破片のある風景(2)
立ち並ぶオブジェに、「樹」の面影は無い。
それは、地面に群れをなして立つ入道雲のようなものだった。いつ歩き出してもおかしくはなかった。しっとりした雪の布団をもこもこと着込んでいるように見えたが、触ってみると鉄のように硬かった。
「これ、春になるとどうなるの?」
「春までそこに座ってれば分かるぞ」と黒猫は笑った。
テレキャビンの駅の前は平らな広場になっていて、皆はそこでスキーやスノウボードを足に括り付けると、さっさと岸達の横を通り抜けて滑って行った。岸達はコースから少し外れて樹氷の森の中に入っていたのだが、岸はそれを森だと思えなかった。何やら沢山オブジェの並んだ平原、という気がした。コースと森の境目に立っている樹氷はしょっちゅう皆が通るので、足元が板の刻み目だらけになっていた。
「夏にもう一度ここに来れば、もっとここら辺の様子が分かるんだけどなあ」岸は黒猫に買ってもらったばかりの毛糸の帽子を、耳が隠れるまでぎゅっとかぶりながら呟いた。
「夏に来たらな、きっと同じ場所だとは思えないぜ」黒猫は訳知り顔で言った。「まず、高さが違ってるからな。今立っているここと、夏に立つとき踏める地面と、二、三メートルの差がある。雪が積もってるせいで」
「そんな事を言っても騙されません」岸は勝ち誇って言った。「テレキャビンの駅をご覧なさい。あれの玄関がすっぽり雪に埋まってしまった時には、積雪三メートルと言えるでしょう」
「お前はほんとに都会っ子なんだな」黒猫はにやにや笑ってやり返した。「あの玄関は、二階に決まってるじゃないか! 山の上の建物は、二階に玄関をつけておくもんだ。冬になって一階が埋まっても、ちゃんと出入りできるようにな」
「そんな、そんなに積もるわけ……積もるんですか?」
「あの看板、妙に低いと思わないか?」黒猫は広場の隅に立つ矢印の形の立て札に顎をしゃくった。それは、膝くらいの高さしかなかったので、いろんな人に蹴られた跡があった。つまり、足跡の形に雪がこびりついていたり、スキー板の刻み目がついたりしているのだった。手書きのような文字で、「ロッタゲレンデ」と書いてある。
「あれが夏になると、見上げるほど高くなるってこと?」
「その通りその通り。なんなら夏にもう一度来て確かめてみるといい」
そんな事をしても、たぶん実感はできないだろうと岸は思った。今ここで足元の雪をどんどん掘っていって、三メートル掘ったところで地面が見えれば、納得するのだが。しかし、足元は大理石の床のように硬い。岸はふと思い付いた。
「目を治してくれる木があったんだっけ?」
「ふむ。俺も今その事を考えていた」黒猫は樹氷の大群を見渡した。「このうちのどれか一つが、そうだという事だ」
それは星空を見上げて、「このうちのどれか一つに、星の王子様が住んでいるのだ」と言うのと同じ事だった。
「区別が付きませんね」
「つまりどれを拝んでも同じという事だ。よし、これにしよう」
「それはあまりにも、適当ですよ。それに僕は、かなり自信を持って、その木ではない、と言えます」
「しかしお前にそれを確かめる術は無い」黒猫は腕組みして言った。「なぜなら、夏に来た時には、あたりの様子はすっかり変わってしまって、今まで雪の下に隠れていた背の低い木もみんなにょきにょきと出現する。すると、お前も俺も、冬に来たとき拝んだ木がどれだったか、分からないのだ。だから俺達が間違った木を拝んだか、正しい木を拝んだか、永久に分かる事はない」
「でも、だからと言って適当な木を拝んでも仕方ないよ」
「仕方なくはないぞ。俺達がこの木を拝んで、この木が目を治す木だと信じれば、それは俺達の中で真実となる。それを否定する根拠が出て来る事は永久に無いんだからな」
「暴論だ」
「真実とはな、人がそれを真実と認めるか、認めないか、それだけの事だ」
「ここじゃ、目があっても何も見えないんだね」岸は独り言のように呟いて、玲磨の事を考えた。昨夜、玲磨がなぜ怒ったのか、岸には分からなかった。皆はいつもの事で、理由など無いのだと言って慰めたが、岸は納得できなかった。しかし、岸が見ている世界と、玲磨が見ていない世界との間には、夏の山と冬の山くらいの隔たりがあるのだろう。きっと、玲磨には玲磨なりの理由があって、それは岸には見えないし、想像する事も確かめる事もできないのだ。
「あいつの目は――治らないけど――」黒猫は風にまぎれてしまいそうな声でぼそぼそと言った。「――目隠しをやめる事も、できないけど――」
岸は彼を振り返った。またガスが出て視界が狭くなり始めていた。黒猫はどことも知れない虚空に目をやったまま、静かに続けた。
「もっといろんなものが見えるようになってほしい。閉ざさないで」
「僕にできる事がありますか」岸は思わず言った。黒猫がここに来るのに自分だけを連れてきたのは、その為かもしれないと思ったからだった。しかし黒猫は、
「いや、無い」
「僕はどうすればいいですか」
「どうとでも、お前があいつにしてやりたいと思う通りにしてやってくれ。それを受けてあいつがどう変わるか、それはあいつ自身の問題だ。変わろうとしない限り、あいつはあのままだ」
「変わるにはいつでも、きっかけが必要です」岸は柔軟体操の事を思い出しながら言った。「議長が背中を押してくれなきゃ、僕は変われなかった」
「背中をね」黒猫はくすくす笑った。
二人は少しのあいだ黙って別々な事を考えていた。
「もしかして、シンボクの木を探していますか」と、沈黙に割り込んだのは、全く別な声だった。
岸と黒猫はちょっと驚いてそちらを見た。くしゃくしゃな顔をして、たっぷり厚着した小さなおばあさんが、三十過ぎの逞しい男に付き添われて歩いて来た。質問したのは男のほうだった。彼は右手にプラスチック製らしい蛍光オレンジのチェーンを持ち、左手ではおばあさんの上着の背中の所を鷲掴みにして、転ばないように支えていた。
「神木の木?」神木は木に決まってるじゃないかと思って岸が聞き返すと、おばあさんは岸のほうに顔を向けた。
「目を治すって言われてる木。シンボクさんて人が植えたからさ」
「探していたところです」と黒猫が答えた。「どれだか分からなくて」
「俺にも分からない」男はそう言って太い声で笑った。「この人が知ってるっつうんでね」
「もうちょっと先なの」
おばあさんは歩き出した。それは一歩一歩踏みしめるような、じれったいほどのろのろした歩き方だったが、他に道案内はいないので三人とも文句を言わずに付いて行った。
「左側、木」男がおばあさんに言った。そうでなければ彼女は左半身を鉄のような氷の塊にぶつけるところだった。見えていないのだ、と岸は気付いた。
「うん、ここらへんに、これがある」おばあさんは手を伸ばしてその木を探した。探り当てると、軽く叩いて、「それじゃこの道で間違ってない」
「どうやって、道が分かるのですか?」岸は丁寧に尋ねた。
「そりゃね、目が見える人には、分からないんだ」おばあさんはそう言って笑い出した。
「本当?」岸の胸にはたちまち好奇心がふくれあがった。「木の手触りが違うのですか?」
「馬鹿だな、樹氷の形は毎日変わるんだよ」黒猫が口を挟んだ。
付き添いの男はにやにや笑っている。
「毎日変わるんですか?」
「風の吹き具合によってはな」
「年ごとに、大きさも違うよ」男が言った。「今年は暖かいんで、例年より小さいんですよ。だから常連の客なんか、今年のは樹氷じゃない、全然駄目だって文句を付けるんだが、そんなんこっちの責任じゃねえよって――」その口ぶりからすると、男はこのスキー場で働いているようだった。
「どうですか、客足は。ボードがまた流行り始めたって言いますけど」黒猫が言った。
「まあ、一頃よりは増えましたかねえ。あの、名前を忘れたが、バンドの影響なんでしょう。ボードの歌ばかり歌ってる」
「ウォークマンで聴きながら滑るのが今風なんだってね」
「そう、そう、それが、困る。注意力が下がるし、アナウンスも聞こえなくなるし――」
「これ、これ」おばあさんが言った。コースから外れて二十歩ほど入った所だった。なんの変哲もない、他とかわりばえのない樹氷だったが、おばあさんは両手で抱きついて、「うん、これだよ」と言った。
「どうして、分かるんですか?」岸はやっぱり不思議でたまらなかった。
「そう、目の見える人には、どの木も同じに見えるからね」
「ほんと、わざわざありがとうございます」男は言って、持っていたオレンジのチェーンをその木の胴に巻き付け、ポケットから取り出した針金でしっかりと留めた。「これで、目立つでしょう。もうこれ以上樹氷も大きくならないだろうし」
「ああ、早いうちから印を付けとくと、一緒に凍りついて見えなくなっちゃうんですね」岸が言った。
「いやいや」男は笑った。「ここに『シンボクの木』っていう看板が立ってたんだけど、このまえ風で吹き飛んじゃってね。どうせ誰も見に来ないだろうと思って放ったらかしてたら、結構これ目当てで登って来る人が多くて、目を治す木はどこなのかって何度も問い合わせが来るんで」
「あれはね、コーダの連中がスキー場のパンフレットに載せたからよ」おばあさんはちょっと気に食わないという口調で言った。「私らの守り神を客寄せなんかに利用して――欲の皮の突っ張った奴らさ」
「どんなふうに拝むといいんでしょう」黒猫がおばあさんに聞いた。「治してほしいのは、俺の弟なんだけど、俺が拝んで効果はありますかね」
「別に、治す木じゃないよ」おばあさんはまだ不機嫌だった。「コーダの連中が勝手にそう書いたんだ」
「コーダ?」と岸。
「コーダゲレンデの辺りに住んでる人間。あのへんに役場があるからね。そのへんの、外から来たがめつい連中が書いたんだ。この木はね、本当はね、シンボクという人が昔、植えて、大事に育てたっていう木。その人は病気で目が見えなくなったんだ。それで、この木の下にはシンボクさんの骨が埋まってるんだよ」
「その木は、何の木ですか」
「松の木だよ」
「周りの他の木は?」
「松の木」
「トドマツですよ」男が補足した。
「夏になったら、僕にも区別が付くようになるでしょうか」
「看板があればね」
「もし、無かったら?」
「たぶん、無理だ」おばあさんはまた笑った。「目をつぶって、ようく覚えとけば、また来れるかもしんないけどね」
「何を覚えとくんです?」
おばあさんは笑っただけだった。玲磨には分かるのだろうか、と岸は考えた。




