451は開かれた(6)
「で」緋鷓は食卓に箸を並べながら、無表情で言った。「その服借りて帰ってきたわけ」
「着心地いいよ」センはだぼだぼのズボンの裾をまくり直しながら言った。
「下着も借りたわけ?」
「貰った」
「誰から?」
「プールのほうで、用意してるんだって」ゼンが説明した。「結構、服なくなったりって多いんだって。濡らしちゃったりとか。たいていは女子更衣室だから、プールのほうでも女性用の服はいろんなサイズ用意してる。男の服がなくなるってのはすごく珍しいけど、一応こっちも備えはしてあって、服はレンタルだけどパンツは真新しいのを提供」
「返されても困るだろうな」センは苦笑した。
「そういうものかね。僕はそんなの気にしないけどな」
「二人とも、緋鷓を働かせて自分達は座ってるわけ?」台所から更紗が怒鳴った。「ご飯、運ばないんなら片付けますよ」
「運びます運びます」ゼンは立ち上がって台所に飛んで行った。「お母様、僕はいつでも働く気はマンタン!」
「あなた、父親にそっくり」更紗は溜め息とも笑顔ともつかない表情をした。「その、軽薄な所が」
「ひどい事言うんだな」センが言った。
「千二、あなたはまだ座ってるの?」
「待って。今、これをまくったら」
「残念」緋鷓が茶碗を持ってきて食卓に置いた。「もう運ぶ物ないよ」
「おお、そりゃ良かった」
「良かったじゃない、働け」
緋鷓の父である衣夜と、緋鷓の祖母だが衣夜の母親ではない光理がやってきて、皆で食卓に着いて美生家の夕食が始まった。
「だいたい盗まれるほうが悪いよ」食べ始めるなり緋鷓は容赦なく言った。「目を付けられるような様子をしてたって事だ」
「だって」センはむきになって言い返した。「鍵はかけたよ。ちゃんと!」
「だけど結局盗まれたんじゃないか」
「おれの鍵のかけ方が悪かったって言うの?」
「鍵なんか関係ない」
「じゃあなんだよ。緋鷓は、自分が盗まれても自分が悪かったって言うか?」
「お前はオトコだろうが。男が服なんか盗まれてるんじゃないよ、恥ずかしい」
「緋鷓」祖母が向かいの席から怖い顔をした。「食事中に、はしたない事」
緋鷓は聞いた素振りも見せなかった。彼女は光理を毛嫌いしていて、影では「あのババア」と呼んでいた。
「でもね、財布も盗まれたんだけどね」ゼンがとりなすような口調で言った。
「残高百五十円くらい」とセン。
「財布をロッカーに入れる奴があるか」
「おい、入れるだろ普通?」
「貴重品用と分かれてるでしょ、あそこは。更衣ロッカーには服しか入れないの」
センは返す言葉が無くなって緋鷓をにらみ付けた。
「なんでそんなに怒ってるんだろう」緋鷓は納豆に醤油を入れながらとぼけたように言った。「私が盗んだわけじゃないのに」
「そういう大事な事はな」センはむすっとした様子で、「先に言ってくれないと!」
「無茶苦茶言うなよ」ゼンが相棒の足を蹴った。
セン、ゼン、リンの三人は初めのうち、これを自分以外の二人が仕組んだ悪ふざけだと思っている節があった。相手の顔色を読みながらの「捜索」は効率が悪く、間延びした。三人とも、今に他の二人が真実を白状してこの笑えない冗談を終わらせてくれるんじゃないかと期待しながら、空いているロッカーを端から順に確認し、男子トイレを隅から隅まで調べたのだった。その間、センは水着にタオル一枚である。すっかり探し尽くす頃にはさすがに手足の先が白くなり、顔色も青ざめてきた。
結局「内部の者の犯行」ではない事を認める他なくなり、三人がやっと受付の左坂氏に報告に行ったのが半時間後。三人はかなり深刻な顔をしていたのだろう、左坂氏も妙に真面目な顔になってセンに貸す服を出してきた。「悪い奴がいたもんだなあ」と左坂氏は心から気の毒そうに言った。それでセンも、ただ財布を盗まれるのと服まで盗まれるのとでは訳が違うのかもしれないと思ったのだった。
「しばらくそのプール行くのやめなさいね」更紗は頃合を見てあまり重くならないように言った。
「んー」センはすっきりしない顔で、コップの把手を二度、掴み直した。「どうやってあのロッカーを一度こじ開けて、また閉じる事ができたのかな」
「方法はいくらでもあるよ」緋鷓が茶化すような調子で言った。
「犯人になり得る人間はそれほど多くないんだよ。十人……も、いないと思う。あのプールにいて、男子更衣室に入れる人間で……」
「プールの職員が怪しい」ゼンは思わず呟いた。
「さあさあ、そんな事はいいから」更紗は笑っていたが、目はにこりともしていなかった。
更紗はゼンを育てたあの不思議な容貌の男の事を思い出し、その男の血を受けた二人の息子をこっそりと見比べた。母の目に二人の顔立ちは随分違って見えたが、二人とも綺麗な瞳をし、綺麗な髪をしていた。黒髪黒目の東洋人ばかりのこの国では、毛色の違う者はよく目立つ。双子だし。それに何だかんだ言っても美男子なのよねと、本気で思っている辺りは更紗もいっぱしの親バカだった。
「警察が入ったりするの?」今まで黙っていた緋鷓の父親が突然聞いた。聡明な顔をしている緋鷓は母親似で、父親の衣夜は顔も性格もおっとりしていた。
「さあ……」
「何も言ってなかったね」
センとゼンは顔を見合わせた。
「届け出はするんじゃないの?」更紗が訳知り顔で言う。
「指紋なんか取っても無駄だろうね」緋鷓は他人事だと思ってどこか楽しんでいる様子だった。
「納得できないなあ」センは卓上に肘をついたが、緋鷓の祖母に怒られて引っ込めた。
ゼンはそれを見て、よく肘をつきテレビを見ながら食べて、ご飯をぼろぼろこぼしている父親を思い出した。あんな奴が一度でもこの母親の、この家に迎えられたという事が不思議である。
「あのプールへは、もう行かない事」更紗はもう一度釘を刺した。「全一も、聞いてる?」
「はいお母様。よおく、聞いています」
「千二は?」
「分かったよ」とは言ったが、センはまだ箸の先を見つめながら考え込んでいた。「違う番号の鍵でも開いてしまう場合があるんだろうな。でも犯人がそれを知っていたのだとしたら、よほど何度もあそこに来ていて、いつも盗みの事を考えてるんだろうな」
「そうとも限らないさ。犯人は子供かも知れない」緋鷓が妙な事を言った。「子供ならさしたる悪気も無くやるよ。根気強く同じ鍵穴を持つロッカーを探して、何番の鍵で何番のロッカーが開けられるか正確に覚えてて、チャンスが来たと見れば当然、開けたくなるし、持ち主を困らせるためだけに服を隠すかも知れない」
「子供か……」センはプールに男の子が来ていたかどうかを思い出そうとした。プールサイドで転んだのは女の子だった。他にも子供は何人かいたはずだが、はて男だったか女だったか。細かい事は覚えていない。こんないたずらを思いついて実行するくらいなら、二歳とか三歳ではないだろうし。ロッカーの状況を把握しているという事は、しょっちゅうあそこに来るのだろう。ひょっとしたら明日も素知らぬ顔で泳ぎに来るのかもしれない。
「やっぱりもう一度行ってみたいなあ」センは何の考えも無く言った。
「ダメです」更紗はぴしゃりと言った。「千二、その服は明日お母さんが返してくるから、早めに洗濯機に入れて回してね」
「え、なんで? 服くらい自分で返しに行くよ」センはあのふざけた受付のお兄さん、左坂氏にもう一度会えるつもりでいたので、面食らって母親を見た。
「なんでじゃありません。千二も全一も、今シーズン中は二度と一歩もあのプールに入らない事」
センは今さらながら不安な目になった。「そんなにまずい事なの?」
「盗ってった奴がわざわざあんたを狙ったんならね」
「そんなはずないよ。そんな事、できるとしたら――」センがあのロッカーを使ったのは、ただの偶然だ。それともセンがどのロッカーに入れても、犯人は開ける事ができたというのだろうか。そう思うとセンは何となく背筋が寒くなった。「でも――」
「でもは、無し」
「でもね母さん――おれ、人から恨まれるような事した覚えは――」
「千二、お前分かってないなあ」緋鷓は溜め息をついた。
「え? 何が?」
「お母さんはね、三日間外出禁止、と言いたい所なんだけど」
「なんで! おれが何かした!」
「セン」ゼンは食卓の下でこっそりと相棒の足を踏んづけた。彼は母親の裏をかいて明日、現場へ行くつもりでいたので、これ以上センが余計な事を言って「外出禁止令」が出てしまっては困るのだった。
「なんだよ?」センは振り向いた。
「もう詮索するな。明日はリンの家で遊ぼう」言いながらゼンは重ねてぎゅっとセンの足を踏んだ。センはもう何がなんだか分からないという顔で相棒を見つめるばかり。
その時、出し抜けに家の電話が鳴り出した。




