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消える流れるすり替わる  作者: 羊毛
4.氷の目隠し【過去篇】
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破片のある風景(4)

 リオーザゲレンデの全貌を見上げる位置に、大きな建物が一つ建っている。インフォメーションセンタ、食堂、売店、テレキャビンの駅までもがその一つの建物に詰め込まれている。建物の屋根は急勾配になっていて、ある程度雪が積もると、やがてそれが自身の重みでどさどさと落ちてくるのであった。落ちてきた雪を頭にくらうと痛い事になるので、その辺りにはポールとネットで境界が作られていて、近付けないようになっている。その境界の辺りには、比較的柔らかい雪が積み上がっていて、そこに色も長さもさまざまなスキー板やスノウボードがぐさぐさと刺してある、それは誰がそうしろと命じたわけでもないのに、皆そうしているのだった。ちょうど昼時だし休日だったので、食堂に入る人間の数はおびただしく、突き刺さる板もぎっしりと列をなしていた。


 従って、コツを知らない初心者が一人、自分の板を上手く刺せなくてうっかり倒してしまった時、その隣のボードが倒れ、そのまた隣のスキーも傾き、また隣も倒れ、あとは一息に


 ばたばたばたガン。


 将棋倒しの要領で小気味良くみんな倒れてしまった。ちなみに最後のは、外灯の柱に遮られてこの連鎖反応が中断された音だ。


「ほう」岸は嬉しそうな目をした。「もう一度見たいな」

「まだ残ってるから、蹴ってみたら?」と千種ちぐさは言った。

 それはかなり魅力的な提案だったが、岸は良識にのっとって我慢する事にした。


 倒してしまった女はおろおろしていたが、立て直そうにもあまりに数が多すぎるので、途方に暮れてしまった。連れの友達はそれでも一本ずつ拾って雪の中に刺し直そうとしたが、通り掛かった中年男性の一団が「なに、大した事じゃないから、放っときなさい」と入れ知恵したので、それに従った。


「ここだと邪魔になるみたい」千種はゲレンデからスピードを緩めもせず次々と滑り込んでくるボーダーやスキーヤーを見て、岸を隅に引っ張って行った。


 岸は無言でゲレンデを見上げた。


 白い、斜面、黒い、森。豆粒のように散らばる人影。左右に揺れながら、ずんずんこちらに下ってくる。ボーダーは大きな弧を描く。くるくる回るリフト。それは岸の知らない世界だ。ここから眺めているだけでは、決して分からない世界だ。黒猫の言いたい事は分かる。岸に、研究所で生まれ育ち、閉ざされて育った皆に、もっと広い世界を知ってほしいのだ。


「どう? やってみたくなった?」千種が尋ねた。

「少しはね」岸は穏やかに言った。

「嫌なら断ればいいのに。あんたは議長に逆らえないんだね」千種はちょっと意地悪く言った。

「そうじゃないけど」

「だって、輸血できないんでしょ? 岸の血は」

「まあね。一度目は、たぶん大丈夫。二度目からが、まずい」

「一度の怪我で二度輸血しなきゃいけなかったら?」

「どうだろう。大変かもね」岸は笑った。


 その横顔は、どこか寂しげにも見えて、この不思議な姿の青年は、今にも風にまぎれて消えそうに見えて、千種はえも言われず不安になり、また哀しくなった。こんな頼りない場所に生きている自分達は、いったい何なのだろう。これから何処へ行くのだろう、どんな道を辿るのだろう。その事に、何の意味が、あるだろうか。生きて行く事に。


「あたしに話があったんでしょう?」

「千種さんに、というわけじゃないけど、あなたが一番聞いてくれそうだったから」岸はゲレンデから千種へと視線を移し、つと右手を伸ばして千種の額に触れた。

「何?」

 山吹色の目に真正面から見据えられて、千種はたじろぎ、微かな嫌悪と、何か別なものを感じた。これは、何だろう。


 額がちかちかしたかと思うと、風が千種の内側を駆け抜けた。岸はすぐ手を放して、目を逸らした。


「何? 今の」

「君の不安を吸い取った。効き目があれば、いいけど」

「分からない、何それ。なんで?」

「僕のお節介」


 辺りの景色がさっきと全く違って見える事に気付き、千種は黙り込む。


「聞いてほしい話というのは、玲磨れいまの事なんだけど」と岸が続けたので、千種はなんとなくがっかりした。

「玲磨は、何か知っているらしくて……そしてたぶん、僕も知っている事なんだ」

「硝子の事ね?」

「そう。さっき何度も僕を睨んできた……余計な事を言うなよって目配せしてるように見えるんだよ。僕は、あの硝子の事について、何か知っているのかもしれない。少なくとも玲磨はそう思ってるらしい。だけど、僕自身は心当たりが無いんだ」

「ふうん。……それは重大な事かもね」千種は考え込んだ。「あいつが犯人だって事は分かり切ってるけど……証拠が出ない限りあいつは口を割らないね。岸が証拠を握ってるんだ」

「だとしたらどんな証拠だと思う?」

「二人で売店に出かけた時だね。そこしか無い。何かあったんだよ」

「帰ってきた時、おかしかったもんね」

「岸はどうしてあいつより先に帰ってきたの?」


 そこで岸はあの時の会話を思い出せる限り説明した。しかし、玲磨が岸に帰れと命じる直前のあたりは、どうしても思い出せなかった。硝子の壺に気を取られていたのだ。


「割れたのがその壺だったんじゃない?」

「そうじゃないよ。さっき確かめたけど、なんか、目立つ所にあったやつじゃないみたいだ。どこか隅のほうに飾ってあったのがなくなったんだ。僕は注意力が無いのかなあ、ロビーを見回しても別に何一つ減ってないように見えるんだよ」

「見てるようで、見てないって事だ」千種は爪先が寒くなってきたので、雪靴の中で足の指を曲げたりのばしたりした。「岸はきっと何も知らないのかもしれないよ。ただ、玲磨は、自分が見えてないから、分からないんだ。自分に見えないものでも、岸には見えてたに違いないって思って怯えてるんじゃない?」

「そうかも……でもなんか引っ掛かる」岸は目をつぶって、記憶を掘り起こした。「僕は謝って……玲磨はあっそうって言って……そのあとは、またしばらく黙ってたんだ。で、何か、突然、帰れって。でも、突然、あの時……突然じゃないんだ。何か小さな、取るに足らないきっかけ――子供が笑い出したんだ」岸は目を開けた。「そうだよ。玲磨に分かるのは音と、においと、味と、手触りだけなんだ。あの時子供の笑い声が突然聞こえてきて、そしたら玲磨は、帰れって言い出したんだ」

「うーん……でもそれがどうしたって感じだねえ……あいつは子供が嫌いだから、声を聞いたら腹が立ってきたんだろうし。まさか子供が共犯?」

「そもそも、硝子が割れたのは、本当だろうか」岸は思考を飛躍させた。「何もかも支配人さんのでっち上げだったりして」

「破片を見せられたんでしょう?」

「たった三粒、ね」岸は次々と条件を取り込んでその仮説を検討した。「破片が持ち去られたって話だけど……なんとなく妙だな。僕達が戻ってきた時タイミングよくあそこに現われたのも妙だし。理由も言わないで玲磨を犯人だって決め付けた。うん、あのおじさんは、怪しい」

「でも、玲磨はその百倍怪しいよ。足の怪我の理由を言わないし。絶対自分で割った硝子を自分で踏んだんだよ。間抜けだね」

「何かをごまかす為に――僕を怒鳴りつけたんだろうか。何かから皆の目を逸らす為に? ひょっとして、さっき僕をつねったのも、皆の気を逸らす為? 部屋のどこかに証拠があるのかな? そう言えばバンダナを外してた理由も分からない――」

「あなたはそうやってぽろぽろ、ぽろぽろ、違うアイディアを引っ張り出してくるんだね」

「うん――喋りにくいって言われるんだよね。お前は会話が飛びすぎてわけが分からないって」

「あたしもだんだんわけが――」千種は言いかけて、息を飲み、思わず隣に立つ岸の腕に両手でしがみついた。


 波しぶきのように雪を蹴立てて、鮮やかな弧を描き、一人のボーダーが迫ってきた。二人の目の前でボーダーはくいっと板をひねってぴたりと止まり、ゴーグルを上げた。


 更紗だった。


「やっぱり、岸さん」更紗は上気した顔に満面の笑顔を浮かべ、やや弾んだ声で言った。「彼女さんがいらしたんですね。全く知りませんでした」

 灰色のズボンに大きめの黒いトレーナ(事もあろうに白抜き明朝体で「滅殺」とプリントされている)、髪が短い事もあって、女性というよりはやんちゃ盛りの少年のようだ。

「彼女じゃ、ありません」岸はすぐに言った。「この人は、施設で一緒だった人」

「誰?」と千種は聞いた。

美生みき更紗さらささん。飛行機で相席だったの」

「へえ」

「さっき力、使ってたでしょう」更紗はきらきら輝く目で言った。「見えてたよ、その人の額に、手を当ててたでしょう」

「それがどうかしたの?」岸はにやにや笑った。

「いいんだよ、別に、心配かけたからちょっとお礼に来ただけ――」

 更紗はぱちんぱちんとボードの留め具を外して板を脱ぎ、ネットの手前の雪山にざくっと立てた。それから岸を振り返って、

「兄が交通事故に遭ったって言うんで、急いで帰る途中で……ほら、両親が、同じ目に遭ってるから……でも、結局かすり傷だったから、まあ、その、もうなんでもないんです」

「何よりですね」岸は微笑んだ。「家はこの近く?」

「ええ、コーダの辺り。岸さんは? ええと、里帰りだっけ?」

「これは親睦旅行会で――家は首都ですけど」

「そっかあ。宿はどこ? ソメイヨシノ?」

「そう、そこ」

「いつまでいるの? もう帰る?」

「明日まで」

「ふうん、分かった」更紗は笑った。「じゃあね。ありがとう。またね」


 更紗は歩き出したかと思うとあっという間に遠ざかって、建物の中に入って行った。


 岸は彼女の背中が見えなくなるまで瞬きもせずに見つめていた。


「うっわ、何にやけてんの?」千種が呆れて岸の顔を覗き込んだ。「飛行機で相席? 何があったわけ?」

「なんにも。僕、スキーじゃなくてボードを習おう」

「あの子が誰だか、分かってんの?」

「僕の運命の人。議長を呼んでこよう。今すぐボードを始める気になった」

 岸は歩き出した。

「馬鹿ね! あれは美生財団のお嬢様でしょうが!」千種は笑いながら怒鳴った。「あんたが手を出せる人じゃないんだよ!」

「へえ?」岸はすっとんきょうな声をあげた。「財団? あの子の家が?」

「うちらが泊まってるホテルの、持ち主だよ! パンフレットの一番下に書いてあるじゃない。去年、会長夫妻が事故で亡くなられて――新聞に載ったのに。ああ、アメリカにいたから知らないのね――とにかく、あの子は今の会長の妹さんよ。事故に遭ったお兄さんて、美生財団の会長でしょう!」

「へえ。それはそれは。知りませんでした」岸のにやにや笑いはやまない。

「ちょっと! 正気なの? マジ惚れ? 意味分かんないし!」千種は喚き立てた。

 岸の目には、雪が七色に見えている。

「うん、僕にも、さっぱり分からない」


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