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消える流れるすり替わる  作者: 羊毛
4.氷の目隠し【過去篇】
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死体のある風景(3)

 地上には湿り切った風が吹いていた。多分、雲が垂れ込めているのだろう。風に、雪が混じっている。暗い。


 歩を進めるごとに、地表の氷が砕けてざくざく言う音。この坂を下り切るとホテル「ソメイヨシノ」はすぐだ。半歩前を行く岸は、さっきから無口だった。


「岸、お前――」玲磨れいまはためらいながら声を出した。「――朝、食べた?」

「……あ、まだだ」岸は柔らかく言った。「道理で力が出なくなってきた訳だ。うん、忘れてた」

「もう皆、食べちゃったよな」

「あーあ。駅んとこで何か食べるんだったね」

「いいよ、ホテルの飯のほうがきっとうまいから」


 風がどんどん強くなってくる。横から雪が叩きつける。びしびしと、打つように。寒い前に、痛い。


「この天気じゃボードは無理かなぁー」岸の声が、風に掻き消されそうだった。

「お前、なんとか財団の令嬢に目を付けたんだって?」

「それも千種ちぐさから聞いたの?」

「運命の人だってね。言ってくれるよね」

「思い出にしておくよ。財団のお嬢様じゃ仕方ない」

「財団じゃなくたって無理だろう」

「うん、でも、こう、財団だとか言われると諦めが付くね。本当に、ね」

「どんな人? イケてた? 美人? ロリータ?」

「変な子」岸はきっぱり言った。「すんごい変な子。トレーナのね、背中にね、『滅殺』って書いてあるの」

「ああ、そう。トレーナに惚れたんだ」

「違います」


 玲磨は歩数を数えるのをやめて、岸の足音を追う事にだけ集中していた。寒すぎる。痛すぎる。坂は終わっている。もうそろそろ、ホテルの駐車場に入っているはずだ。手袋をしていても、杖を握る手が冷たい。なんてまどろっこしい事をしているんだろう。


 玲磨は足を速めて岸に追い付き、彼の腕をぐいと掴んだ。と、岸が「あっ」と言って立ち止まった。


「え?」

「おう、岸。玲磨」黒猫の声がすぐ近くで聞こえた。

「議長? 誰ですかお客さんですか?」


 誰か側にいるらしい。


「ちょうどいいとこに来たよ」黒猫はいつもの呑気な口調で言った。しかし、玲磨は異変を嗅ぎ取った。


「岸。何人いる?」玲磨は岸の耳元に言った。

「三人……か四人」岸の声はぎこちなかった。

「誰だ? 敵か?」

「かもしれない」岸の声は上ずった。

「ちょっと時間が無い」黒猫はまったく落ち着き払った声で言った。「岸、お前の新しい里親を決めてあるんだ。宮凪みやなぎ家。玲磨と同じ家だ。どうだ、嫌か? もうご両親とは半分以上話がついている。あとはお前達さえ文句を言わないんなら、それで決定だ」

「議長――何故、今その話なんですか」

「悪いが、俺はもう行く。部屋にカードあるから、それで宿代払って、あと首都へ戻ってくれ。玲磨、岸を頼んだ」

「議長、意味が分かりません」

「バンダナ取っていいよ」黒猫は言った。

 玲磨はそうした。


 黒猫は驚くほど近くにいた。すでにホテルの玄関のすぐ前まで来ていた。白い、特徴の無い車が一台止まっていて、そこから降りてきたらしい背広姿の男が二人、黒猫を両側から押さえ込んでいた。お客さんじゃないだろう、どう見ても。更にもう一人の男が、二、三歩離れた所から、黒猫と岸と玲磨を均等に睨んでいる。車の運転席にも、一人。


「子供達に手を出すなよ」黒猫はきっと監視役の男を睨んで釘を刺した。「何度も言うが、知っているのは俺だけだ」

「議長!」岸が泣きそうな声で叫んだ。「どうして――」

「妖自連は健在だ」黒猫はにやにや笑った。「妖自連は不滅だ」

「嫌だ」

「わがままを言うな――おい、俺の話は終わってないんだ」黒猫は自分を車の中に引きずり込もうとする二人の男を両肘で小突いた。


「岸、忘れるな。お前は最強で、極悪で、血に飢えた妖怪だ――そして、ただ一人の人間のために、お前は弱くなる。その弱さゆえ、必ず誰からも愛されるように、なる。忘れるな。何もかも、上手く行く。どんなものも一度失われ、そしてまた戻る。俺も戻る。約束だ。必ず戻る」

「それはお別れの言葉です」岸は肩を震わせた。

「玲磨。こいつを頼んだ。お前はお人よしだからな。自分じゃそう思ってないみたいだが」

「苦しいこじつけですね」玲磨は低く言った。


「おい、こっちは仕事で来てるんだ」黒猫を掴んでいる男の片方が言った。「時間稼ぎなんてやめてくれ。仕事が長引く」

「うるさいなあ。分かったって……」黒猫は自分から車に向かおうとした。その時、左側の男の肘が黒猫の腹に思い切り入った。岸の肩がびくっと跳ね上がった。


 岸は真っ青になっていた。頭の中は真っ白になっているだろう。それが何故だか分かる。岸が今どういう状態であるか、手に取るように、目に見えるように、玲磨には分かっていた。前にも、見た事があるのだから。


 同じ情景の繰り返し。繰り返しだ、これは、「実験」なのだ。精密に記録され、処理され、計算され、結果が報告され――


 むせかえるような異臭、甘ったるい熱い気配が身を切る寒さの中に立ちのぼった。「クチ」が開いている。彼の血液はそこに集中し、他の部位には回らなくなる。彼はもう服を着ていないのと同じだ。何千もの研ぎ澄まされた歯を剥き出し、うめいている、彼の「クチ」はいつでも、飢えている。


 止めなければ。この結末だけは、最悪だ。


 岸もそれを分かっている。分かっているはずだ、いい加減に、自分を押さえる方法くらい学んだはずだ。知っているはずだ。

「議長――」

「岸?」黒猫が、顔を上げた。そのとき今まで黙って見守っていた男が、ぱっと岸の前に飛び出てきた。


 たぶん、それは、岸が黒猫に駆け寄ろうとしたのがいけなかったのだ。無意識に二歩踏み出した岸に、その男は正面からふいに飛びかかった。男の背が低かったのも――少なくとも、岸と同じくらいしか無かったのも、悪かったのだ。


 岸は反射的に男の足を足で払った。それは本当にただ払っただけの動作で、岸の体は相手と比べ物にならないほど華奢で、それなのに男は大きく体勢を崩した。岸にはそれができるのだった。生まれつき約束された敏捷さと強靱な体、人並みならぬ力――研究員達が彼に運動を禁じたのは、それが彼にとって危険であると同時に、周囲にとっても危険だったからだ。足をすくわれて男は前のめりになる。前のめりに――頭の位置が、低くなるという事――それは岸の体で言えば胸の高さだ。岸のクチは開ききっている。服は、無いのと同じ、今となってはもう何の役にも立ちはしない。岸は、惰性でもう一歩踏み込んだ。


「岸」黒猫が鋭く叫んだ。


 玲磨は岸の背に飛び付いて右肩を掴む――遅すぎる。

 ただ、成り行きの結果のように、勢い余った鉄扉のように、強いばねの入った狐罠のように、岸は腹に走る第二の「口」を、閉じた。


 音は、くぐもる。


 ぱっと、黒くなった。雪も、男の背も、岸の体全面も、真っ黒に染まった。玲磨はふらふらとあとずさった。二歩下がった時、黒く見えていた血飛沫が目も覚めるような赤に変わった。鮮やかな。魅せられるような赤。


 既に、死体。


 ずるずると横たわる。岸は身じろぎもしない。突っ立って冷たい黄色の目で、見下ろしていた。

 肩から上の、消え失せた体を。


 一瞬で食いちぎってしまったのだ。七十年前の実験の時より、格段に「顎」の力が上がっている。


(こいつは駄目だ)

(付き合い切れない)

(失敗作以前だ。問題外の外だろう)

(早めに潰した方がいい)

(こんなもの、こんな代物――)

――どうしてこんなものが人間と呼べるんだ?


「岸っ」

 黒猫が言った途端、岸は堰を切ったように泣き崩れた。声をあげて、咳き込むように。


 運転席の男が、何か怒鳴った。二人の男は黒猫を車に押し込み、自分達も飛び乗る。

「岸、俺を見ろ!」閉まる扉の隙間から、黒猫は叫んだ。「許せ。忘れるな」

 何をだろう。どうしろと言うのだろう。岸は血溜まりの上に泣くばかり。彼は許さないし、きっと忘れてしまうだろう。


 車は雪を蹴って走り出した。


 全てが急速に終わってゆく。誰にも止める事ができない。一体どうすれば良かったと言うのだろう。この期に及んでこれ以上、何があると言うのか。

 岸はもう泣きやんでいた。顔を少し上げて、ぐしゃぐしゃに裂けてしまった服をかき合わせようとした。だが、どうでもいい事じゃないか。彼の体は頭の上から爪先まで、余すところ無く血を浴びているのだから。背の高い、頼りなげな体。青年の真後ろに――


 ―――少女が立っている。


 長い、白い、コートを着て、その裾は横風にはためいて。暗い緑の傘、マフラーに、手袋、ジーパン、黒いブーツ。

 玲磨が額の目を向けると、更紗はわずかに首をすくめた。


 普通の子じゃないか。岸の大嘘つき。


 馬鹿なトレーナなんか着てないし、眼だって賢そうで、すっかり怯えてしまって。茶色みがかった短い髪が、雪に濡れて頬に張り付いている。傘なんか意味が無い。


 風は横なぐり。


「驚いたかい?」玲磨は言った。口先だけなら、なんだってすらすら言える。「二度とお目に掛かれないよ。これは世界に一匹だけの、珍種なんだよ」


 吐き気がした。今さら、だが。ホテルの中で、誰かが気付いた様子だ。警察が来る前に、上の連中に保護を求めなくては。


「もう、行けよ」玲磨は淡々と言い重ねた。「僕達、あんたみたいなのと違うんだよ。違う生き物なんだよ。――妖怪なんだ。さあもう行ってくれ」

「岸さん?」

 更紗は半歩前に出た。どういう神経してるんだろう、この女。こっちの言ってる事が聞こえないのか? 何も見えていないのか?

「岸――」

「岸じゃない!」岸が、突然振り返った。死体を背に、血を浴びた顔に、ぎらぎら光る二つの目で。「俺は岸じゃない! お前なんか知らない! 俺はお前の隣に座ってない俺はお前なんか見た事ない、俺は岸なんかじゃない、これ以上一歩でも近付いたら、お前も殺してやる――殺してやるからな! 失せろ!」

「でも」更紗の声は震えた。「岸さん」

「岸じゃない!」

「なんで?」更紗の声は大きくなった。「岸でしょう?」

「そいつじゃない! 消えろ!」


 更紗はふいに、傘を捨てて歩み寄った。岸はあとずさりかけたが、更紗の方がずっと早かった。

 岸の「口」は閉じきっていないのに。

 その前に立った。


 手袋を外して、右手を伸ばして、額に触れた。血を浴びた額に。

「岸――」

「岸じゃない!」

「肌を開いて」更紗の声は、落ち着いていた。

「俺は違うんだよ!」

「開いて」

「岸じゃないんだよ! 今、何をしてるのか分かっているかお前は――誰の前にいるか分かってるのか――あの飛行機の中で十何時間も誰の隣に座ってたか分かってるのか!」


 岸はやみくもに喚いた。


「殺してやろうと思ってたんだよ! 初めっから誰か殺したくてうずうずしてたんだよ! あの時だけじゃない! ゲレンデで会った時も、今も、お前を殺そうと、ずっと思ってたんだよ! 分かったか!」


「肌を開いて」更紗は語調を強めた。まるで怒っているみたいだった。まるで叱りつけているみたいだった。「嘘をついたって、分かるんだから。さあ肌を開いて」

「更紗」岸は声をかすませた。

「あたしの言う事が分かってる? 肌を開いて」


「――できないよ」岸はとうとう消え入るように言った。疲れ果てて、崩れ落ちそうだった。今にも消えてなくなりそうだった。「できないよ、君には、重すぎる。感情を受け取る側は――リスクを背負うんだ。君に渡すことは、できない」


「――だから、ほら」更紗はもう半歩近付いた。「――やっぱり、岸だった」

 彼女は少し背伸びして、顔を上向け、湿った凍った唇にそっと触れた。


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