の大半は無意味な映像だったけど、みんな文句言わず見てたよ。だって、気付いてなかったから。連続した映像を見ている気でいたんだ。実際は、途切れ途切れもいい所だったのにね。君の見ているものなんて全部途切れ途切れなんだよ、鍵だろうがロッカーだろうが大好きなあこがれの女の子だろうがね。目を信用するんじゃない。せいぜいこき使って働かせとくんだ、信用なんかしちゃいけない。まあ目に限らずなんだってそうだけどね」
「ああもう分かったよ。青にしてみりゃ何だって誰だって信用ならないんだ」
「そう。自分すら信用ならない。自分こそが、信用ならない」青は急に、少し低く言った。
「僕ははっきり言ってやる。君は寂しい人だね」
「その通りだ」
「ダンの事も信用ならないんだね」
「信用なんかしてないよ。でも愛している」青はどこか力が抜けた声で、遠くから囁くように言った。「誰も信用ならない、でも愛している。自分を愛している、他人を愛している、この世界を愛しているさ。だからいつまでも死ねないんだ――」
「―――何故、そんな風に言える?」リンはぽつっと言った。今ここで、青と電話で話している事が、不思議で、奇妙で、かけがえの無い事のような気がし始めた。何故だかそんな気持ちになった。
「分からないね。リン。分からないんだよ。それはさておき、また会えるといいね。実際の所――会えるような気がするよ」
「僕は今、青と会ってるような気がするけどな」
「そうだね。まあ、いろんな形があるわけだ。次もまた何かの形で会えるだろう」
「そうだといいね」リンはわりと素直にそう言った。
「うん」
ちょっと間があって、ダンが出た。
「ダン、聞いてたかい? 青さんは君を愛してるんだって」
「知ってる」ダンはすぐに言った。
「知ってる、じゃないよ。君も何か言うんだ。まったく、僕は君がとっても心配だよ。いつまでもそんなんだと青さんにふられちゃうよ。それでもいいの?」
「―――多分、良くない――だけどその話はもういい――」
「良くない良くない。ちっとも良くない」
「できる限りやってるよ」ダンは一段とぼそぼそ言った。「あのさ、リン、もうこれ以上俺の口から言わせないでくれ。本人が隣に居るのに言えないよ」
「何なに? 何?」青が横から言った。「誰が隣に居るって? 何が言えないって?」
「何が言えないって?」とリンも言った。
「―――」ダンはたっぷり十秒間も黙り込んでから、唐突に言った。「リン、元気でな」
「ダン、答えてないよ」
「センとゼンに宜しく」
「答えてない」
「体に気を付けてな」
「答えてない。まあいいや、手紙より元気そうで良かったよ」
「それは、俺の台詞だ……」
「だってさ、ダンの方がよっぽど元気なさそうだったよ、あの手紙。センとゼンに、君をはげます手紙を書くように言っとくよ」
「それは、駄目。それは、却下。危険だ。とっても危険だ」
「分かった分かった。冗談だよ。じゃあ本当に、元気出してよね」
「俺の台詞……」
「暗い事ばっかり考えてると、風邪ひいちゃうんだから。体に悪いよ。長生きしないよ。だいたい幸せになりたくないなんて君には似合わないから、二度と言ったり書いたりしないようにね」
「……はい」
「よし。よろしい。じゃあね、ダン。もう言う事ない? んじゃ、お休みかな。おはようかな」
「待て、最後に一つだけ言う事がある」ダンは決然として言った。
「何?」リンはちょっとどきりとして待ち構えた。
「何でもない」ダンはきっぱりと言った。「冗談だ。以上、お休み」
「む」
リンはうめいた。電話は切れてしまった。二度と会えないかもしれないのに、ひどい別れの言葉もあったもんだ。リンは床に携帯電話を投げてベッドに体を投げ出し、それから泣き出そうとしたけれど、上手くいかなかった。笑い出してしまった。
夜はだんだん明けてきていたが、リンはもう一度眠った。




