451は開かれた(5)
男の姿はプールの底を舐めるように、ぬうっと進んでくる。壁に到達すると、すっと浮かび上がって水面下でターンし、また水底に潜って行く。遠ざかって行く。息継ぎはまだだろうか。もう二往復目ではないだろうか。人の事ながら、見ているセンは息苦しくなってきた。
男は向こうの壁に到達すると、さすがに頭を出して立ち上がり、一息ついたようだった。よく見ると、ゼンを追い越してシャワーを出したあのオジサンだった。息継ぎなしの潜水七十五メートルをあっさりこなした所を見ると、ああ見えてかなり若いのかもしれない。老け顔の大学生なのかもしれない。三十秒ほど休むと、すぐまた身を沈めてぬうっと泳ぎ出した。どういう肺をしているんだろう。
リンとゼンはまだ大はしゃぎで遊んでいた。プールサイドからロッカーの鍵を投げ込み、用意ドンで泳いで取りに行くのだ。さっきまではセンも一緒にやっていたので、一番早く自分の鍵を拾ってプールサイドに戻った者が勝ちだったが、今は二人で三つの鍵を投げるので、二つ取った方が勝ちだった。鍵は前回負けた者が三つまとめて同じ方向に投げる。どれかの鍵が水面に触れた時点でスタートしていい、という新しいルールができたらしかった。飛び込みが禁止されているので、二人は飛び込みにならない程度に勢いを抑えてスタートするのだった。
鍵を投げる。波紋。二人はスタートし、がむしゃらに泳ぎ出す。鍵はゆっくりと沈んで行く。プールは無人ではないので、競泳には思わぬ邪魔が入る。大きな浮き輪につかまった小学生の男の子がバシャバシャ横切ったので、ゼンとリンは潜ってかわした。ちょっとした位置の違いでリンが優勢になる。と思うと今度はさっきの潜水オジサンが横切ってまた邪魔が入り、ゼンが遅れを取り戻す。二人はほぼ同時に一つずつ鍵を拾い、そのまま最後の一つに突進する。水しぶきが入り乱れる。ゼンが先に顔を出した。後から浮かび上がったリンは喜色満面、二つの鍵を持った手を高く差し上げて、センを振り返った。センは笑い返した。
二人は水を掻き分けてセンの座っている飛び込み台の所へやってきた。二人ともげっそりと疲れ果てた顔をしていたが、自分では気付いていないらしい。目だけきらきら輝いている。
「セン、何だよ、もう一泳ぎしないのか?」ゼンが水をかけてよこした。
「いいよ、おれはもう。疲れた」
「僕も疲れた」リンがやっとの事という感じでプールサイドに這い上がった。
「おわ、リン、勝ち逃げだな」
「君一人でやればいい」リンは持っていた鍵の片方をぽいと放り投げた。ゼンは仕方ないのでまた泳いで取りに行った。
「大丈夫か? クマできてるぞ」センはリンを見下ろして笑った。
「うーん」リンは返事を考えた様子だったが、疲れ過ぎていていつもの軽口も出ず、「まーねー」とか、意味の無い返事をした。
「リンの部屋、広くなってたな」センはリンの整った横顔を見ながら、言った。
「妹の部屋と一つにしてもらった」リンは用意していたように答えた。「壁を取り払ってね。おかげで大きい工作ができるように……なったよ」
「海に行こうな」センは言った。
「秋はどこにも出掛けたくないよ。一周忌もあるしね」
「もちろん、夏中にだよ」
「夏も忙しいんだ。言ったっけ、倫志郎の滑空機の設計図が手に入って」
「うん、手紙に書いてあったな」
ゼンが戻ってきた。
「二人とも、なんだよう、隠居ジジイみたいに座り込んじゃってさ」
「ゼン、上がろう。もう一時間半泳いだぞ」センはプールの壁に掛かった大きな円い時計を見やって言った。
「僕はこれからもう九十分だって泳げるさ」
「じゃあ置いてくぞ。リン、行こう」
「ああ待って。僕も上がるったら上がりますったら」
プールサイドに上がると、ゼンも足がふらふらだった。たかが九十分とは言ったって、ただ泳いでいたのではない。ひっきりなしに上がったり入ったり潜ったり、怒鳴り合ったり奪い合ったり、無茶苦茶な泳ぎ方でプール中を飛び回っていたのだ。並みの消耗ではない。それに、水の中にいるとなかなか感じないが、泳げば泳ぐほど汗をかいて体内は乾いていくのだ。
ふにゃふにゃと崩れ落ちそうな体を引きずって三人が更衣室に入ろうとすると、入れ替わりに少年が三人出てきた。そのうちの一人が、
「おい」
とセンの肩を小突く。ふらふらしていたセンは驚いて顔を上げた。三人とも、センの中学時代の同級生だった。
「千二――千二だよな?」
「ん? ああ、久しぶり」センは頭がじんじんしていて、三人がゼンをどう思うかなんて事は忘れていた。「今から入るの?」
「そうだけど――千二」
「その人、誰?」もう一人が恐る恐るという感じで聞いた。
「え? ああ――」センはやっと気付いた。「兄だよ。双子の」
「弟が世話になってます」ゼンがにっこりした。
三人組は揃って黙り込んだ。
「父親に育てられたんだけど、この春、同じ学校に入ったんだ。まあ、別にやましい事情じゃないから、気にしないでくれ」父親がやましい場所で働いているという事情は、この際忘れておく事にした。
「ふーん……」
「そうなんだ」
「知らなかったよ。ごめんな」
「いや謝らなくてもねえ」とゼン。
三人は無言で顔を見合わせながら、プールサイドに去って行った。セン達こちらの三人は、手動式のシャワーを浴び、更衣室に入る。
「やっぱりこの町をうろつくと目立っちゃうかなー」ゼンはにやにやして言った。
「まあ、母さんも父さんもそれは覚悟の上だろう」
「こうまでやっちゃったからには、再婚する気なんだろうねえ?」
「母はそれを望んでるよ」センはさらっと言った。
「こっちの親もだ。つまり、両人の合意の下に?」
「お前とおれが兄弟かー」センはさも不思議そうに呟く。
「本当にねー。兄弟だなんてねー」
「僕には兄弟にしか見えないけどね……」リンは苦笑いした。
ゼンはまだ鍵を二つ持っていて、「あれっ、ねえ、センの鍵どっちだった? リンがそれ持ってるのは自分の鍵だよな?」
「うん、僕のは477だから」
「僕はセンより右だった気がするな。じゃあこっちか」
「たぶんそうだ。開けてみれば分かる」センはゼンから鍵を受け取って、「そうそう一番上の段だった」と言いながら差し込もうとした。が、入らない。
「おいセン、番号間違ってるよ」ゼンが吹き出して言った。「手元をよく見ろ」
「え? あれ、451か」センが差し込もうとしているロッカーはその隣の457だった。「7と1って似てるよな……おいゼン、なんでそんなに笑うんだよ?」
「だって……素で間違ってんだもの!」ゼンは体を折って笑い転げた。「ふふ――ふははははあはは」
「笑うなって……まだ笑ってる……お前、ふだん何の楽しみも無い人生送ってるのか?」
ますます笑うばかり。
「それ以上話しかけないほうがいいよ」リンが言った。「ツボにはまったよ、この人」
「やれやれ。まあいいさ、笑うと体にいいそうだからな」
「笑い過ぎたら窒息死するかも」
「なんとも幸せな死に方だ」センは正しいロッカーに鍵を差しなおし、開ける。
「セン、いい物もらえるんだったよね」リンは弾んだ声で言った。
センは返事をしなかった。
「ああ、はあ、息が切れた」ゼンがやっと笑い止んで着替え始めた。「ああ疲れた。笑い過ぎた。おかしかった」
「おかしい、よな」センが自分のロッカーの中をじっと見つめながら、妙な声色で言った。
「うん、おかしい」ゼンはシャツを被りながら言う。
「何が?」リンは、センのこわばった横顔に尋ねる。
「何がって、センがさ」
「そうじゃないよ、ゼン」センは自分の開けたロッカーの扉をバタバタさせた。「空なんだ」
「え?」ゼンはシャツから顔を出す。
リンもセンのロッカーを覗き込む。
「空なんだ。盗まれた」
451番ロッカーには、何も入っていなかった。




