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消える流れるすり替わる  作者: 羊毛
4.氷の目隠し【過去篇】
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破片のある風景(3)

「うずくんだ」岸は少しいらいらしたように言った。「特に、夜。眠れなくて……何か入れてやればいいんだろうと思うんだけど、怖くて、できない」

「クチか」黒猫は目を細くした。「上の連中が研究してくれるはずだ。絵馬を生き返らせた。切真せつまの腕の手術もやってくれた。それから、千種の整形。びっくりしただろ、あいつ、人間の形になってて」

「僕、あの子覚えてないんです」

「フタゴだよ。結合双生児の、片割れ」

「もう片方は?」

「肺炎。お前がいなくなる直前だ。忘れたか?」

「覚えてるような感じはする。でも、何も思い出そうという気になれないんです。玲磨れいまの事も、他の事も――」

「無理はするな。そんな事は、お前が何もしなくとも時間が解決してくれる」黒猫は低い声でのんびりと言った。


 二人はホテルの玄関前のステップを上がった。

「僕のクチを研究する事に、価値はあるでしょうか」岸は小さな声で言った。「僕のような体を持つ人間は、他にいないし、これからもいません。絶対に」

「そうだとしても、連中はやるはずだ。情報を握って優位に立つ事があいつらの目的だからな」

「議長はその人達が好きじゃないでしょう。信頼もしてない」

「ああ勿論だ。しかし精一杯利用してやるさ」


 一枚目の自動扉をくぐると、床に大きなブラシが放り出してある。黒猫はそれを取って自分と岸のブーツから雪を払い落としながら、

「いいか、岸。向こうはこっちを道具だと思っている。こっちも向こうを道具だと思っている。いらん感情を持ち込まない限り、上手くやっていける」

「つまり、研究所とたいして変わらないんだ」

 黒猫はそうだともそうでないとも言わず、二枚目の自動扉をくぐった。


 フロントの女性が、ちらっと二人を見てすぐ俯いた。岸はなんとなく嫌な感じがした。岸にもそろそろ、妖自連の一行がここでどんな応対をされているか分かり始めていた。


 排除。あからさまな差別より、もっとたちの悪い、手に負えない、拒絶だ。


 岸は知っているつもりだし、慣れているつもりだった。不思議な容姿、奇矯な性格、明らかに血の繋がらない両親、「違っている」とみなされる条件には事欠かない。しかし、それはいくらでも対処のしようがあるものだった。どういう形にしろ、誤解と偏見を解き、自分がそれほど違ってはいない事を相手に分からせれば、それで済む事だった。


 ところがここの人々はそうでないのだ。一度「違う」と決め付けたら、目を背けて、関わろうとしない。偏見すら持ってはくれない。差別の前に、排除してしまうのだ。噂には聞いていたが、これほどとは思わなかった、これが「日本人のやり方」。


「毎年ここに泊まってるんですか」

「違う」黒猫は即座に、短く言った。「皆、『成長期』だ。成長してなきゃ、怪しまれる。毎年、宿は変えるし、五年ごとに行く地方も変える」

 岸だって三年ごとに住み家を変えなければならなかった。十五歳程度の体になるまでに、「親」は二度変わった。

「目的地は、どこでしょうか」岸は急に思い付いたまま口にした。

「はあ?」黒猫はにやにや笑った。

「その、『上の連中』を利用して、議長は何を目差すの? 真実を世間に暴露する? 復讐する? 何に対して? 僕らは幸せになれますか? 『人間』の社会に、受け入れられるようになりますか?」


 黒猫はしばらくにやにや笑っていたが、やがて陽気に、

「メエイ・シイボウ・アイア・イラ・ムオウ・リィセン」

「意味は?」岸は溜め息をついて言った。

「意訳すると――」黒猫はそこでぴたりと口を閉じた。


 支配人のおっさんが、二人の行手にぬうっと立ちはだかって、こちらを睨み付けていた。


「よいお日和で」黒猫はすかさず微笑んで言った。岸はそれを見てどんな怪物よりもこの議長が怖いと思った。

「こんなこと言っちゃ悪いが」支配人は敵意をあらわに言った。「あんたらは何なのかな。親戚どうしには、とても見えないが」

「孤児院のОB会だよ。他に質問は?」

「君は、保護者か? 例えば君らのうちの誰かが、こういう事を」支配人は持っていた黄色い塵取りを突き付けて、「した時に、君が責任を取るのかな」


 プラスチックの塵取りの上に、小指の先に乗るほどのきらきらした小石が二、三粒、転がっていた。


「誰がどういう事をしたって?」黒猫は顔色ひとつ変えず聞き返した。

「硝子の皿が一つなくなった。跡形もないんなら探せば済む事だが、こういう物が見付かったからには」支配人は塵取りを揺すった。硝子の破片はころころと微かな音を立てた。「二度と、戻ってはこないだろうな。しかし、他の破片も返していただきたいところだ」

「俺が持っていると言うのか」

「責任を取るのか、と聞いている。あんたの連れの()()()()()の荷物から残りの破片が出てきたら、あんたは責任を取るのか、はっきり言って、金は出せるのかと聞いているんだ」

「俺は孤児じゃない」黒猫は淡泊な調子で言った。「孤児院の管理者の息子だ。金は出る。だが、理由も無く出したりはしないぞ。あんたこそ玲磨を疑うからにはその責任を取るんだろうな。玲磨をたたいても破片が出てこなかったら、はっきり言って、彼の前で手をついて詫びるんだろうな?」

「昨日注意したばかりだ」支配人は半ば喚くように言った。「あの子は付き添いもつけないでここをうろついてたんだ。いろんな物にぶつかってばかりだ。だのに、暴言ばかり吐いて、俺の言う事なんか聞きやしない!」

「岸、先に帰っててくれ」黒猫は静かに言った。「俺はこの方と話がある」

「はい」岸は丁寧に支配人に会釈して歩き出した。


 胸がどきどきしていたので、脇目も振らずにエレベータに乗り込んだ。昨夜の事がまざまざと浮かんできた。部屋に戻って来た途端、人が変わったように怒鳴り散らした玲磨。足から流れていた血。そう言えば、いつの間にバンダナを外したんだろう。部屋の外にいる間は、つけていなきゃいけないはずなのに――


「あんたなんか、あんたなんかね、何の役にも立たないんだ! 何もできないくせに!」

 襖を開ける前から、甲高い叫び声が岸の耳をついた。びっくりして部屋に入ると、千種が立ち上がって、ちゃぶ台を挟んで向かいに座る朝月あさつきを、激しくなじっていた。ぎくしゃくした体。少し右に傾いた首。千種の顔の左半分には、肉がほとんど付いていない。耳も無い。足も、左側はほとんど思い通りにならないのだ。岸は彼女の左側に彼女の片割れを思い浮かべようとした。しかし、上手く行かない。出し抜けに、思い出した。違うんだ。右とか左とか、そういう結合じゃなかったんだ。彼女と彼女の妹は、体のどの部分も共有していなかった。ただ、二人分の体が一緒くたになった塊だったんだ。

「あんたの顔なんか、見たくないんだよ! あんたの喋ってるのなんか、聞きたくないんだよ! いるだけで目障りなんだよ! 慕子もこに触るな! 何もできないくせに! 慕子は、あたしの妹なんだよ! あんたのなんかじゃない!」

「あんたのその妬きもちってさ……」朝月は両手を顔の前に持ってきて、温めるように息を吹きかけた。その両手には指がなかった。「ひょっとして、あたしがユビカケで、慕子がユビだから、それで妬きもち? 馬鹿じゃないの」


 慕子は切真せつまと並んでテレビを見ていた。天気予報だった。


「あの、ただいま、帰りました」岸は後ろ手で襖を閉めながらおずおずと言った。玲磨だけが返事をした。

「帰ってこなくて良かったのに」

 彼は部屋の隅に寝転がって、バンダナをしたまま他の二つの目も閉じていた。怪我をした右足に、包帯が巻いてある。

「呆れたかい?」玲磨は続けた。「つくづく愛想が尽きるだろ、この妖怪ども」

「黙れ!」千種はきっと振り向いた。「お前が一番、邪魔なんだ! 役立たず! 穀潰し!」

「あんただって同じだよ」朝月は自嘲するような笑みを浮かべた。「皆、おんなじだよ。議長にとっては、あんたも、あたしも、切真も、玲磨も、慕子も、皆、穀潰しの役立たずだよ。邪魔なんだよ。いらないんだよ。議長が可愛いのは絵馬と、クチだけ」


 岸は口を開けて何か言おうとした。しかし、何も言葉が出てこなかった。長い沈黙が降りた。


 一体何故こうなるんだろう。何か間違った事をしただろうか。それとも、正しい道を進んできた結果が、これなのだろうか。だとしたら、生まれてきたこと自体が、許されない事だったのだ。世間の人々に向かって、何が言える? 理解してくれ、差別しないでくれ、許して受け入れてくれ、と? 何の意味がある? 死ねば解決する事じゃないか。人間でないものなど、人間の社会にいなければいいだけじゃないか。


 玲磨が座布団を三つ使ってしまっているので、岸はもう二、三枚出そうと思って押し入れを開けた。が、途端に飛び上がりそうになった。忘れていたのだ。


 絵馬がそこにいた。


 ようやく齢が二桁になるか、ならないかくらいの少女だった。小首を傾げて肩に乗せた懐中電灯を挟み、両膝を立ててそこに本を置き、茶色い瞳を熱心にページに注いでいた。それは随分と大きな本で、色遣いも鮮やかに地球の概観が描かれ、見出しは「地球ができるまで」。


 絵馬は岸のほうを見ようともせず、片手をあげてすぱんと襖を閉めた。


「絵馬さん」岸は困って襖をノックした。「岸です。座布団をいただけませんか」

 返答は無い。

「そいつに話しかけたって無駄だよ」玲磨がねちねちと言った。「お前は畳に座ってればいい」

「息が苦しくならないのかなあ」岸はもう一度取っ手に手を掛けたが、今度は絵馬が内側から押さえているらしく、ぴくりとも動かなかった。腕力に任せて開けてみたらどうなるだろうかと考えているところへ、黒猫が戻ってきた。


 明らかに不機嫌だった。


「おい、皆、座ってくれ。まずい事になった。今日中に追い出されるかもしれん」

「結構な事だよ」玲磨はたいぎそうに起き上がって言った。

「全員俺の目を見ろ。玲磨、バンダナを取れ。ロビーに飾ってあった硝子が一つ、なくなった。岸、わき見をするな」黒猫は六人の顔を順々に見回した。黒猫の二つの目は真剣だったが、口調はいつもと同じだった。

「何か知っていれば教えてくれ」

 六人は揃って黙っているだけだった。

「玲磨」と黒猫は言った。

「何だよ」

「お前は昨日から俺に隠し事をしている」

「していない」

「している」黒猫はきっぱりと言った。「お前は不利な状況にいる。支配人はお前を疑っている。と言うより、お前が犯人だと信じている。お前が正直になるなら、俺はお前を守るが、お前が俺に嘘をつくなら、俺がしてやれる事は何も無い」

「僕は割ってない」玲磨は素っ気無く、ただしものすごく顔をしかめて言い、何故かじろっと岸を睨んだ。

「ならば、俺がしてやれる事は無い」黒猫は悲しげな目で、沈んだ声で、肩を落として呟いた。「玲磨。俺は硝子がなくなったって言ったんだ。割れた、なんて言ってない」

「だから、それが、どうした!」玲磨は激昂した。「はっ? 楽しいかよ、お前、そんなくだらない揚げ足取りでふざけやがって! 探偵にでもなったつもりか? 僕が割りましたと言えば満足か? お前が僕を殺して、その支配人様に差し出せばいいだろう、死体は文句を言わないし、濡れ衣着せられたって悲しまないからな!」


 玲磨はそれからいきなり隣にいた岸を小突き、岸の体の中で痛覚が存在する数少ない場所の一つ、右肩を思いきりつねった。岸の体は震えた。声は出なかった。血が逆流し、目の前が暗くなり、何も聞こえなくなった。汗が、噴き出す。


 岸が気付いた時には、黒猫が何か怒鳴って、玲磨を右手で張り飛ばした後だった。

「こんな奴の何がいいんだ」玲磨は泣いていた。それでもまだ憎しみの目で岸を見ていた。「僕にも『クチ』があれば良かったよ! いつまでたってもちやほや特別扱いされて、お前は本当に、良かったなあ!」

「いい加減にしろ!」と、岸は腹の底から怒鳴った。


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