451は開かれた(1)
風波国は十四年ぶりのものすごい猛暑に見舞われていた。十四年というのを誰がどう数えていたのか分からないが、気象庁がそう言っているのだから本当なのだろう。つまり、リンにしてみれば今までの人生で一番暑い夏だった。連日、アスファルトが鉄板のように焼き上がり、入道雲が湧き出て大粒の雨と雷を地上に叩きつけた。アイスは食べる前から溶け出し、熱中症は公園から人影を薙ぎ払った。リンの町では死人こそ出ていないが、どこだかの老犬が一匹、散歩中に卒倒し、その日のうちに息を引き取ったそうだ。とんでもない夏が来たものだ。風波国は元来が雪国で、雪と寒さに対しては頑丈だが、暑さにはほとんど備えが無い。暑さそのものよりも、そうした備えの無さ、経験や知識の浅さが事を大きくしているようだった。
その日もリンはきめ細かな白い肌にびっしょりと汗を浮かべながら、作業に没頭していた。部屋に一台置かれた扇風機が、絶え間なく生ぬるい風を吹き注ぐ。リンは床に広げた図面の四隅に文鎮を乗せて、風で飛ばないようにし、額からこぼれた汗で図面を濡らさないように、頭に手ぬぐいを巻いていた。手には鉛筆を一本。現在手元にある材料を隣に並べてにらみながら、他に何が足りないかをメモしていく。すらりとした、しなやかな体にまとっているのは、ランニングに短パン。これはどちらもパジャマに格下げとなったよれよれのもので、ランニングの縫い目には穴が開いている。窓は虫が入るという理由で締め切られ、廊下に出るドアは母親が入るという理由で締め切られていた。そのような部屋で扇風機を回しても室温が上がるばかりだとはリンも承知していたが、とりあえず風が体に当たっているぶんには汗が蒸発して一時的に涼しいので、もうしばらくはこれで続けるつもりだ。まあともかくこれが、白皙の美少年、成績優秀スポーツ万能、性格極悪の女ったらし、その他ありとあらゆる汚名と賛美を浴びせられる七年生男子の、実態であった。
しかしその時、階下で来客を告げるチャイムの音がしたので、リンは急いで扇風機を消し、思い直してまたつけ、窓とドアを全て開け放ち、手ぬぐいをとり、ジーパンをはき、真新しいランニングに取り替え、髪にクシを入れ、クシを隠し、鉛筆を隠してシャープペンに持ち替え、その他いろいろと見栄を張った小細工をしている所へ、吉井モモが到着した。開け放されたドアから部屋をのぞきこんで、
「リン、起きてたか?」
「おはようございます、吉井先輩」リンはたった今座ったばかりの椅子から(しかし、さっきから座っていたかのように)立ち上がり、声変わりの始まらない明るい声で、やわらかく、作っているのを気取られない程度の微笑みを添えて挨拶した。が、モモはズカズカ部屋に入ってきながら呆れ返ったという顔をして、
「何がだ、バカ」
と一蹴した。
リンは仕方なく微笑をひっこめて、替わりににやにやした。「モモちゃん、人が悪いね。午後に来るって言ってたじゃない」
「予定が変わったんだ。午後は泳ぎに行く」
「海へ?」
「そこのプール」
「妙な予定が入るものだなあ」
「家に嫌な客が来てるんだよ。だから無理矢理、予定を入れた」モモは断りもしないでリンのベットの縁にドサッと腰を下ろした。その膝に、持ってきた小さなダンボール箱を乗せる。ガチャリ、と重たそうな音がした。
吉井モモは八年生だ。リンの一学年上だが、幼稚園からの付き合いのため先輩後輩といった関係ではない。また彼女は道を歩いていて男と思われる事はあっても、女と思われる事はないという人種なので、リンが変な気を起こさない限りは友達以上への進展もあり得なかった。今日ここに来たのは、リンに模型作りの材料を提供するためである。
子供の頃から工作好きのリンは、ここ一、二年、模型飛行機に凝っている。紙飛行機に毛が生えたようなのから始まって、しだいに作る物は大きく複雑になり、近頃は自分で図面を引いてベニヤ板を切るところから作り始めるというこだわりようだ。そんなリンの悩みはただ一つ、常にお金が足りない事だった。
とにかく土台、部品、道具立てといったものに非常にお金がかかる。これに関連する本だって買いたい。親から出資があることもあるが、大抵は祖父母からもらっている小遣いの範囲で工面するようにと言い渡されている。中学生には手痛い出費だ。ホームセンターの店員とはすっかり顔なじみになってしまったが、足しげく通うわりに大した買い物はしていない。喉から手が出るとはこういう事かと感じ入るくらい、欲しい物がいくつもある、でも買えない。誕生日やクリスマスに頼む物と言ったら「糸のこ」とか「ハンダごて」という調子だ。粗大ごみの回収所やスーパーの倉庫を巡り、工事現場を訪ね歩き、ホームセンターで値切り、実際の製作よりも材料集めのほうに時間と労力がかかっている。友達にも、会えば二言目には「ねえ、家にいらない板とか金具ない?」だ。
「全部やるよ」モモは膝の上のダンボールを床にガチャリと降ろしてリンのほうへ足で押しやった。ひどい渡し方もあったものだが、リンは目を輝かせて床にかがみこんだ。モモが持ってきたのはボルト、ナットを始めとする様々な金物の部品だ。
「随分あるんだね」リンはガチャガチャと中身をあさり、品定めを始めた。「すごいや。ほとんどのボルトがナットと組になってるね」
「ああ、それ、別々に拾ってきたのを後で適当にはめた。だからインチキだよ」
「いやこれは、規格が統一されてるから。はまるのは当たり前なんだ。助かるよ」
リンはしばらく金具を一つ一つ出したり入れたりしながら、おおすごいとか、これは使えないとか、これこそ欲しかったんだとか騒いでいた。モモはベットの縁に腰掛けたまま、ややきょとんとした様子でリンを眺めていた。モモにしてみれば、自分が長年拾い集めてきたつまらない宝物に、これほど大きな価値を見い出す人間がいる事は不思議だった。ボルトにしろ釘にしろ用途不明のいろいろな金具にしろ、モモにとっては小箱に集めたシールとか、珍しい色形の石とか、たまたま拾った地下鉄の切符とか、その類のものだった。モモはそうした、自分以外の人間にとっては無価値な、取るに足らない宝物が好きだった。物そのものに価値があるのではない。自分が、自分の手で、たまたま道端で拾ったり人からもらったりした、その事自体が宝物なのだ。偶然の不思議、廻り合いの不思議。何故かそういうものに、モモはひどく惹かれる。通学途中、犬の散歩中、買い物の帰り、旅行先の海岸、道に見慣れない物が落ちていると思わず拾って持ち帰ってしまう。そうして集まった箱一杯の宝物の三割程度が、工事現場などからはぐれてきた小さな金属部品だ。リンが(この見栄っ張りの気取り屋が)土下座してでも欲しいと言うので、今日こうして気前良く持ってきてやったのだった。子供じみた事だとは思うが、実は十年近くもかけてコツコツ集めてきた思い出の品を手放してしまう事には、少し抵抗があった。しかし、こうして大いに喜んでいるリンの姿を見ると、本来の用途、本来の価値を知っている人に使ってもらうほうが、部品にとっても幸せなのかもしれないと思った。これもまた一つの廻り合わせではないか。
「モモちゃん、予想以上だね」リンは弾んだ声で言った。「これほどとは思わなかった。今日ほどモモちゃんが友達で良かったと思った事はないよ」
「そうか。オレはお前にとってその程度の人間か。ナットをくれるだけが取り得の」
「おや。ひねないで下さい、吉井先輩」リンはまた口調と顔つきを作って、すっと立ち上がり、「このお礼は、必ずさせてもらいますよ」
正面は向かずに首をほんの少し傾けて振り返り、腰掛けているモモを見下ろすように流し目をよこして、見事に品を作った。
モモは顔をしかめた。「リン、毎日鏡の前で練習してるだろ」
「へえ」リンは向き直って、大袈裟に意外そうな目をして、「当然でしょ」と言ってのけた。どこまで本当なのかは分からない。変な方向に進まなきゃいいが、とモモは思った。
「んじゃ、オレはこれで」モモはベットから立ち上がった。
「あれ? もう帰んの? 下で麦茶でも飲んでったら」
「あそう。じゃ、麦茶だけいただいてく」
「ゆっくりしてけばいいのに。暇なんでしょ、結局は」
「さっき道でお前の同級生とすれ違ってさ。あまりここに長居すると後で何て言われるか分からない。あいつだよ、城文字だっけ?」
二人は部屋を出て、階段を降り始めた。二、三段降りたところでリンは思い出し、部屋に引き返して扇風機のスイッチを切り、急いでモモに追いついた。
「城文字奈香さんに会ったの?」
「そいつじゃなくて、そいつの手下っていうか取り巻きっつうか、そういうのがいるじゃん。そのうちの一人だよ。たぶん」
「二ノ宮さんだな。最近目付きがおかしいんだよ。絶対僕にほれてるんだ。毎日何かと用事を作って、うちの前を通るんだから」
「ふーん? 監視されてるんじゃないのか、お前」
「嫌だな。旅に出ようかな」
二人が居間に入ると、リンの母親がコーヒーを飲んでいた。リンの美貌は母親ゆずりである事が一目で分かる。ぱっと見は二十代でも通りそうな綺麗な肌、やや冷たい感じのするきりりとした目鼻立ち。ご近所の方々からは非常に口が悪くてずけずけときつい事を言う嫌な女だと噂されている。そして息子のリンから見ても、これはまあ事実だろうと思われた。
「あら、もうお帰り?」リンの母親はモモを見てにこにこした。
「麦茶飲んで帰るってさ」リンは冷蔵庫を開けた。「なんだ、無いじゃん」
「あんたが朝に全部飲んじゃってそのあと作らなかったでしょう」
「お母さんが作ってくれてると思ったのに」リンは気を付けてママと言わないようにした。
「いいっすよ。水で。オレもうプール行くんで」
「正、紅茶を淹れなさいよ。うちに女の子を呼びつけといて水はあんまりでしょ」
「この人は女の子じゃないよ」リンは薬缶に水をガーガー入れながら言った。「しかし紅茶を淹れて差し上げましょう、先輩」
「先輩はもういいって」
結局、モモはリンの淹れたアイスティーを飲み、戸棚から発見されたクッキーを食べ、夏休みアニメスペシャル(ギャグ漫画らしかったが、笑えなかった)を見て、正午近くに帰って行った。リンの母親は「お昼も食べてったら」と言ったが、リンはもう工作のほうに戻りたくてうずうずしていたので、断って帰るモモをあっさりさっさと送り出した。
猛暑の日差しは、いよいよギラギラと、アスファルトを焼いていた。溶け出しそうだ。
「七年生」「八年生」表記について
作中で詳細触れていないようですが、風波国はその前身である「北海道」時代からの義務教育制度を引き継ぎながら小中一貫教育を取り入れ、中1~中3を7、8、9年生と称するのが普通になっているらしいです。(自分で設定したのにうろ覚え)
また、並行して「小学生」「中学生」という語句も日常の用語として残っているようです。




