残骸のある風景(1)
『一般に、正しいか正しくないかがはっきり決まるような事柄を述べた文や式を命題という。ある命題が正しいとき、その命題は真であるといい、正しくないとき、その命題は真でない、または偽であるという。条件をP、Qで表すと、命題は「PならばQである」の形で述べられるものが多い。このときPをこの命題の仮定、Qを結論という。この命題を記号を使って……』
以下延々とこの調子である。
「楽しいの?」岸は思わず尋ねた。
絵馬は黙ってページを繰った。
『右の図の直角三角形において、一つの鋭角Aの大きさが一定である限り三辺の比率は常に一定である。そこで比の値BC/ACを角Aの正接またはタンジェントという。同様にBC/ABを角Aの正弦またはサイン、AC/ABを角Aの余弦またはコサイン、AC/BCを角Aの余接またはコタンジェント、AB/ACを角Aの正割またはセカント……』
この本の表題が「こどものための数学読本・基本編」となっている事は驚異的である。絵馬は内容を理解しているのだろうか。この文章は実はさり気なく韻文になっていて、上手く読み取れば面白いジョークになっていたりするのだろうか。この文章が異世界の呪文に見えるのは岸の頭が悪いからだろうか。
唖然としてページを見下ろしていると、絵馬は見られているのが嫌になったらしく、本を閉じて立ち上がった。
部屋には他に誰もいなかった。売店へ寄るという千種と別れて岸が戻ってくると、絵馬が押し入れから出てきて一人で本を読んでいたのだ。他の皆は何処へ行ったのか分からない。絵馬は相変わらず岸の存在をまるっきり無視していた。
絵馬は小さなベランダに面した障子を開け、すぐに閉め、ちょっと部屋を見回して考え込んでから、また元の場所に戻ってきた。
「絵馬さん」岸は彼女から少し離れた所に座って、勝手に話しかけた。「君は支配人さんの硝子を割った犯人を知っているの?」
絵馬は反応せずに、さっきのページを開いた。
「部屋にずっと居るのは君だけなんだ。部屋に証拠があって、玲磨がそれを隠そうとしているなら、絵馬さんがそれを知っているはずだ……玲磨は犯人なのかな? 犯人でないのかな? それとも犯人を知っていて、庇おうとしてるのかな? 証拠は目で見えるのかな? 別に何も見えないけどなあ」
岸はぐるぐる首をめぐらせて部屋を眺め渡した。
「見えないならば隠れている。押し入れか。絵馬さん、押し入れの中を見せてもらっていいですか?」
絵馬は顔もあげなかった。
「同意が得られないようです」岸は自分で自分に報告した。
「それでは、駄目だ」岸は自分で自分に答えた。「そこの捜索は後にしたまえ。証拠がこの部屋にあるという事がはっきりし、この部屋の他の場所を全て探し終わってから、その押し入れを捜索するべきだと思わないか」
「しかし、上司」岸は自分に反論した。「その押し入れを捜索し、証拠が見付かったら、証拠がこの部屋にあった事はまぎれもなくはっきりするでしょうよ。そうすれば他の場所など探す必要は無いわけです」
岸はちょっとの間この事について悩んでいた。しかしすぐに違う考えがぽろぽろと飛び出してきて、他の問題を押し流した。
「絵馬さん。雪と氷に厚く覆われた、同じ種類で同じ大きさの木を、区別する事はできるかな? どうやって? 目の見えない人にしか分からない事は何かな? においと、味と、触れた感触、そして音。木はにおいで区別できるかな? 木は味で区別できるかな? 木は手触りで区別できるかな? これはできそうだけどね、その木は雪と氷に覆われていて、枝も幹も分からないんだよ。その形や大きさは毎日の風の気分次第。だから手触りでは区別できない。木は音なんか出すはずないし……出すのかな? あのおばあさん、木の中の音を聞いてたのかな? それでどうやって区別できるんだろう?」
「あなたは考えた通りに喋っているのそれとも考えずに喋っているの?」絵馬が本から目を離さずに口だけ動かした。
岸はびっくりして黙り込んだ。
「あなたの考え方は、もし考えた通りに喋っているのなら、めちゃくちゃよ」
「そ……そう?」岸はたった今まで自分の喋っていた事を振り返った。ぺちゃくちゃ喋ってはいたが、滅茶苦茶なつもりは無かった。「どこらへんが? 僕、何か変なこと言ったかな? もしかして、重要な事を見落としているのかな? 僕はとっくに犯人を割り出せてもいいのかな? つまり僕はすでに証拠を手にしているのにそれを自覚していない? だから玲磨に睨まれるんだ」
「人の噂は小声でするもんだ」がたっと襖が開いて、玲磨が入ってきた。「今すぐ黙るか今すぐ死ね、この化け物」
外に行っていたらしく、もこもこしたジャンパーを着込んで、灰色のマフラーをきっちり巻いている。その頬は少し血が昇っていた。絵馬は彼が入ってきた途端非常に慌てて本を閉じ、立ち上がり、押し入れに引っ込もうとしたが、玲磨は足音を聞き分けてさっと彼女の足をすくった。
「またお前か」玲磨は見えてもいないのに正確に彼女を睨み下ろした。「うろちょろ目障りなんだよ」
絵馬はのろのろ立ち上がって兎のように押し入れに飛び込むと、バンと音を立ててその襖を閉め切った。
岸は無言で玲磨を見た。玲磨はジャンパーを脱いでハンガーにかけ、マフラーもその柄に巻き付けると、今朝と同じように部屋の隅に寝転んで、二つの目を閉じた。今朝の一件があってから、ずっと岸に口をきいてくれないのだ。
岸はきちんと壁のフックにかけられた上着とマフラーに目を移した。玲磨は身の周りの物に対してはかなり几帳面だ。絶対に床に放り出したりしない。鞄の中も、整然と区分けされている。そして、自分の持ち物を人に触られるのをものすごく嫌がる。目の見える奴はどんなに言ってもきちんと元の位置に戻せないから、困るのだと言う。
部屋の中は静かになった。
岸も畳に寝転んで目を閉じてみた。目を閉じたら、何か分かるだろうか、玲磨に見えるものが、自分にも見えるだろうか。窓の向こうで、風がうなっている。そのせいで窓は少しがたがた鳴っている。壁の向こうの機械音は、暖房のためだろう。見えている間はバックグラウンドだった音が、目を閉じると前面に出てくる。音か。耳を澄ませば、玲磨の息遣いも分かる。眠っているのだろうか。絵馬はどうだろう。
においは? 畳のにおい。壁のにおい。暖房からの送風は乾いている。
触覚からは? ふかふかの座布団と、畳。触れていると、目の方向が分かる。床に新聞が放り出してある。
まもなく、けだるい時間が漂い始めた。
眠い。
今日は山頂にも行ったのだ。帰って来た途端、破片が見付かって、その後、またゲレンデへ行って。更紗に会った。そうか、更紗か……玲磨は眠る時と眠らない時をどうやって区別するのだろう。玲磨は夢を「見る」のだろうか。
ばたばたと足音と人声が近付いてきたので、岸は目を開けて体を起こした。
黒猫と慕子と朝月が帰って来て、まもなく千種も帰って来た。黒猫達三人がホテルの中を「探検」してきた事を知ると、千種は不機嫌になった。慕子を朝月に独り占めされた、というわけだ。千種は自分を外に誘い出した岸をちらっと睨んだ。
「切真はどうした?」黒猫が部屋を見回した。
誰も行方を知らない。
「留守番頼んだのに。しょうもない奴だな。絵馬は?」
「いますよ」と岸は押し入れを見やった。
玲磨は寝転んだままだ。本当に眠っているのかもしれない。
黒猫はテレビをつけた。
そこへ、切真が帰って来た。
「議長」襖が開く。
「切真、お前、絵馬を独りにしたな?」黒猫は振り返りもせず、リモコンでチャンネルを変えながら言った。
「すみません――忘れてて」切真の声はぼそぼそと沈んでいた。
「どうかしたのか?」黒猫は少し驚いて振り返った。
切真は血の気の失せた暗い顔をしていた。そして彼が何か言う前に、襖が少し開き、
「ちょっといいですか」
と、現われたのは、支配人だった。
「良くありません」黒猫はすかさず立ち上がって厳しく言った。「何の話だか知らないが、子供の前ではやめてもらおう。この団体の保護者は俺で、他は全員未成年者だって事は何度も言ってるはずなのに、なんであなたは俺を通さず切真に何やかや言ったりするのかな。あなたにその権限は無いはずだ」
「なんであろうと結構」支配人はずんずん踏み込んできて、持っていた白い袋の中身を、ちゃぶ台の上に引っ繰り返した。慕子はびっくりしてあとずさった。
硝子の破片の山だった。
色とりどり、というわけでもない。透明なかけらばかりだ。かなり大きい破片も二、三個あって、元の形は大きな深皿だったのではないかと思われた。しばらく眺めるうちに、岸は急に思い出した。これは時計だ。ロビーの柱の一つに掛けてあった硝子の時計盤だ。残骸の中に、長針と短針、それに機械の部分もある。
「そこの窓の真下に、落ちてたんだ」支配人は廊下に顎をしゃくって言った。「後からごたごた言われなくないんでね、切真君にも確認してもらったよ」
「そうですか」黒猫は押し殺した声で言った。「あなたがあとほんの少しでも冷静なら、俺は別室を用意して、子供達のいない所でゆっくり話し合いたいと提案しますがね」
「子供達とは言うけどね、僕から見れば――」支配人は子供の喧嘩を取り纏める大人、といった顔をした。「――皆、似たような年齢に見えるね。むしろ、君が一番幼く見えるくらいだ、保護者さん」
「あなたの見た感じの意見なんか聞いていない。そこの窓というのはどこの窓かな。硝子の破片が見付かったから、俺達にどうしろと言うのかな」
「六万五千円、弁償してくれればそれで無かった事にする。本当はきちんと割った本人が出て謝ってほしいんだが」支配人はまだ寝転んで目を閉じている玲磨を見やった。「ぐちゃぐちゃ引っかき回しても仕方無い。金で終わらせよう。こっちだって警察沙汰には、したくない」
黒猫は何か言いかけて黙った。警察に出て来られると厄介なのは確かだった。妖自連のメンバは、一応全員戸籍もあるし、身元を保証する養父母もいる。だが、どこでボロが出るかは分からない。本当にまずくなれば政府上層部からの保護がかかるはずだが、たかが硝子皿一枚のためにそんな波風が立てば立場は悪くなるばかりだ。
部屋はしんとなった。
「玲磨」黒猫は苦虫を噛み潰したような顔で、低く呼んだ。「起きなさい」
「やだよ」玲磨は寝返りを打った。「騒々しいのが好きな奴は隣の部屋へ行ってくれ」
「玲磨。俺は本気で言ってるんだ。起きろ」
「僕も本気ですよ。今すぐそのくそうるさいオッサンを叩き出してくれ」
「玲磨」
「いいんだよ、議長さん」支配人はうんざりした感じで言った。「無理に謝らせてくれなくていいよ別に。こっちは金さえ貰えば満足する事にするよ。がめつくて欲深くて、ひからびたオッサンなんでね。金を払え。もう一度言っとくと、六万五千円だ」
「私はまだあなたがここに来た理由を聞いていませんが」
と、部屋の別な隅から、細いがよく通る声が言った。
皆は目を丸くして振り返った。
絵馬がいつの間にか押し入れから出てきて、その襖に背を預けて座り込んでいた。少女は肩下まである黒い髪を指先でいじりながら、誰とも目を合わせず、しかしはっきりした口調で続けた。
「あなたは冷静を失っているか元から情緒不安定かどちらかと思います。議長に何かお話があって来たのかと思えば、ゴミを広げて苦情を言うようだし、その苦情も終わらないうちに、議長を子供呼ばわりし始めるし、それが終わったと思えば、次には金を出せと言うし、その説明もしないうちに、警察を出してくるし、それが終わったら、今度は謝らなくていいとおっしゃる。あなたは何をしにこちらへいらしたのです」
皆は黙り込んでしまった。絵馬が喋ったこと自体に驚いていたし、またその内容にも驚いていた。
絵馬は沈黙の中で肩をすぼめて、後ろの押し入れの襖をそろそろと開けた。
「あなたがお答えにならないのなら私の質問はこれだけです」
そのまま押し入れに引っ込もうとした。
「待て、絵馬」黒猫がかすれるような声で叫んだ。「お前いつ喋れるようになった」
絵馬は茶色味がかった大きな瞳を初めて真っ直ぐに黒猫の目に向けた。しかし、何も言わなかった。
「絵馬さん」岸は思わず言った。「次の質問は?」
絵馬はまた俯いた。
「なんなんだ」支配人はいらいらと吐き捨てた。「あんたらは何なんだよ。そろって気が狂ってるのか? 人の話を聞いているのか?」
「次の質問は」絵馬はぼそぼそと言った。「窓の真下は一つしかないけれど、その真下に対応する窓は五つある。一階でも二階でも、四階でも五階でもなく、この三階の窓の前にあなたが来た理由は、なんですか」
「他の階には客が入っていない」と、支配人はこれには勝ち誇って答えた。
「まだ一つ目の質問にお答えでない」絵馬は小さく言った。「その前に何をしにここに来たか私は質問しました」
「証拠を見せにだよ。他に何があるって言うんだ」おっさんはむきになって言った。
「その証拠はどういうものですか。その証拠から何が分かりましたか。ここへそれを持って来た理由は」
「君と話してるんじゃないんだよ」
「それは事実ではないと思います。あなたは私の質問に二度答えました。三度目を拒否する理由は何ですか」
「また、理由か」
「答えられないからだよ」と玲磨が半身を起こして言った。
「証拠なんて無いんだ」と突然、慕子が言った。「でまかせだよ。嘘っぱちだよ」
「これが証拠だろう?」おっさんは真っ赤になってちゃぶ台の上の残骸を指差した。「無視か? 言い逃れか? いつまでもこっちをたばかる気か?」
「それはどういう証拠で、何を示す証拠で、あなたがそれをここに持って来た理由は何なのか、答えて下さい」絵馬はやや語調を強めて言った。
「ああ、そう」おっさんは仏頂面で言った。「これはこういう証拠だよ。硝子皿の残骸だよ。今朝割れた硝子皿だ。この袋に入っていた。この袋はな、枕カバーだよ。この部屋を掃除した従業員に聞いたらな、枕カバーの数が一つ合わないそうだ。それがこれだろ。ええ? この枕カバーに入った硝子の破片がな、この部屋から出て真正面の、窓の下の雪ん中に落ちてたんだよ。この部屋の上の階にも下の階にも客は入ってない。分かったか? 何を示すかって? この部屋に泊まっている人間が皿を割ったって事だ! 何故ここに来たかって? この部屋に犯人がいるからだろ!」
「その可能性もあるというだけの事です」絵馬は淡として言い捨てた。「皿を割って枕カバーを盗んで窓の下に捨てるくらい、部外者だってできます。あなたにもできます」
「お嬢さん」支配人はたしなめるように言った。「そんな探偵ゴッコみたいな話をしてるんじゃないんだよ」
「自分の泊まっている部屋の前の窓の真下に自分の割った皿を捨てる馬鹿がどこにいます?」
「じゃあ聞くがね」支配人は声を荒げた。「自分が泊まっていない部屋の前の窓をわざわざ開けてそこから硝子を捨てる人間がいるのか? どんな理由で?」
「自分の罪から逃れる為です。でなければ我々に罪を着せる為。ところであなたはどうしてその袋が窓から投げられたと分かったんですか? 窓の下に物がある事と窓から物を投げて落とす事と、必ずしも結びついていませんけど」
「投げたんでなければ足跡がつく」支配人は愚問だとばかりに言った。
絵馬も愚問だったと思ったようだった。
「枕カバーの事はどう説明する?」支配人は反撃にかかった。「部外者が枕カバーを盗んだのか? 実際問題として、誰がそんな事をできる?」
「鍵は開いています」
「だから? 入れたから、盗めたのか?」
「替えの枕カバーは下駄箱の上です。下駄箱と部屋の中は襖で仕切られています」
「それで? 盗んで、割った皿をそのカバーに詰め込んで、わざわざその窓から投げたのか?」
「あなたにはできたでしょう」絵馬はますます小さな声で言った。「あなたでなければ、うちの誰かです」
「ああ、そうかい!」支配人は怒鳴った。「そうかそうかそうか! 呼べばいいんだろ、警察! 指紋採ればいいんだろ! この破片の中から、おれの指紋が出たら、あんたの勝ちで、あんたの指紋が出たら、おれの勝ちなんだろ! そんなに言うんならあんたが割ったんだろう! いいだろう、今すぐ一一〇番だ」
「あんた馬鹿じゃないの」千種が叫んだ。「そんなに硝子の皿が割れて惜しいなら、飾らなきゃいいでしょう!」
「指紋なんか出てくるわけないじゃない」と朝月も言った。
「手袋してたんだろうからな」と切真。
「そうかねえ」玲磨が言った。まのびした、からかうような声だった。「指紋なら、出てくると思うよ」
皆は玲磨を見た。
玲磨は立ち上がって、大袈裟に溜め息をついた。
「出てくると思うよ、僕の指紋。だって、そこの玄関のとこに散ってた破片、枕カバーに詰めて窓から投げたの、僕だもん。でもね、割ったのは僕じゃないよ。割ったのはクチだよ」
玲磨は身を翻して足早に、部屋から出て行った。




