死体のある風景(1)
目覚めると、すぐに布団から出たくなった。昔は毎日こうだったものだ。部屋は暖房が効いていて、起きるのに苦労は無い。薄闇の中でズボンを引き寄せ、ホテルの名前が入った浴衣を脱いだ。
シャツの袖口から、自分の上半身が見下ろせた。胸の中央から丹田にかけて真っ直ぐに、深い傷のような入口が走る。その両側の縁は、少し盛り上がって――二本の畑の畝のように――そして、いつでも少し、湿っている。ふんわりと、染み出したように。濡れて、けがれたように。シャツの下から手を入れる。息を詰めて触れる。強く、触れられた感触が分かる。爪を少しだけ立てると、それは微かな刺激なのに、ぴりっとした痛みを感じる。体の内側が、張り詰めた弦のように震えた。
岸は息を吐き出し、立ち上がりながらトレーナを被った。
嫌な夢を見た。しかし、かえって気分はいいようだ。
周りの六人は死んだように眠っている、明け方。絵馬は押し入れの中だ。さすがに息が詰まるらしく、指一本分くらい、その襖は開いている。
洗面所へ行き、石鹸を泡立てて手を洗った。
ちゃぶ台は隅に追いやられ、部屋一杯に人数分の布団が敷いてある。しばらく見回してから、黒猫の枕元にメモ用紙とペンがほうってあるのを見付け、そっと忍び寄る。いろいろ考えたが、用件だけ書くことにした。
樹氷見に行ってきます。(6時50分) 岸
身支度を整えて部屋を出ると、息をひそめる必要が無くなったのでほっとした。
駅へ行くと、テレキャビンは動き出したばかりだった。切符売り場の横に、大きなスキー場の全体図が掲げられ、緑や赤の豆電球が点灯している。コースの状況を示しているようだった。頂上にあたるところには、デジタル表示で頂上の気温が示してあった。氷点下十八度。なんだか寒そうだ。天気が悪いのだろうか。
躊躇していると、見知らぬおじさんがやって来た。駅の係員のようだった。樹氷が見たい旨を告げると、今の時刻で氷点下十八度なら、かなり暑いくらいだと教えてくれた。今日は天気がいいらしい。しかし、午後には崩れるかもしれないそうだ。また、今は試運転の時間で、実際にキャビンに乗れるのは三十分後からだとも言われた。
自販機があったので、缶コーヒーを買って、灰色の壁にもたれてゆっくりと飲んだ。
スキー板をかついだ人達が次々と駅に入ってきて、同じようにコーヒーを買ったり、地図を見たり、ベンチに腰掛けたりした。ボーダーも入ってきた。岸は思わず更紗を探した。
家族連れも入ってきた。「マイナス十八度だよ!」弟が姉に叫んだ。姉は面倒くさそうにうなずいている。
テレキャビンの機械はうなり声をあげている。
ピッ、と音がして、キャビンの切符販売機に電源が入った。たちまち、列ができる。岸はコーヒーの最後の一口を慌てて飲み干した。
壁から身を起こそうとすると、誰かが立ちふさがった。緑のバンダナ、白い杖。
「玲磨?」
「良かった」玲磨は溜め息をついた。「見付からないかと思ったよ」
「どうしたの? 皆もう起きたの?」
「ああ? いや、議長はまだ寝てる。ただ、支配人が部屋に謝りに来た。犯人は支配人の息子様とその友達だったそうだ。鬼ごっこしているうちに割ってしまってね、怒られるのが怖くて、適当な客室の入口に破片を放り出して、知らん顔をする事にした、と昨夜自白した。良かったね、疑いが晴れて」
「ああ……うん」岸は煮え切らない返事をした。
「とりあえず、その報告に来たよ。それと――」
「あ、いや」岸は気付いて、急いで遮った。「謝らなくていいよ。その替わり、お願いがあるから」
「なんだよ」玲磨はちょっと俯き加減になって、上目づかいに岸を睨むようなポーズをとった。「あまり変なのは、お断りだよ」
「今から僕とキャビンに乗って、頂上まで来てほしいんだ」
「はっ。なんだよそれ」玲磨は笑い出した。「交換条件になってないよ。お前は駄目だな、岸。いつでも騙され役だな」
「絵馬にもそう言われちゃった。でも、どうしても分からないんだよ。玲磨なら答えられると思うから」
「何? 頂上になぞなぞを出す怪物でもいるの?」
「うん、そんな感じ」
二人は列に並んで、切符を買った。改札を通り抜けて乗り場に入ると、冷たい空気と機械のにおいがする。がちゃがちゃと鳴る重たい靴を履いた、板を抱えた人々の列ができていた。丸腰なのは岸と玲磨くらいだ。
乗客は二人から四人ずつ次々とキャビンに詰め込まれ、キャビンは回転していく。乗り口でそれを見守っていた係員のおじさんが、玲磨の白杖に気付き、「足元気を付けてねえ。右に動いてますよお」と声をかけた。それを遮断するように、扉は自動で閉まる。
岸は玲磨の向かい側に座り、目を閉じてみた。キャビンはまだ徐行している。しかし、まもなくメインロープに乗り、どんどん昇り出すのだ。
「ああいうふうに言われるのは、どんな気分?」岸は尋ねた。
「さっきのか? べっつに。僕は基本的に自意識過剰な健常者だからね――ちやほやされるのは好きさ」
「玲磨。目が見えない人にしか分からない事は、何だろう」
「その質問には答えられない。でも、目の見えない時にしか分からない事なら、沢山あるよ」
「例えばどんな事?」
「沢山ありすぎるよ。その頂上の怪物はどんななぞなぞを出すの?」
キャビンがメインロープに乗った。岸は目を開けた。ゲレンデの斜面があっという間に遠ざかる。岸は朝を迎えたばかりの地上を見下ろしながら、樹氷とおばあさんの話を説明した。玲磨は時々話をまぜっ返すような質問を挟みながらも、おおむね黙って聞いた。
「きのう一日中考えたんだけどなあ。分かんないよ。ちっとも。もう一度見に行けば、何か分かるかと思って……」
「僕に答えろと言うんじゃなかったのか?」
「駄目、待って。一度、もう一回見てみる。それでも分からなかったら、玲磨に聞く。玲磨は、答えもう分かっちゃった?」
「ええ? さあ。分かったって言うか……たぶんそのおばあさんと同じ事、僕にもできると思うよ」
「本当!」岸は叫んだ。「大変だ。答え言わないでね。まだ言わないでね」
「くだんねえなあ」玲磨は欠伸をした。「そんな事のためにこんな高い金払ってわざわざ頂上くんだりまで……馬鹿みたい」
「でも、綺麗だよ、樹氷は。ちょっと見る価値あるよ。すごいよ」
「へえ、へえ、そうですか。すごいすごい」玲磨は頭をプラスチックの窓に預けて、二つの目も閉じてしまった。
岸も黙り込んで、窓の外を眺める事に集中した。キャビンはゲレンデの上を突っ切り、時々柱に差し掛かって上下に揺れながら、森の上に差し掛かる。コース外なのに、鮮やかなシュプールが一筋、二筋、深雪の中に描かれている。柱をかわし、岩を避け、もちろんスキーヤーは下って行ったのだが、岸はそれを逆向きに辿る。氷に包まれた木の枝先。獣の足跡が横切っている。狐だろうか。
降りて行きたい。ここからでは、きっとよく見えない。午後になったら、黒猫にボードを教わらなければ。黒猫は何と言ってたっけ? 不純な動機で始めると挫折するぞとか、なんとか。目を閉じたら、更紗が浮かんだ。今までで一番綺麗に思い浮かべる事ができた。上気した、はつらつとした笑顔だ。あれ? 後でまた会おう、みたいなこと言ってなかったかな? どこで? いつ? 思い出せない。くらくらするような、真っ白な眩しい雪に立つ、更紗。「滅殺」のトレーナ。
「お前――」玲磨の声が、岸の妄想をかき消した。
岸は目を開けた。
「――絵馬の口を開かせたの、お前なんだろ?」
「え?」更紗の事を聞かれると思い込んでいたので、意味を理解するまでに時間をくった。「う? いや? そ、そうなの?」
「あいつが口きいたの、お前に対してが最初なんだろ?」
「うーっと……そうかもしれない」
「何かやったの? お前、超能力が使えるんだって? 千種から聞いたよ」
「超能力じゃないよ……それに、絵馬にはそれやってないよ。ただ、独り言を言ってたら、彼女が突然、『あなたは考えた通りに喋ってるのそれとも考えずに喋ってるの? 考えた通りに喋っているんだとしたら、あなたの考えは滅茶苦茶』だって」
「へえ」玲磨は何故か鼻で笑った。「お前――そうだな。お前、いい奴なのかもしれないな、かなり」
「あ、本当ですか? それ、褒め言葉?」
「いや、相当の悪口だ」
玲磨はまた目を閉じた。




