残骸のある風景(2)
結局、犯人探しは振り出しに戻った。
昨夜、売店から戻って来た玲磨は部屋の入口に散っていた硝子皿の残骸を踏み、足に怪我をした。玲磨はこれを直前に部屋に戻った岸の悪ふざけと思い込み、彼を困らせるために破片をこっそり拾い集めて窓の外に捨ててしまった。玲磨は事件を闇に葬り去った上でねちねちと仕返ししていくつもりだったのだろう。しかし邪な打算が裏目に出て、疑いは玲磨にかけられた。そして結局、岸はそんな皿など割っていなかったのだ。
それを裏付ける証人は従業員の中から出た。食堂のウェイターであった。支配人が皿のなくなっているのに気付いたのは今朝になってからだったが、従業員のうちの何人かは昨夜から時計皿がなくなっている事に気付いていた。一見、破片なども見当たらなかったので、支配人が磨くか何かしに持っていったのだろうと皆思ったらしい。中でも今年来たばかりの若い見習いウェイターは、売店へ行こうとする岸と玲磨の姿を見かけており、その時刻には皿はとっくになくなっていた、と断言した。その一言で何もかも振り出しである。
しかし、振り出しとは言っても、絵馬にはもうゴールが見えていた。従業員達の顔つきを見れば、顔に書いてあると言っても良かった。皆、知っているのだ。知らない振りをしてくれているだけなのだ。くだらない話。最後まで気付かないのは、きっと支配人なのだろう。
「ここに居たの」エレベータから岸が一人でふらっと降りてきた。
絵馬は振り向こうとしたが、硝子器から目が離せなかった。透き通る水色の地に、蝶が舞う。あるものは濃くあるものは薄く、光の当たり具合によって浮かんだり消えたりするのだった。
「ああ、これはね」岸は嬉しそうに説明し出そうとしたが、絵馬の夢中になっている目を見て急に思い直した。「――綺麗だよね。僕も好きなんだ」
「久しぶりに外の空気が吸いたくて」絵馬は静かに言った。「外に出ようとしたら――これがきれいなものだから」
岸は黙ってただ微笑した。
「あの謎は解けたの?」絵馬はぽつりと聞いた。
「え? 犯人が分かったの?」
「そっちじゃない。木の区別の話。面白い謎掛けね」
「謎掛け、かなあ。僕がただ不思議に思ってるだけなんだけど……」
「玲磨が出した問題なのかと思っていたけど」
「そうじゃないよ」岸は樹氷と盲目のおばあさんの話を始めた。
絵馬は黙って耳を傾けた。
活き活きと黄色の目を輝かせて、岸は説明した。この人は本当に、喋ったり考えたりするのが好きなんだろうと思う。
「何度考えてもさっぱり分からないよ。聴覚か嗅覚か、触覚か味覚だろう? 味覚は除外していいはずだし……」
「ふふ」絵馬は笑った。「岸は、面白いね。素直なのかな。何にでも騙されるでしょう」
「う……あのおばあさん、僕をからかってたのかなあ」
「そりゃ、からかってたよ。本当の事を言わなかったんだもの」
「じゃ、嘘だったの? 目も見えてたの?」
絵馬は答えないでまた笑った。
「絵馬、答えが分かっている?」
「たぶんね」
「なんで? じゃあ僕も手がかりは持ってるんだ!」
「玲磨を見てれば分かるはずだよ」
「木は音で区別できるの?」
「そう」
「マジで? 音で? 耳を澄ませば?」
「そんな事できたら、すごいよね」
「なんだよう、分かんないようー」
絵馬はしばらく声を立てずに笑っていた。
「答えを言おうか?」
「駄目」岸はすぐに言った。「もう少し考える。自分で考える」
「じゃあね、考えを進める時の、ルールを教えるよ」絵馬は顔をあげた。「あなたは全然、考える時に道筋が無いから。だから時々、深みに嵌まってる」
「そう? 自分では不自由してないつもりだけど」
「仮定と結論を取り違えないことよ、まずはね」絵馬はゆったりと、自然な口調で言った。「あなたは、『もし、何々なら……』と仮定したそばから、それを結論に持ってきて、次の瞬間には他の道を忘れている。他の道というのは、『もし、何々でないならば』という仮定。あなたは玲磨が犯人だった場合について事細かに推論していたけど、もしきちんと筋道立てて考えるという事をしたかったのなら、玲磨が犯人でない場合についても推論するべきだった。あなたはことごとくそうやって取りこぼしてる。そう思わない?」
「うーん……そうかな?」岸は首をひねった。「よく分かんない。そうかもしれない」
「第二点は」絵馬はすらすらと言った。「必要条件と十分条件の取り違え。何々ならば何々である、と断言する時、それが真か偽かの見極めね」
「さっぱり分からないよ」岸はうなった。「ついて行けないよ」
「簡単に言えば、温泉ホテルは十分条件、ホテルは必要条件。温泉ホテルはホテルである。これはいつでも正しいから真。ホテルは温泉ホテルである。とは、限らない。これは偽。十分条件はいつでも必要条件に含まれるけど、必要条件は十分条件に含まれない。このギャップを見落とすと、なかなか気付けない。今の例で言えば、温泉の付いていないホテルの事だね」
「うーん。うーん」岸は必死に考えた。「言いたい事は分かる。でも応用できないよきっと。絵馬は、本当にあの本を理解してたんだね。よっぽど読み込んだんだろう?」
「さあ? どの本? ああ、『こどもの数学基本編』か……あのシリーズは妙に文語調で絵も古くさくて……好きだけど、ああいう本。感情移入しないでのめり込めるから……」
そうか、と岸は思う。軽い、小さな痛み。同情なんかじゃない。たぶん。誰もが、多かれ少なかれ、同じなのだから。
「外に出られて、良かったね」岸はそっと言った。
「そうだね。こうしてみると、喋るという事は、現実だよね。外へ出るという事は、現実だよね。食べるという事も、見るという事も、聞くという事も、泣ける本を読んで感動するのも、現実。外の世界に自分が関わるという事だよね。だから眠っている時は何も見ないし聞かないし、喋らないしどこにも出掛けないし、何も食べないんだ。夢の中で、休んでいるから」
「休むためには、それが必要かな?」
「どうかなあ。でも、岸はきっと寝ながらでも喋るでしょう」絵馬はそう言ってまた笑った。すごくおかしそうに笑った。
岸もつられて笑った。「ありがとう。よく考えてみる」
「玲磨に聞けば一発だよ」
「嫌だよ。自分で考えるんだ」




