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消える流れるすり替わる  作者: 羊毛
5.ロッカーの隣人
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451は閉ざされた(3)

 はっとして腕時計を見ると、バスが来る時刻まで三分を切っていた。これで今日、三度目だった。前の二度は「次のに乗ろう」と見送ったが、三度目はそういう訳にはいかなかった。すでに日が赤く傾き、このバスに遅れたら夕食に間に合わない時刻である。リンは名残惜しそうに今一度ホームセンターの商品棚を見やると、さっと背を向けて駆け出した。

「ありがとうございました」馴染みの店員の苦笑まじりの声がリンを送り出した。


 夕暮れの町は湿った空気に覆われていた。リンの頭上は晴れているが、西の空には灰色の重たそうな雲が垂れ込めて、その下が霞んでいる。夕立だ。雷の音も聞こえる。額にじわっと汗が浮かんでくる。さっき買ったばかりの樹脂ボードがかさばって、走りづらい。


 バス停が近付いてくる。と、向こうの角を曲がって丁度バスが現われる。ああ、待って、待って。頼むから乗せてくれ。


 リンがバス停にたどり着くのと、バスがバス停の前に止まるのとがほぼ同時だった。リンは息を切らして乗り込んだ。車内はびっくりするほど涼しかった。席に着いて、流れて行く窓の外の景色を眺めながら息を整えた。間一髪だった。


 ホームセンターに行くといつもこうだった。買い物が終わってから帰りのバスが来るまでの間、店内をぶらついているうちについ夢中になって時を忘れてしまう。まだ十分ある、まだ五分ある、と思っているうちに乗りそこねる事もある。結局二回くらい乗りそびれて、三度目の正直でやっと乗る、というのがいつものパターンだった。


 ホームセンターには一体どうしてあんなに心惹かれる物ばかり並んでいるのだろう。一つ一つ眺めながら、あれやこれや使い道を思い廻らせていれば、何時間いたって飽きる事はないだろう。夏休みになってもテレビとゲームくらいしか楽しみの無いクラスメート達が、リンには信じられなかった。退屈にならないのか、と聞くと大抵の人が「ならない」と答えるのが不思議だ。だらだらと心ゆくまで寝ている事が何よりの幸せなのだと彼らは言う。リンはそんな言い分を信用しない。彼らだって何か打ち込める事を見つけてしまったら、もう二度とだらだらしたいとは思わなくなるだろう。思ったとしたって、だらだらなんてできなくなるだろう。いつも、情熱に追い立てられている。したい事が次から次へと沸いてきて、休む暇なんてない。リンの毎日はめまぐるしく、朝から晩までぎっしりと詰まっている。それ以外の生活など考えられなかった。


 実際、妹がいなくなってからリンの毎日はますますぎゅう詰めになっていくようだった。具体的に、何が変わったというわけでもない。ただなんとなく、そんな感じがするのだ。そして忙しくなればなるほど、リンは幸せだった。したい事が沢山あるという事が、ただそれだけで嬉しくてたまらなかった。毎晩、明日する事が山積みになっているのを確かめてリンはわくわくした。他の事がぼやけて、見えなくなってしまうほどに。リン自身その事へのかすかな自覚はあるが、今はそれでいいのだと思っている。今はこれでいい。今はまだ。


 バスは夕暮れの住宅街をぬうように走る。街路樹は燃え上がるような緑の葉を揺らしている。スーパーマーケットの前で、買い物袋を抱えたおばさん達がどんどん乗り込む。


「発車します。ご注意ください。次は桜城派出所前」


 時々、わけもなく切なく、たまらなく寂しくなる時がある。作業に夢中になっているうちに夜が更け、家族も寝静まってしまった事にふと気付く瞬間。夜なんとなく目が覚めてしまって、カーテンを開けるといつの間にかそっと夜が明けていた事が分かる、そんな一瞬。そうでなければ、ずんずんと走って行くバスの窓から、夕暮れの町を眺める時。

 いても立ってもいられないほど切ない。苦しいくらい、多分寂しい。誰がいないからでもなく、ただ自分がここにいる、この世界に在る、その事だけのために。ふらりとどこかへ行きたくなる。見知らぬ誰かに会いたくなる。今までの自分ではない自分が、欲しくなる。そんな気がする。また家出しようか、とリンは考える。


 ダンの事を思う。ダンがリンの為に吹いてくれる笛の音の事を思う。彼はよく自分の演奏をテープに録音して、リンに送ってくれるのだった。彼が吹くのは素朴な竹笛で、不思議な旋律だ。寂しくていたたまれなくなる時、ダンの笛を聴くと何故だか落ち着くのだった。ぐるぐると当てもなく駆け回っていた心が、ぴたりと静まって安らぐのだった。ダンはどんな想いで、笛を吹くのだろう、と思う。


 ふと、昼間のセンの「屁理屈」を思い出して、リンは思わず笑顔になる。あんな事言って、まるでセンが今回の事件を手紙に書いてダンに知らせるみたいだけど、実際はそんな事できるはずがない。ダンは闇町に住んでいるのだ。こちらから手紙を送る事は一切できない。ダンのほうでは、たまにリンに宛てて手紙とカセットテープを送ってくるが、表向きの宛名はリンの祖父だった。祖父宛てに届いたものが、リンに手渡しされる。直接送るとどんな危険があるか分からないからだ。こういう事ができるのは、ダンの育ての父親がリンの叔父にあたり、こじつけた言い方をすればリンとダンが義理のいとこ同士だからだった。


 リンに送られてきた手紙は当然センとゼンも読む事になるのだが、たいてい小さな紙の切れ端によく分からない事が二言三言走り書きされているだけだった。住む場所が場所だから、「シャバ」で暮らす少年達に書き送れるような話題が無いのかもしれない。だが、ダンの事だから、単にそういう手紙しか書けない性格なのかもしれなかった。実際ダンの送ってくるゴミくずみたいな手紙は、非常に彼らしいとリンは思う。一番最近の手紙は六月に届いたもので、内容はこんな風だった。

「メロンを食べた。あおに会った。とても疲れた。お元気で。」

 メロンというのがダンの大好きな果物で、青というのはダンの彼女だった。この少女も闇町の住人だ。例の「探偵団」結成の時、青もそばにいたはずだが、彼女はそんなものには参加したくないと言っていたような気がする。そのわりに、何か変わった事があると必ず探偵役になりたがる。困った事に彼女は非常に頭が良く博識で、必要ない知識をひけらかしながらベラベラ喋りまくって「謎解き」をする様は、まるで名探偵だった。


 リンはこの春に図書館で起こった事件と、その場にたまたま居合わせた青の活躍(?)を思い返しながら、ぼんやりと窓の外の景色を見送った。ホームセンター「ジーエス」からリンの家までは、車で真っ直ぐ行けば十分ほどだが、バスだと路線の関係で二十分かかる。乗客はいつの間にか少なくなっていた。ぼうっとしていたリンは降りるバス停が近付いたので席を立ったが、降車ボタンを押し忘れていた。あわてて押そうとすると、他の人に先を越された。まだ走っているバスの中を降り口に向かって歩きながら、リンはバスカードを取り出す。車内アナウンスでは「停車するまで席を立たないように」と忠告しているが、リンはあまり守った事が無い。バスにブレーキがかかり出すと同時に、リンは少し後ろに体を傾けた。いつも、ブレーキはこのタイミングなのだ。

 いつの間にそんな事を覚えていたんだろう、とリンは急に思った。覚えようと思ったこともない、些細な無意識の記憶。しかも、驚くほど正確な記憶だった。タイミングも、その時にバスの立てる音も、どれくらい体を傾ければいいのかも。全部、リンの体に正確に刻まれ記憶されている。これが知られざる人間の能力の不思議というものか。などと、よく分からない事を頭の中に呟きながら、バスを降りた。


 降りると外の空気はむっとしていた。夕立が降ったらしく、道路が濡れて雨の匂いが立ちこめている。日は沈んでしまったようだが、西の空とそこに浮かぶ雲はまだ赤色だった。リンは早足で角を二つ曲がった。家の玄関が見えてくると、なんだかほっとする。買った物を入れた袋を気付かないうちにきつく握りしめていたようで、手の平に跡がついていた。ステップを大またで上がり、玄関の戸を開けて、「ただいま」と言った。


「おかえりなさあい」


 夕食はほとんどできあがっていた。夕暮れの中を帰ってきたので、電灯に明るく照らされた居間がちょっと眩しかった。テレビの上に、見覚えのある薄紫色の封筒が乗っているのをリンは目ざとく見つけた。

「あれっ、これ?」

「そうそう。大介くんから手紙」食卓に箸を並べていた母親が言った。「今日おばあちゃんがうちに寄って、ついでに置いてったの」

「そんな気がしたんだ」リンはにっこりして手に取った。が、いつもと手触りが違う。封を切って中を覗いてみると、いつものカセットテープの他に、ちゃんとした便箋が入っていた。信じがたい事に、ぎっしりと文字が書かれているらしい。

 リンはどきどきした。


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