流れる(3)
霧雨だった。
二人は傘を差さずに歩いた。
上流の方はどしゃ降りらしく、多波川は昨日にも増して増水していた。二人は人通りの少ない静かな道を選んで歩いた。寒かった。
「ねえ。葵は、」リンは口を開き、そしてためらった。「口に出すと、本当になるだろうか」
「どうだろう」とセンは、考え深げな目で言った。「たぶん、大丈夫だと思う。大事なことなら、今、話しておかなきゃ」
「大事なことかな。もし、葵が死んでいたら、僕はこれからどうやって生きていけるのかな、と思ってたんだ」
葵の捜索は続いていた。リンの両親が駆けつけてきた頃にはとっぷりと日が暮れ、リンはすぐにこの町に住む母方の親戚の家に連れて行かれた。「すぐに見つかるから」と大人達に言い聞かされ、疲れ切っていたリンはそのままそれを信じ込んで眠ったが、夜が明けても葵はまだ見つかっていなかった。寝室を出て、一睡もしていない両親の顔を見た途端、死んだんだな、とリンは思った。朝食を食べている途中で、センがやって来た。
派出所から電話した時は混乱していたため、ほとんどまともに話せなかった。それで、親戚の家に着いてから寝る前にもう一度電話したのだ。起こった出来事をこと細かに説明すると、しばらく聞いてからセンは、「そこの住所教えろ。おれ、明日そっち行くから」と言い出した。リンは本気にしていなかったが、センは本当に一人でやって来た。リンの両親は驚いたが、センがあまりにも熱心に「リンのそばにいてやりたい」と頼み込むので、センの母親と連絡を取って、葵が見つかるまでリンと一緒に寝泊まりする事を許可した。霧雨だったが、午後になるとセンはリンを散歩に連れ出したのだ。
「大丈夫だよ」センはリンの手を取って握った。「どんな事があっても……大丈夫だよ」
「本当はね」リンは静かに言った。「海を見に行くはずだったんだ……」
「じゃあ、そのうちおれが連れてってやるよ」
「葵、死んじゃったかな」
「たぶん……」センはうつむいた。こんな所まで駆けつけて来ても、自分は何もできないんじゃないかと思った。いつも、リンに対しては、そうだと思う。家出の事だって、センは知らなかった。一昨日の夕方、また明日、と言って別れた時、リンはすでに翌日の家出の計画を立て終わっていたに違いないのだ。だが、そんなことはおくびにも出さないで、笑って手を振った。ただの気まぐれなんかで家出に踏み切ったリンではないはずだ。思う所があっての事だったのだ。だが、センは気付いてやれなかった。こんな事になってしまってから、思い返してみれば、近頃リンはなんとなく沈んでいた。一昨日はそれでいて、やけに興奮していた。いつも、後になってからそういう事に気付く。何もかも後手に回っている。情けない、と思った。
「自分が泣いたらいけない、とか思ってない?」リンは急に聞いた。
「え?」
「別にいいんだよ。センが泣いたって……僕は今、なんだか泣く気分になれないだけさ」
「どうして……家出した?」と、センは聞いた。
「さあ? 秋って旅に出たくなるじゃない?」リンは笑った。
「それだけ?」センは、ぐっと胸に何か迫る気がした。リンにそんな風に言われても、やっぱり自分は泣くわけにはいかない、と思う。「ちゃんと、言ってくれよな。お前が隠しておきたいんなら、別にかまやしないけど、言いたいのに言えない、とか思って、黙ってたりするのは、やめてくれよ」
「そんなんじゃないよ。言えないとか隠すとかじゃないよ。うまく言葉にならないんだ……」リンはうっすらと微笑んだ。「……ゆっくり一人で考えたかったんだ。自分でも自分の気持ちがよく分からなかった。だから、考えてた……ずっと、ずっと。この気持ちは、どんな物なんだろうって。なんだか、寂しいような気がしたよ。秋になると、それがぐんぐん強くなった。変な気分なんだ。どうしてそんな気分になるのか分からなかった。ただ、とにかく焦るような気がした。何処かに行きたいような気がしたよ。知っている人が誰もいないような所へ出掛けて行って、自分の見た事のない物を見たいと思った。自分だけの世界に行きたかったのかも……別世界、かな。葵を連れてくつもりじゃなかったんだ。一人っきりになりたかったんだもの。でも、あいつ、無理矢理付いて来ちゃったのさ。やっぱりあいつ、変わった子だよ、ほんとに……」
センは何と言ったらいいのか分からなかった。言葉に表せないような、理由も内容もよく分からない、寂しいような焦るような気持ちなんて、センはリンくらいの歳の頃体験した事は無かった。
「風……」リンはぼんやりと言った。「風向きだよね……」
「何?」
「なんかさ、ほんの少しの加減だって事。風向きの問題。本当に小さな事なんだ。たまたま、あの時、あの場にいた、ただの偶然のために、葵は消えちゃったんだ」
「どんな事だって、そうなんだろう。それに……生きてるかも知れないし……」
「へえ。びっくり。センでもそんなこと言うんだね」
その言い方に、センの方がびっくりして、思わずリンの横顔をうかがった。水気を含んで湿った黒い髪。白い肌。寒いせいか、その頬は微かに赤みが差していた。
「そう……思わない?」センはおずおずと聞いた。
「生きてたら……苦しいよ」リンは笑った。「たぶん、あの時は、水の勢いがすごかったから、消えた瞬間に気絶したと思うな。それで、何も感じないうちに死んだと思う……勝手な都合だけど、そう思った方が僕は少し気が楽かも知れない。生きてたら、あの子今頃泣いてるよ……。でも、そうだな……死んだら戻って来ないんだもんな……」
当たり前だ。でも、当たり前なのに、普段は忘れている。死んだら戻って来ない。永遠に。
センは、あの世があるとは思っていない。死んだ者は消えるだけだと思う。けれども、もし、自分の身近な人が亡くなったら、そんな悲しい考えに耐えられるだろうか。あの世でも地獄でも四次元の世界でもいいから、何かの形で存在していてほしいと思うのではないか。どんな些細な、取るに足らない希望でも、信じて、すがりたくなるのではないか。
「生きてるよねえ……」リンが口を開いた。「そんな気がするよ。今にもあの子が帰ってくる気がしてる。体を拭いて、温めて、ココアを飲ませなきゃって思ってる。僕がだよ。この僕が。今朝、落ち着いて計算してみたんだ。川に落ちてから、二十時間近く経ってる。冷たい水で、流れは急で、まともに息もできない。それで二十時間だ。生きているはずがない。もし、偶然岸に上がれて、誰かに助けてもらってるのなら、とっくに連絡が来てるはずだし……なんだか不思議だね。人間て、同時に逆の事を考えられるんだね。どんなに計算してみても、葵が生きているっていう気分が消えない」
「おれもだよ」
二人は緩やかな坂を下って行った。霧雨は次第に水の粒が大きくなって、ほとんど雨だった。二人の服はじっとりと濡れていた。坂が終わりかけ、道が小さな商店街の通りに差し掛かる頃、後ろから「やっほーい」と場違いに嬉しそうな声が追っ掛けてきた。センとリンが立ち止まる間も無く、一台の自転車がさあっと二人を追い越して行き、やがてターンして引き返してきた。黒いこうもり傘をさし、紺色の雨ガッパを着たゼンが乗っていた。
「よお!」ゼンはブレーキをたくみに操って二人に並びながら、あっけにとられるセンに傘を差し出した。「意外と早く再会できたじゃん。濡れてるね。寒いよ。君の母さん元気?」
センは黙って傘を受け取った。ゼンは雨ガッパのフードをかぶって、にっと笑いかけた。
「自己紹介が必要? 岸 全一です。ゼンです。星座、君と同じ。血液型、君と同じ。趣味は読書とサイクリング。特技は……喧嘩かな」
「おれもそうだ」とセンは困惑した顔で答えた。「言っちゃ悪いがな、力勝負で負けた事はない」
「じゃ、僕と今度勝負ね」
「やめといた方がいいよ」リンは急に楽しくなってセンに言った。「この人、元ヤンなんだぜ」
「そうだぞ、驚いたか。しかもただのゴミじゃないぜ。デスカーズのジョーカー四世ときたら、君、英雄だぜ」
「超グレてたって事か」センはにこりともしないで相棒を見つめた。「なんだかな……おれの好みじゃないな、あんた」
「ほっほーう」ゼンは面白そうに返した。「そんなこと言った奴もいたな、僕のデスカーズ時代の部下に。そいつどうなったと思う? 二度と素顔で僕の前に出て来れないぜ」
「おれの知った事か。やかましい奴だな」
「おや、冷たいな! なんだいなんだい。血を分けた兄弟に向かって……」
それから、ゼンはリンの顔をひょいとのぞき込んだ。
「その顔だと、見つかってないのかな」
「ああ。死んだよ」とリンは静かに言った。
「ああ、そう。見つかったんだ」
「いや。まだ」
「まだァ? なら、何しけた顔してんだよ」ゼンは、リンの丸まった背中をぽんと叩いた。「あんたの妹だろうが。そんな簡単に人間なんて死なないよ。失礼だぜ、あんた。妹さんに失礼だ」
「でも、二十時間経った……」
「生きてるか死んでるか、議論するつもりは無いよ」ゼンはぴしゃりと遮った。「どっちにしたってまだ妹さんは戻って来てないんだ。だったら死んだよなんて言ってへらへらしてんじゃないよ。妹さんが早く戻ってきてあったかくなれるように、ちゃんと祈ってなきゃ駄目だろ。死んだ人だってね、寒いのは嫌なんだからな」
リンはぱっとうつむいてしまった。
「泣かせた」センはゼンを恨めしそうに見た。
「へえ。一緒になって途方に暮れてるよりゃましだよ」
その通りだと思ったのでセンは言い返せなかった。
「やだねえやだねえ。めそめそ泣くような男は、僕は嫌いだよ」ゼンは追い討ちをかけた。「泣くのは妹さんが帰って来てからだろ。おいっほら。どうせ君たちゃよそもんだ。すりかえトンネルも見たこと無いんだろ」
「すりかえトンネル?」センは聞き返した。リンも、なんとか目を拭いて顔を上げた。
「ここから歩いてすぐんとこから、見える。実を言うと、多波川の橋んとこから見えるんだ……無理にとは言わないよ。いつでも見れるとは限らないしね。家に帰って体を拭いた方がいいかもね」
そうした方がいいとセンは思った。何トンネルだか知らないが、こんな状況の時にわざわざ川へ行ってリンを悲しませる必要なんかない。しかし、リンは「見たい」と言い出した。
「後でもいいじゃないか」センは反対しかかったが、
「後で見れるとは限らない」と、ゼンは首を振った。「思い立ったが吉日。さあ行ってみよーやってみよー」
「ようし」と、リンが乗り気なようなので、少し不安ながらも、まあいいかとセンは思った。ゼンはさすがに地元の人間で、橋に続く大通りへの抜け道を知っていた。こんな所が通れるのか(他人の敷地じゃないのか?)と思うような所をすり抜けて、あっという間に川沿いの道へ出た。
橋は車が行き交っていた。その音を打ち消すように、下から濁流のごうごう言うのが聞こえてくる。センはちらりとその様子を見下ろして、胸がつかえるような感じがした。こんな所に、リンの妹は落ちたのだ。まさに、消えると言うのにふさわしい速さで、飲み込まれていったろう。
「あの橋だよ」とリンが指差す方を見ると、今にも崩れ落ちそうな古ぼけた小さな橋が、ずっと水面に近い、下の方に見えた。「欄干が欠けてるのが分かる?」とリンは言ったが、霧でもやってよく見えなかった。ゼンは興味を示さないふうで、自転車でずんずん行ってしまう。リンが小走りに追いかけた。センは流れを見下ろしながら、走る気にはなれず、それでもなるべく速足で追った。
ゼンは橋のちょうど中央あたりまで来た所で、自転車を降りた。彼はリンの肩に腕を回して、川向こうに見える岩肌の山を指差した。
「あそこに線路があるんだけど……見えるかな。あの、白いトンネルが見える?」
頂上の方には針葉樹、ふもとの方には紅葉の深まる広葉樹がぱらぱらと立ち、ところどころに黒っぽい岩の崖がのぞいている。その崖に張り付くように、白い、小さなトンネルが見えた。なんとも胡散臭い事に、そのトンネルには安っぽいゴシック体で「すりかえトンネル」と名前が書いてあって、しかも、それはだいぶ剥げていた。
「何がすり替わるのさ」リンが吹き出して言った。
「もちろん、電車がすり替わるのさ」ゼンは自慢げに言った。「怪奇現象ってやつ」
「君、見た事あるの?」
「あるさ。何回もね。ほーら、来た来た。ベントラベントラベントラ……」
「何なんだそのまじないは」とセンはゼンを小突いた。
「すり替わるように、さ。いつでも見られるわけじゃないって言ってるだろ」
明るい黄色の、玩具みたいな列車が、岩肌の崖に沿って走ってきた。トンネルは馬鹿みたいに短く、何の役に立っているのか知れない。
「ねえ、すり替わるったって、あの長さじゃ電車のしっぽまで入る前に頭が出てきちゃうよね」リンのつぶやきに、
「だからどうした?」と、ゼンは不敵な笑みを浮かべた。
「え?」リンとセンは同時にゼンの顔を見る。
が、ゼンはがばっと身を乗り出してトンネルを指差し、「見逃すなっ」と叫んだ。
電車がトンネルに差し掛かっていた。ぺかぺかの黄色い車体が、頭から順にトンネルに呑み込まれて行く。
一つ、二つ、三つ。
四つ目の車両が入る頃には、トンネルの反対側から先頭車両が飛び出した。
緑だった。
「何、あれ」
「冗談だろ」
頭は緑、しっぽは黄色。しかしその黄色い最終車両もすぐにトンネルに呑み込まれ、反対側から出て来た時には五つの車両とも間違いなく緑色だった。
「ふうん……」ゼンは面白そうな、満足そうな目で、欄干に凭れていた。「……僕のベントラが、効いたかな」
そんな事があるはずがない。だが、列車は確かに、すり替わった。