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消える流れるすり替わる  作者: 羊毛
4.氷の目隠し【過去篇】
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亀裂のある風景(2)

 硝子は液体だと言われる。


 それは分子の並びがどうこうという無機化学的な理由からなのだが、そんな裏付けを取らなくとも、見れば分かるだろう。この透き通った自由自在な物質を眺める時の、不思議な違和感、言葉にできない心もとなさ。これが液体なのだと思えば、なぜか納得できる。液体に形は無い。次々と流れて移り変わっていく中で、一瞬を切り取った時に見える輪郭は、全て幻なのだ。


「聞いてるのか? 岸」ソファに深く身を沈めていた若者は、ぐいっと体を起こして、隣に座る相手を振り返った。「何を見てるんだ? その壊れかけた壺と俺様の顔とどっちが価値があると思ってるんだ?」

「壊れかけてないよ」岸は微笑した。「これはアイス・クラックと言って、わざと細かい亀裂模様を入れる技法なんですよ」

「俺の前で硝子の話をするな」若者は怖い顔をした。青年とは言っても、まだ思春期を抜け切らない感じのする、小柄な男の子だ。岸より頭一つ背が低かった。黒い瞳が、一種独特なあどけなさを持って輝いている。

「黒猫さんは……」

「議長だ」黒猫はぴしゃりと訂正した。

「失礼、議長」岸は素直に言い直し、「議長は、硝子の壺に嫌な思い出でも?」

「思い出ではなく、現在だ」黒猫は顔をしかめて、また背をソファに預けた。岸には黒猫が何の話をしているのか分からなかったが、黒猫はそれ以上説明しなかった。


 ロビーには、他にもいくつも硝子の壺や置き物が飾ってあった。ここの支配人の趣味らしい。自分も好きで美術史をかじったりしている岸には、それらの作品がどれも、そこらの硝子工芸店なんかで「ちょっとお土産に」と買えるような気安いものではない事が分かる。この素晴らしさを隣に座る人と共有できないのは少し残念だった。


「やっぱり聞いてないだろ。いいよ、別に、聞く気が無いんなら」黒猫は苦笑混じりに言った。

「聞きます聞きますよ。ごめんなさい」岸は慌てて目の前の壺から目を逸らして相手を見た。

「しょうがねえなあ」黒猫は膝の上で両手の指を組み、軽く溜め息をつく。「もう一回しか説明しないからな。ちゃんと聞いとけよ、これは重大な話なんだぜ。お前には知らせてなかったが、実は半年前、俺達は水無みな大博士の娘、絵馬えまを覚醒させる事に成功した。俺達と言っても、実際その方法を研究して実行してくれたのは上の連中なんだがな……とにかく、連中の腕が良かった事と、水無博士が天才だったおかげで、絵馬は無事に覚醒した。最近じゃ肉も食えるし、時々笑うようになったんだ。口はまだきけないんだけどな……」

「そのエマって誰です?」岸はきょとんとした調子で尋ねた。

「水無の娘だよ。何度言えば分かるんだ」

「水無って……ああ、あの博士のね」

「あの博士もこの博士もねえ。あの研究所の所長だろうが」

「それくらい覚えてます。覚えてますが、その娘が覚醒したっていうのは、つまり、今まで寝てたってこと?」

「……そうか、お前は知らなかったか」黒猫は急に力の抜けた声を出した。「そうだったな。お前は地震の前に向こうに渡ったんだもんな。知らないわけだ……うっかりしていた。うん。絵馬はあの地震の直後、水無博士の手によって薬漬けにされた。細胞を生きたまま停止させる薬……これは先代だか先々代だかの所長が開発して特許を取ったのを、水無博士が改良したんだったかな。これに自分の娘を生きたまま漬け込んで……考えただけで寒気のする話だな。とにかく彼女は、七十年の時間差を経て覚醒した。いたって健康だ」


 話の先が見えないので、岸の目はまた硝子の壺へ吸い寄せられた。今度見ているのは、向こうの柱のそばに飾ってある花柄模様の器だった。


「おい、岸」

「パート・ド・ヴェール!」岸は恍惚とした目で呟いた。「アルベール・ダムーズ! もちろんレプリカに決まってるけど……信じられない!」

「おい、岸。俺は貴様にバビロニア語を教えた覚えは無いぞ」

「何がバビロニア語ですか」岸は夢中になってまくしたてた。「議長、ダムーズは、自分の技法を後世に残さなかったんです。あれは、現代では失われた技法なんですよ! ……あ、ごめんなさい」


「失われた技法のレプリカが作れてたまるか」黒猫はあっさりと岸の感動をぶち壊した。不機嫌だった。「岸、いい加減にしないと、本当に怒るぞ。話を聞く気はあるのか。覚醒した水無絵馬を、我々は妖自連の新メンバとして迎え入れた。従って、妖自連の親睦会であるこの温泉旅行に、彼女も参加している。絵馬は俺の客人だ。くれぐれも無礼を働かないよう」

「彼女が、このホテルに泊まってるってこと? 一緒に?」

「そう言ってるんだ」

「それは、その……」岸はようやく黒猫が言おうとしていた事を理解した。「仲良くなさってるんでしょうか、皆さん」

「さあ。彼女のほうで会話を拒絶してるからな。仲良くする以前の問題だろう。とにかくそういうわけだから、了解してくれ。それから、今世紀最大の問題児、宮凪みやなぎ玲磨れいま――例のミツメだ、あいつは――」


 黒猫がいよいよ重要な話題にさしかかろうという時に、後ろから「議長!」という声とともに足音が近付いてきて、二人が振り返る間もなくソファの前に回り込んだ。活発そうな少年だ。


「着いてたんなら、ぐずぐずしてないで早く部屋に戻ってくれよ。朝月と千種が大変なんだ」少年は陽気に喋り散らした。「いよう、よう、よう、クチだクチ。変わってないなあ! あいかわらず、毛色が違うっつうかさ」

「僕は、岸だよ」岸は少したじろいで言った。

「そう。岸ね。へえん」少年は左手をトレーナの中に引っ込めて、袖をぶらぶらさせているように見えた。しかし、よく見るとそもそも左腕が存在しないのだった。岸は施設の子供達の中に片腕の無い男の子がいたかどうか思い出そうとした。


「この顔じゃ、分かってないな」黒猫は立ち上がりながら岸の様子を窺って言った。「岸。こいつは悟淨ごじょう切真せつま。昔はウデと呼ばれてた奴だ」

「ウデ? でも、左……切ったの?」

「そう。切ったの」切真は得意げに言った。「いったんは肘から余分なところ落として二本腕になったんだけどさ、腫瘍ができちゃって」

「惜しいかな」黒猫は天井を仰いでさも残念そうに言った。「お前の三本腕は、あれはあれで何かと使いでがあったのに」


 岸は何とも言いようがなく、ちょっと寂しげな笑みを浮かべてそっぽを向いた。腕でも目でも、余分にあれば使い道もあるかもしれない。欠けているなら補う事ができるだろう。だが、もし、そのどちらでもなかったら。


「とにかく早く来てってば」切真は黒猫をぐいぐい引いて歩き出した。「朝月と千種が――」

「勝手にさせとけよ」

「慕子がかわいそうだよ。間に挟まれて、いつも」

「いいんだよ、慕子は、丈夫だ」

 しかし、黒猫は仕方無さそうに歩き出した。岸も二人に並ぶ。

「岸、それでミツメの玲磨なんだが……」黒猫がさっきの話の続きを言おうとした時、またも邪魔が入った。


 さっきから甲高い声が響いてはいた。食堂へと続く廊下に反響した声が、こちらにきんきんと飛んでくるのだ。子供特有の、脈絡の無い抑揚。どうやら二、三人で相当興奮しているらしく、時々その声は泣き叫んでいるようにさえ聞こえた。その子供達が、せわしない足音と共に、突然こちらへ飛び出してきたのだった。


 先頭の少女は黒猫の腹にまともにぶつかり、もごもごと謝りながらすぐ体勢を立て直して走り出す。そのすぐ後を少年が追う。さらに少し離れて後ろに、一人。鬼ごっこのようだった。逃げる側の二人は危うい軌道で硝子の置き物を避けながらロビーのソファの間をぬっていく。「鬼」の少年はずるいだの卑怯だのと喚きながらそれを追う。


 切真はちょっと目を丸くしていたが、「鬼」の少年が先回りをしようとして引き返してきたところを右腕一本で取っ捉まえた。


「うわっ」と彼は叫んだ。

 同じ「少年」とは言っても、切真とは五歳以上の体格差があった。切真が襟首を掴んで少し力をこめると、少年はほとんど吊るし上げられる格好になる。先を走っていた二人も、ぎょっとして立ちすくんだ。

「おい、切真……」黒猫が言いかけたのを、切真は聞こえない振りをして、

「ここは走り回る場所じゃない。見りゃ分かるだろうが」

「……んだよ、放せ」少年はいかにも怒られる事に慣れていないという様子だった。引き下がる方法が分からず、かと言って、きちんと反抗することもできない。「放せ。何すんだよ!」

「鬼ごっこは、外でやれ」

「放せって!」

「硝子が割れるだろ。分からないのか」

「分かった、分かった!」少年はいらいらした投げやりな声で吐き捨てるように言った。切真は手を放した。


「はん、馬鹿が」黒猫は切真の頭を小突いて、すたすた歩き出した。「もう行くぞ。おい岸。まだそれを見てるのか」

 黒猫がものすごい速さで行ってしまうので、切真と岸はなんだかよく分からないまま小走りに追った。黒猫の態度の意味が分かったのはエレベータの戸が閉まってからだった。

「まったく、切真、お前って奴は」

「何がいけないんだ? 俺たちの目の前であの硝子工芸品が割れたりしたら、今度こそあの支配人さんぶち切れちまうよ」

「その支配人さんの息子だよ、あれは」黒猫はうんざりした顔で言った。「余計な事しやがって。あのガキ、絶対親父に言いつけるに決まってる」

「っへ。息子、ね」

「なぜ分かるんです?」岸が聞いた。

「フロントカウンタに写真が飾ってあったろう。さぞやご自慢のご子息なんだろうよ」

「あなたがた、支配人さんと折り合いが悪いんですか?」岸は不思議そうに尋ねる。


 黒猫と切真は、顔を見合わせた。


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