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消える流れるすり替わる  作者: 羊毛
4.氷の目隠し【過去篇】
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破片のある風景(1)

 柱の滑車に差しかかったので、テレキャビンは小気味良いリズムで、がたんがたんがたんがたん、と上下した。空は晴れ渡っているのに、時々ぱらぱらと小さな白い粒が降ってきては、窓に張り付く。窓は強化プラスチックで、随分傷だらけだ。


「分っかんねえなあ」黒猫はにやにや笑って足を開き、上半身を乗り出した。「そこんところ、もうちょっと詳しく説明して欲しいよな。俺は経験した事ないぜ、そんな出会いは」

「僕も初めてだった」岸は大真面目に、外に目を凝らしながら呟いた。「ただ……ただ本当に、見た瞬間に、分かったんだよ。僕は、この人を、好きになるんだな、と」

「それが分からない」黒猫は雪靴の踵を金属の床にこんこんと打ち付けた。「見た瞬間、惚れた、とは違うんだろ? なんだか、その瞬間自分の未来が見えたという言い方だな。つまり、確信したのか?」

「確信」岸はぼんやり繰り返した。「確信、か」

「はっきりしねえなあ」


 キャビンは四人乗りだった。しかし、岸には、二人も乗れば充分なように思えた。この乗り物は、まるでいい加減な箱だ。隙間だらけだし、必要最低限の空間しか無い。こんなものにいい大人が四人も乗り込んで、そのうえ扉の外側にスキーや何かを積み込むなんて、岸には想像できなかった。「スノウボードは手に持ったまま乗るんだぞ」と黒猫は言った。「スノウボードの人が四人いたら、四人とも手に持ったまま乗るんですか?」「もちろんさ」これは冗談に違いないと岸は思った。


「彼女のほうは、どうなのさ」黒猫はまだこの話題にこだわった。「望みはありそうだったか?」

「いいえ。他の事で頭が一杯のようでした。すごく移り気な子で、とても扱いにくくて」

「へえ。お前はそういう子が好みなのか? 俺に言わせりゃ、そんな女とお前が上手くいくとは思えないがな」

「上手くいくとか好みとかじゃなくて……もっと、理屈の通じない感じ。緊張した。とても……びっくりした。こういう人には、二度と会えないし、一生忘れることができないだろう、と思った。この人にとっては、僕はただ偶然一度合席になっただけの男で、すぐに忘れられてしまって、でも僕は、一生この人を忘れることができなくて、何度も思い出すうちに、死ぬほど好きになるんだろう、と思ったんだ」

「だからさ、その、彼女のどこらへんがお前の琴線に触れたわけ?」

「そんなん分からないよ」

「だけど、見た瞬間分かったって事は、何か外見上、感じるものがあったんだろう」

「さあ。僕は髪の短い子が好きですけど」


 斜面が突然きつくなり、キャビンは急角度でぐんぐん昇り始めた。冬をかぶった森が迫る。えぐったような谷の底に、半分凍りついた小川がちょろちょろと流れていた。足元の隙間から、冷たい空気が出たり入ったりしている。空はいつの間にか灰色になっている。


 ほうっと息を吐き出すと、白くなった。相当寒いはずだが、着込んでいるので感じない。ただ、指だけは握っていないと、どんどん冷えていく。


「お前にはスキーを教えてやろう」黒猫はちょっと間を置いてから思い出したように言った。

「スキー? でも……」岸はすぐに四人乗ってぎゅうぎゅう詰めのテレキャビンを思い浮かべた。「……僕には無理ですよ。それに、怪我をするとおおごとだし」

「はん。ちっと俺が目を離した隙に、お上品になりやがって。俺があれほど教育してやったのに、アメリカで甘やかされてすっかり元通りってわけか」


 岸の体には生まれつき様々な欠陥がある。その一つが、体のほとんどの部位に痛覚が無い事だった。痛みを感じることができないので、危険な事とそうでない事の区別が分からない。そのため岸を担当した研究員達は大変に気を遣い、彼に走ったり飛び跳ねたりする事を一切禁じてしまった。もともと神経質な性格だった事もあって、岸は置き物のような子供になった。黒猫が子供達の遊び相手をするアルバイトとして施設にやって来た時も、八歳だった岸は部屋の隅で膝に手を揃えて座り、他の子供達が駆け回るのをにこにこと眺めていた。


 もちろん、黒猫がそんな事を許すはずが無かった。


「つまり、あれか? お前は、こうやってこの歪んだ窓越しにしけた雪景色を見てるだけで満足なのか?」

「満足はしようと思えばできます。黒猫さん――議長――分かって下さい。僕にとっては、どんなスポーツも、怖いんですよ」

「本当に怖いという事はな、『良い姿勢のお手本』のように上品にお掛けになって満足している事だよ」

「考えさせて下さい。今突然に言われても、覚悟ができない」

「では、明日までに、覚悟しておくように」黒猫は無茶な宿題を出した。

 岸の顔からは血の気が引いてしまった。


 ふざけたアルバイトの青年は過保護にされすぎた少年のために特別カリキュラムを組んで特訓を始めた。まずは朝晩一回ずつ、丸一時間を費やしての柔軟体操。朝は終わるまで食事をさせず、夜は終わるまで眠らせない、そのものすごい剣幕に岸少年は泣き出す事が多かった。一週間ほどすると、黒猫は事あるごとに岸の背中を押して無理矢理転ばせるようになる。少年の玉のような肌はたちまち青あざだらけになり、彼の名付け親は激怒した。しかし、そんな特訓のおかげで岸は他の子供達に混じって遊べるようになり、体も引き締まって丈夫になったのだ。


「スキーって、どんな感じ?」岸はぽつりと聞いた。外の景色はガスでぼやけ始めた。おそらく、山の麓から見るとこのキャビンは雲の中だろう。急に寒くなった。気圧が下がったせいか、他の理由なのか、自分の声がキャビンの小さな揺れに合わせてぶれて聞こえた。


「斜面と闘ってる感じ」黒猫の声も、ぶれている。柱に差しかかる。がたんがたんがたんがたん。機械のうなりが、耳の中に入り込んでくる。変な気持ちがする。とても変な場所に、いるような。「気持ちいい時もある」黒猫はぶれた声で続ける。「目をつぶってでも滑れるような緩斜面ならな。そういう所をすっ飛ばして行くのは、気持ちいい。制限速度なんて無いしな。でも、本当に面白いのは、崖みたいな急斜面をじっくりと降りて行く時だよ。斜面とがっぷり四つに組んで、取っ組み合ってる感じだな」

「ロッククライミングみたいですね」

「さあ、どうかな」黒猫は首を傾げる。「やったこと無いから知らんが」


 岸の耳はぽかっと元に戻る。キャビンはまた柱に差しかかる。ガスは液体のように濃くなり、景色は無彩色になった。さらさらと音を立てて、砂のような雪が窓を打ち始める。一粒一粒が、様々な形の結晶だった。岸の目は釘付けになる。雪の粒はキャビンの中にも入り込んできた。


「なんだかなあ、天気悪いなあ」黒猫は身をよじって頂上の方角を振り仰いだ。だが、濃霧に包まれた斜面しか見えない。「気温は低くないはずなんだがな。まあ、視界が悪すぎるようなら食堂でコーヒーでも飲んで晴れ間を待つか」

「その、頂上で、何が見れるんでしたっけ?」

「樹氷。スノウモンスター」黒猫は身震いして上着の襟をしっかり立てた。「ついでに、玲磨のために目の良くなる木を拝んで来よう。頂上にあるって事はその木も樹氷になってるんだろうけど」

「頂上にある木は、みんな樹氷になるんですか?」岸には今一つぴんと来ない。「その、樹氷っていうのは、『なる』ものなんでしょうか」

「見りゃ、分かる」黒猫は説明しようとしない。

「言葉の意味が取れない。樹氷っていうのは、氷の名前なんですか。それとも樹がそういうふうに『なる』っていう状態の事ですか?」

「何も難しく考える事はない。樹が凍りつくと、樹の形の氷ができて、それを樹氷と言うんだよ」

「つまり、氷?」

「樹だよ」

「どっちなんですか」

「凍った樹は、樹の氷だ。どっちでも同じだろ」

「違いますよ」

 この論争には決着がつかなかった。


 キャビンが斜面を昇り切ると、ガスの向こうに黒い建物がもやっと現われた。重く腹に響くような機械音が近付いた。最後の柱に差しかかると、キャビンはひときわ大きくがたがたがたがたと揺れ、続いて足元からガコンという音がした。岸はその音で夢から覚めた気分になった。次の瞬間には、キャビンのスピードは落ち、扉が急に開いて、岸は古びた工場のような暗い駅に降り立っていた。黒猫が後ろから降りてきて、岸の背を押して歩き出した。振り返ると、すぐ後ろの青いキャビンが、真っ白な空から勢いよく駅の中に飛び込んで来たところだった。


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