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消える流れるすり替わる  作者: 羊毛
5.ロッカーの隣人
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451は閉ざされた(4)

 急に自信が無くなってしまった。


 ゼンが気に入らないのは、「信用できないから」という一言だった。自分ではうまくやっているつもりだった。母とうまくやっていけそうな予感があった。なのに、左坂の言葉が正しいとしたら、母はゼンの事なんか信用してなくて、約束を破ってプールに行く事も見越していたのだ。そりゃ、確かに約束は破ったさ。だけど、どうせ破るに決まってるんだからなどと思われるほど不実なつもりはない。もちろん、母はもっと軽い意味で、ほとんど意味なんか無く言ったのかもしれない。母の言葉を直接聞いていないので分からない。そもそも左坂が勝手に言っただけで、母は「信用できない」なんて一言も言っていないのかもしれなかった。しかしゼンはこの誰が言ったかも定かでない一言のために、すっかり沈み込んでしまった。なんだか自分で自分が信用ならなくなってきたからだ。


 自分では素直に母と接しているつもりだった。それでうまくいっている気がしていた。だけど、無意識のうちに大袈裟な演技をしていたのかもしれない。母だけでなく、自分をもごまかそうとして。なんだかそんな風に思える所もあった。そして、自分でさえそう感じるのだから、母だってそう感じないとは限らない、と思うと、ゼンはもうどうしたらいいのか分からなかった。


 夕食中ゼンは人が変わったようにおとなしかった。更紗はプールに行った事で二人に文句を言ったが、ゼンは言い返すでもなかった。実際、更紗の小言はかなり辛辣だったのだが、ゼンはほとんど聞いていなかったのだ。


「全一? あなたは拗ねてるのそれとも具合が悪いの?」

「……いいえ」

 夕飯はカレーだった。同じ食材を使っているのになんでうちのと味が違うんだろうとゼンは思った。

「どうしたの?」更紗は心配そうに言った。「疲れたの?」

「僕は、この――」ゼンは口から出かかった言葉を飲み込んだ。センに聞かれたくないと思った。「――あの、ちょっと夏バテみたいで」

「そう。無理しないでね。あなたも千二も丈夫じゃないから」


 それは本当だった。父親が悪いのだ。腕力はあるが華奢で太れない体質。風邪をひきやすく、ひくと長引く。――金髪で、目も黄色で、ひょろりと手足の長い、見るからに変な男。いつまでも若く、年齢不詳に見える。どことも知れぬ、異界に生きているような。あの父親と、この母親の接点が、ゼンには見えてこなかった。何もかもでっちあげのでたらめで、センと自分は兄弟でもなんでもなくて、他人の空似なんじゃないかと思った。


 夕食後に更紗はゼンを別室に呼んだ。物置のように使われている和室だった。大きな部屋が沢山ある家では余った部屋をこんな風に使うのだな、とゼンは納得した。


 更紗は、父親の見せてくれた写真の通りだった。十五年も経ったら大分老けただろうと思っていたが、写真よりちょっと大人びた程度だ。考えてみればまだ三十四なのだった。肩上で切った髪の長さも、ジーパンに男物のシャツというラフな恰好も、写真のままだった。ただ、目が少し違う。優しげな母親の目だ。写真の更紗はもっとやんちゃそうで、少年のようにも見えた。


「言いたい事は?」更紗はどこかから小さい椅子を二つ持ってきて、片方をゼンに勧めてから言った。

「何が?」

「さっき何か言いかけてたでしょう? 千二に聞かれたくなかったのかと思ったけど」

 親ってどうしてこうなんだろうと思う。こちらが何か隠そうとしても、超能力者のように見抜いてしまう。しゃくに障る話だ。

「お母さんは――」ゼンは畳の目を見下ろしながら呟いた。「俺が信用ならない?」

「いいえ? どうして?」

「プールの人に――信用ならないから、来るかもしれないから――って言った?」


 更紗はびっくりした様子で、考え込んだ。

「――ごめんなさい。そんなつもりじゃなかった」

「なら、いいんです」ゼンは弱く微笑んだ。

 更紗はそれを見てどきりとする。父親にそっくりだったから。

「もっと言葉に気を付けるよ」更紗は静かに言った。「あなたが過去にしてきた事をもって、今のあなたをどうこう、言うつもりは無いよ。あなたは変わったのだし、成長したのだし、これからもそうなのだろうから――私はあなたを信頼しているし、誇りに思ってる」

「あの、それは、じゃあいいんです」ゼンは立ち上がった。「全然違う話だけど、さっき言おうとしていた事は、僕は――」


 しかし、更紗の目にじっと見上げられると、ゼンは胸が詰まって何も言えなくなった。この人が「お母さん」なのだと思った。小さなアパートの一室で、いつも夢見ていた。優しくてきれいなお母さんと、自分にそっくり瓜二つの弟。父親から話を聞いたり写真を見せられたりしながら、夢想した。しかし今その夢が現実のものとなって、夢の中の人だった母や弟を、間近に見るようになって、こんなはずじゃなかったという思いは抑えられなかった。こんなはずじゃなかった。何もかも予想と違い過ぎた。センはゼンが夢見たほど似ていなかったし、ゼンを理解してくれるわけでもなかった。言葉では説明し切れないほどの違い、育ちの違い、価値観の違い。それはこの十数年、一度も予想した事のなかった「壁」だった。強い違和感と、かすかな幻滅。いや、もしかしたら、この上ない大きな幻滅。長いこと夢を見過ぎたのだ。センのように、去年の再会の時まで何も知らされないほうがましだった。


「この家に居づらい?」更紗はまたずばりと言い当てた。

「――僕は、この家の――」ゼンは言った。「自分はこの家の子じゃないと思うんです。家に帰りたい」

「あなたはこの家の子ですよ。あなたの父親もね」

「でも、僕の体は、違うって言ってる。ここじゃない。僕は――皆と違う。センとも違う」

「でも、誰でも皆と違うものじゃない?」更紗は穏やかに言った。「あなたは今寂しいでしょうけど、私もそんな気持ちを知ってる。千二もまもなく知る事になると思う――いいえ、少し黙って。言いたい事は分かってる。そうじゃないってね。でも、違うって事は、素晴らしい事だと思わない?」

「一度家に帰りたい。センには、親父が帰ってきたから首都に戻ったって言って。三日でいい。一日でも。この家は、なんだか違う。家って感じがしない」

「本当ならそうしてもいいんだけどね。今は状況が状況だから、それはできない。もう少し時間が経てば、変わると思う。全一のほうでも私達に慣れるはずだし、私達もあなたに慣れる。今はまだ慣れないだけ。家族っていうのは――慣れだと思うよ。私はね。あなたのお父さん、岸も初めすごくこの家を嫌がった。この家って言ってもここの家じゃなくって、美生の本家の建物だったけど」

「聞きました」

「病気で動けなかったから、岸は逃げられなかったけど、すごくすごく嫌がって。何をしてる時も、つまり寝てるか、食べてるか、たまに風呂に入ってるかだけなんだけど、何をしてる時も嫌そうでね。ここは自分の家じゃない、早くほっぽり出して欲しいってずっと言ってた。私には口もきいてくれなかった」

「へえ、本当?」ゼンは思わず笑った。

「うん、ひとっことも。それで、嫌われてるんだと思った。とっても辛かった。でも、そんなのが二週間くらいかな。二週間で慣れちゃって、もう放り出してくれなんて言わなくなった。私にも口をきくようになって、その第一声が、いけしゃあしゃあと『君を愛してる』」

「その話、もっと詳しく」ゼンはにやにや笑って椅子に座り直した。

「聞いたんじゃなかったの?」更紗は微笑んでいた。

「そんな話聞いてないなあ。うん、一度も聞いてない」

「じゃあ、またそのうちね」更紗は立ち上がった。

「お母さん。今、聞きたいんだけどなあ」

「千二とはうまくやってる? やってるように見えるけど」更紗は和室の電灯を消して、引戸を開けた。廊下に出て、居間を抜け、台所へ。ゼンもついて行った。


「センは、よく分からないな」ゼンは母親の背中に言った。「なんだか……正直な話、おぼっちゃんだしさ」

「あなた、根に持ってるね」更紗は鍋に少しだけ湯を沸かして、戸棚からココアの粉を取り出した。「全一も飲む?」

「はい、いただきます」ゼンはかしこまって言った。

「自分だけ貧乏人だと思ってるの? あなたのお父さんだって、大層なお金持ちなのにね」

「ええ? 何が?」ゼンはにこにこした。

「あら、知らないの?」

「え?」ゼンはまだにこにこしていた。冗談だと思っていた。

「ふーん……まあそれが彼の教育方針なら、私がぶち壊すのもなんだけど……」


「あ、ココア作ってる。おれも」センが台所に入ってきた。「あれ、ゼンがいる。お前ここにいたのか。探してたんだ」


 ゼンは相棒の話を聞くどころではなかった。

「お母さん、今なんて言ったの? 父ちゃんは金持ちだったの? いつ?」

「今でも持ってるはずだけど」更紗はあっさりとした調子で、「だって、里親の遺産のほとんどを継いだから。泉田せんだって言ってアメリカに本社のある大企業の一族で。人生三回くらい遊んで暮らせるだけ貰ったはずだから、よっぽど変な使い方しても、まだ相当残ってるはずだけど」

「セン!」ゼンは相棒を盾にして、母親から身を庇った。「君の、君の母さんが僕を、欺こうとしてるよ!」

「なんだ、なんだ? なんの話?」

「あたし、彼からそのようにお聞きしましたけどねえ」更紗はグラスを三つ出してきて、湯でといたココアを入れ、上から冷たい牛乳を注いで氷を三つずつ入れた。「それとも、あたしが欺かれたのかしら」

「母さん、きっとこれ薄いよ」センはさっと手を伸ばしてグラスを取った。ゴクゴクと一息に飲み干してしまう。「ゼン、お前の分、一口だけちょうだい」

「テーブルで飲みなさいよ千二。もう遅いけど」

「ゼン? お前どうしたの? 今の、何の話?」

「人生三回……? 遊んで……?」センの肩を掴むゼンの手がちょっと震えていた。「お母さん? それ本当? 今でも?」

「無駄遣いしてなければね……」更紗は少しだけ真面目な目になる。「安アパートでストイックな暮らししてた所を見ると、一銭も使ってないのかも」


 ゼンは口を半分開けて突っ立っていた。


「あ、やっぱり言わなかったほうが良かった」更紗は今センに言った事は忘れて、立ったままココアをすすり出した。「本当だ。薄かった。まあいいや。全一? あなた大丈夫? なんだか岸の教育方針のほうが正しかったみたい。勝手に秘密をバラしちゃって、彼に怒られるかしら」

 怒られるのが楽しみという口調だった。


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