亀裂のある風景(3)
時々思う。見えないとは、どういうことだろう。聞こえないとは、どういうことだろう。味が分からない、においが分からない、触れたものの感触が分からない、それは、どういうことだろう。それは、あってはならない欠点なのだろうか。例えば、味の分からない人を障害者と分類して騒ぎ立てる社会があるだろうか。あるとしたら、それは、味覚が重大な役割を担っている社会だ。都会で暮らしていくために、嗅覚は必要ではない。だが、森で暮らしていくつもりなら、鼻が利かないことは大きな不利になるだろう。目でも、同じ。耳でも、同じ。それは不自由とは違う、障害とも違う。
なぜ、ここから逃れられないのか。なぜ、分からないのか。どんなに五感の研ぎ澄まされた人間だって、あらゆる光を「見る」ことが出来るわけではない。人間の目は、所詮赤から紫までの狭い範囲しか見られないのだ。沢山のものを見落としている。もし赤外線を見る事ができたら、もっと幸せに、もっと生き易く、なれるかもしれない。新しい世界を知り、新しい娯楽や芸術を生み、そして、赤までしか見ることが出来ない人間を障害者と呼ぶようになるのだろう。
馬鹿げている。
結局は、差別。結局は、無理解。五体満足という言葉があったが、満足な肉体などあるはずがない。ただ、周りと同じであれば、それで満足出来るというだけのこと。周りと違う者がいれば、それが憐れに見えるというだけのこと。誰も、この偏見からは、逃れられないのだろうか。
「岸が来たよ」様子見に出かけていた切真が走って戻ってきた。走るといっても彼の場合、体が左右非対称だから、ツーステップのような変な足取りになる。長年の研究の結果、一番転びにくく、しかも速く走れる足運びを編み出したのだ、と本人は言っている。
「どうだった?」と朝月はまた漫画を読みながら聞いた。
「俺のこと忘れてた」
「お前は印象の薄い奴だからな」玲磨は仰向けに寝転んだまま、そっと額に巻いていた緑のバンダナを押し上げた。途端に蛍光灯の白い光がさんさんと玲磨に向けて降り注ぐ。
「俺はあいつをいじめたことがないからね」と、切真はやり返した。「あいつ、玲磨のことはよおっく覚えてたよ。いつもいじめられて泣かされたから、トラウマになって忘れられないんだって!」
「僕、そこまで言ってないけどなあ」
と、襖を開けながら岸が言って、入ってきた。黒猫も一緒だ。玲磨は体を起こした。
そうそう、こういう変な体だった、と玲磨は思った。体重の割りに体が長い。特に手足が長い。そしていやらしいのはその目つきだ。黄色というのも、こちらを不安にさせる色だし、その細め具合とか、視線とか、微妙な加減で、時々ものすごく超然として見える。玲磨は昔からこいつが大嫌いだったし、これからもその認識が改まる事は無さそうだった。
「玲磨さん、これはどうも」岸は意味ありげな目で玲磨を見下ろして笑った。「お久しぶりですね」
「お互い、嬉しくないのに嬉しがる振りはやめよう」玲磨はバンダナを引き下ろして、再び視覚を放棄した。「あんたの体つき見てると吐き気がしてくる」
「あっ」岸はそこでようやく、玲磨の正常な位置にある二つの眼が濁っている事に気付く。「あれっ? その眼、前からそうだった?」
「うるさい。黙れ」
玲磨の眼は三つある。二つは正常な位置に、余分な一つは右目の少し上、額に。もっとも、暫く前に他の二つが用をなさなくなってからは、その余分な眼こそが玲磨の頼みの綱になってしまったわけだが。
「三番目は見えるの? なんでバンダナしてるの?」
「野暮な質問すんなよ」黒猫が言った。「このミツメさらして往来を歩けるか。ま、往来じゃない所でも目隠ししてんのは、こいつの趣味だがな」
趣味なんかじゃない、と玲磨は思ったが、黙っていた。趣味じゃなければなんなのか、自分でも分からなかった。分かりたくもなかった。
「岸。あたしは朝月。覚えてる?」
「あたしは千種。あとこっちが慕子」
「あ、ユビだね」岸は慕子を見て微笑んだ。その様子からして、千種と朝月のことは思い出せないようだった。慕子は両手の親指の付け根の、六本目の指を切り落とした跡を隠すような素振りを見せ、「慕子」と訂正した。
「あ、ごめんなさい、慕子さん」
「おい、トランプしようぜ」黒猫が言った。玲磨は聞こえない振りをして畳に寝転んだ。皆は玲磨を抜かしてばば抜きを始めた。玲磨が耳を澄ます限りでは、黒猫以外の連中はちっとも楽しくなさそうで、会話らしい会話もなく、カードだけがぐるぐる回った。なんだって黒猫はこんな収穫の無い旅行を毎年したがるのだろう。なんだってわざわざ今日、岸を連れてきたのだろう。せめてあと三日後にすれば、旅行の記憶も薄れてみんな機嫌が直り、もう少し暖かく岸を迎えただろうに。
結局、ばば抜きを一回、じじ抜きを一回やって、二回とも切真が負けた。彼の籤運の悪さには定評がある。「次、神経衰弱にしようよ」と切真は叫んだが、千種が、「あたしはもうやんない」。会話が耳障りなので、玲磨は出かける事にして立ち上がった。
「おい、玲磨どこ行くんだ?」黒猫が呼び止めた。
「売店」
「岸、付き添ってやれ」
「え、僕ですか?」
「邪魔だ。ついてくんな」玲磨は振り払うように足を速めて、襖を開ける。
「玲磨。岸を連れてけ。俺の命令だ」
「嫌だね」
「岸。こいつを逃がすな。一人じゃ何しでかすか分からん」
「了解しました。行って参ります」岸は大はりきりで言った。「さあ、玲磨さん、参りましょう」
玲磨は死ぬほど嫌だったが、この部屋に留まるのはもっと嫌なので、黙って杖をとった。襖を閉める。上がり框を降りる。スリッパを履いて、更にもう一つオートロックの引き戸を開けると、廊下に出る。
長い廊下を渡り、エレベータを待つ。エレベータが来ると、そういう音がする。手に取るように、目に見えるように、なにもかも分かる。なぜ、さっき、バンダナを外したんだろう、と玲磨は考える。岸を確認したかったのだろうか。確認の為に目を使っているようでは、黒猫に笑われても仕方ない。結局、目が無いと生きていけない人間が、趣味で目隠しをしているだけという事になる。
一階に着いた。二人は無言だった。
「ごめんね」エレベータのドアが開いた時に、岸が突然言った。
「なんの話?」
「分からない……君に酷いことばかり、したような気がして、忘れられなくて。でも、本当はよく覚えてないんだ」
「あっそ」
玲磨は歩数を数える事に集中した。十五歩、食堂へ続く廊下と合流。斜めに二十歩進めば煙草の自販機で、まっすぐ三十歩進めば柱にぶつかる。そこから左に折れると売店の入り口だ。特に人の気配は無い。世間では冬休みが終わったばかりの平日で、小さな田舎ホテルはひっそりしている。
岸はふらふら余所見しながら歩いている。このロビーには支配人の趣味で硝子の壺が沢山飾ってあるそうだ。どんな代物だか知らないが、あの根性曲がりの支配人が集めたものなど見られなくて幸いだ。黒猫などは見るたびにむしゃくしゃするらしく、舌打ちしている。気の毒に。
廊下の向こうで、子供の声が三人分、出し抜けに甲高く笑い出した。
「お前、先に帰れ」玲磨は突然言った。
「え?」
「帰れよ。ジュースくらい自分で買える」
「でも、議長が」
「ほっとけ、あんな奴。あいつだってお前が付き添いの役目を果たすなんて思ってない。ただ、『仲直り』させたいだけだろ」
「まあ、そうだろうけど、折角ここまで降りてきたんだし……」
「行けったら!」玲磨は激しく言った。「僕はお前が嫌いだ。何もかも無駄な事だ、迷惑で、煩わしいんだよ。帰ってくれ」
「僕は君が嫌いじゃないよ」
「こっちは、嫌いなんだ」
岸はぐずぐずしていた。玲磨が折れないので、とうとう背を向けたが、二歩進んだところでまた振り返った。
「あの」
「なんだよ、しつこい奴だな!」
「水無博士の娘が一緒に泊まってるって聞いたけど、さっきいた?」
「押入れン中だよ。引きこもってる。質問はそれだけ?」
「うん、それだけ」
岸は歩き去った。
玲磨はほっと息をついて、歩き出した。廊下の笑い声はやんだ。こちらを見ながらひそひそ話をしている気配だ。玲磨はいらいらした。
「ごめんください」売店の前と思われる場所で玲磨は立ち止まって声をかけた。
「はあい」と女性の声がした。
その位置を聞き分けて、頭の中に広げた地図とのずれを微調整する。杖で障害物を確認。大切なのは、一定の速さで歩く事だ。ここの商品棚は素直に真っ直ぐ並んでいたので、玲磨は何の苦労も無くレジに辿り着けた。たまに、商品棚の並び方がひねくれている店があって、そういうのは困る。向こうもこっちも嫌な思いをする。だから商品棚は真っ直ぐ並べておくべきなのだ。
「ジュースありますか?」玲磨はレジの置かれた冷たいスチール製の机に軽く寄りかかった。
「はい、ありますよ。丁度こちらですね」店員はこのおばさん一人のようだ。彼女は机の隣にあった冷蔵庫に手を伸ばした。密閉された扉を開けるときの、ぺたっというような音。
「どんなのがいいの? コーラとか?」
「炭酸じゃないのがいい。オレンジとかあります?」
「紙パックで果汁百パーセントのとね、ペットボトルの。ボトルのほうは二十パーセントだから、甘いよ。ちょっと持ってご覧」
おばさんは玲磨の右手と左手にそれぞれ紙パックとボトルを持たせてくれた。二つの目方を吟味して、パックのほうを買う事にする。百三十円。ポケットからカードを手渡す。
「一人で歩くの、大変じゃない?」カードを返す時、おばさんは明るく尋ねる。好奇心という程のものでもないだろう。単に何か言わずにはいられないだけだ。
「いえ」と玲磨は短く答えた。「下手な付き添いがいるとかえって転びますから」
「ああ、そういうものなんですねえ」おばさんは感心したような口調で言った。「そういう、付き添いみたいなのも、やっぱり訓練が必要なんでしょうねえ」
「訓練と、才能と、思いやりでしょうね」玲磨は適当な事を言ってそこを後にした。本当の事を言えば、そんなものはどうだって良かった。一人で歩くのと付き添いがいるのと、どっちが歩きやすいかなんて考えるまでもない事だ。一緒にいていらいらせずに済むものなら、犬だってうじ虫だってかまやしない。
エレベータまで二十五歩。辺りに人の気配は無い。いや、後方から男が一人。支配人だ。喉風邪をひいているので、息づかいで分かる。
「ちょっと君、君」玲磨の右に並んで、なれなれしく肩を触った。玲磨はあからさまに振り払った。
「何ですか? 僕は今から部屋に帰るところですが。貴方はどちらへ? それとも何か僕に御用ですか?」
こういう手合いには決して会話の主導を握らせてはならない。どこまでもこちらから先回りするのだ。
「そう、用だよ」支配人のおっさんは口早に言う。「その、ここのロビー、ここはロビーなんだけどね、ここは、」
「それくらい知ってます。綺麗なロビーですね」
「ここは、硝子細工を沢山飾っているんだよ」
「知ってます。連れの話じゃ、綺麗だそうですね」
「ありがとう、それで……」
「すみません、歩数を忘れると部屋に戻れませんので、もう話し掛けないでもらえます?」玲磨は気だるく言った。
「部屋まで、ご案内致しますよ」
「申し訳ないけど、素人の誘導は怖いんです」
「申し訳ないけど、だったらプロをつけて歩いて欲しいね」支配人の口調は急にぞんざいになった。「ここは沢山硝子のものを飾ってる。万一倒して割ったりすると、安いものじゃないし、怪我をするかもしれない……気を付けて欲しいんだ」
「貴方は目を使わなきゃ気を付けられないんでしょうよ」玲磨はきっぱりと言い放った。「僕はあいにくあんたより敏感なんでね、何事に対しても」
「坊や。大人に向かってそういう口のきき方は良くない」
「あんたに向かって他にどういう口のきき方があるんだ。ふざけるなよ」
玲磨はおっさんを振り払って歩き出した。エレベータの脇に背の高い小机が置いてあって硝子の壷が飾ってあるとか、切真が言っていたと思う。蹴倒してやろうか。だが、丁度エレベータが来たので、すぐに乗り込んで扉を閉めた。
乗客は他にいない。機械のぶんぶんうなる音だけがする。上にあがる感覚。足が少し重くなる。それからだんだん軽くなり、エレベータは止まり、扉が開く。降りる時、いつも少し不安だ。玲磨にはここが何階なのか、区別する術が無いのだ。普段使っているエレベータなら速さが分かっているから、かかった時間の差で高さが分かる。「三階です」などと告げてくれるエレベータも、やかましいけれど便利だ。しかし、無言で扉を開けて、「さあ降りろ」というやつは困る。止まった場所が目的地とは限らないのだ。そこに止まったのは、その階から他の乗客が乗る為かもしれないし、そもそも玲磨が間違ったボタンを押したからかもしれない。ボタンの位置は初めて乗った時に黒猫から教えてもらって覚えているのだが、何かちょっとした加減で手違いが起こるということは、必ずある。玲磨はまず「開」のボタンを押したまま半歩出て、
「乗る人いますか」
と、そこらへんに尋ねる。人の気配が無ければ、たぶんここが目的地だ。誰かが乗ろうとしてボタンを押してから、気が変わって立ち去ったというのなら話は別だが。
長い、特徴の無い廊下を歩く。右側には扉が並び、左側には窓が並んでいる。風が出てきたらしく、窓はかすかに震えている。歩数を数える。いつも同じ歩幅で歩かなければならない。意識している時も、そうでない時も。
静かだ。
足音が絨毯に吸い込まれていくようだ。どの扉の向こうにも、人の気配が無い。たぶん、大方空室なのだろう。本当に静かだ。静かだと、いらいらする。煩くても、いらいらする。他の連中がどうしてこの世界を許せるのか玲磨には分からない。この世界は、我慢ならない。でたらめで、煩雑で、汚らわしい。消えてしまえばいい。いっそ耳も塞ごうか。
四十五歩と半分。きっかり312号室の前だ。扉に歩み寄り、貼り付けてあるプレートの文字を指でなぞる。飾り文字で分かりにくいが、3と1と2だろう。オートロックがかからないようにストッパーがしてあるので、扉は指二本分開いている。玲磨はぐいと開けた。
その時、襖を隔てた部屋の中から、笑い声がした。岸が小さな声で何か言っている。それを囲んで、千種や切真がくすくす笑っている。「バカだな」と黒猫が言った。
玲磨は息を殺して、ゆっくりと扉を閉めた。我慢ならない、何もかも。なぜそんな楽しそうにできるんだ。なぜそんな楽しそうにするんだ。僕がいた時は、皆つまらなそうにしてたじゃないか。僕が部屋に入っていけば、またつまらなそうにするんだろう。僕なんかいなけりゃいいんだろう。いいさ、分かってるさ。あんたらみたいなのは、こっちから願い下げだ。楽しそうにするな、幸せそうにするな、笑うな、喋るな、こっちを見るな。早く、さっさと、死んでしまえ。
框を上がろうと足を踏み出したら、膝からがくりと力が抜けた。何か踏んだ時の条件反射だ。するどい痛みが、足の裏を裂く、玲磨は思わず、バンダナを押し上げる。




