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消える流れるすり替わる  作者: 森とーま
1.消える流れるすり替わる
5/81

流れる(1)

「どうしたんだ?」田中は、できる限り優しく聞き返した。「妹さんがいなくなったのかな?」


「消えたんです。僕が見てたんですから……」少年はゆっくりと言った。「……だから、つまり、あなたに分かるように言うとすれば……」


「どうしたんだい?」と田中はうながした。


「川に落ちたんです」少年はひどく静かに言った。まるでそれが、十年前の出来事であるかのような調子だった。


「川に落ちた。どこの川かな?」


「川です」と少年は断言してから、質問の意味を悟ったように、「そこの川です」と言い直した。


「そこの大きい川? 多波川たなみがわかな?」


「多波川っていうんですか。そう言えばあの橋に多波川って書いてありました」少年はそこで、ずっと息を止めていたみたいに、ふうっと長く吐き出した。


「あなたの妹さんが、一人で、多波川に落ちたんだね?」


「はい」


「橋から落ちたのかな?」


「ええ」


「あの、車が走っている、大きな橋から?」


「いえ。その隣の橋です。車が走っていない方の橋です。橋げたが壊れて、妹が落ちました」


「通行止めになっている橋?」田中は眉をあげた。「何故?」


「そうですよ」と少年は上の空で答えた。


「いや、何故かって聞いてるんだ。何故、通行止めの橋にいたの?」


 少年はまばたきして田中を見つめ返した。その目は、びっくりしているか、あるいは睨んでいるかのように、大きく見開かれていた。少年が答えないので、田中は机の上の受話器を取って電話帳をめくった。


「座ったら」田中が何処かに連絡を取る間、ゼンはパイプ椅子を押しやって少年に声を掛けた。「名前は何ていうんだ? 何年生?」


「……なんでここにいるの?」


 少年は突然、田中に対してとは打って変わって打ち解けた声で言った。真っ白でこわばっていた顔にさっとこぼれるような笑みが差し、そして次の瞬間不安と驚きにとって変わった。ゼンはこの少年が気違いだと思った。


「あのね、えーと……僕のことかな?」ゼンは少年の腕を引いて半ば無理矢理座らせながら、穏やかに微笑んだ。


「ああ……人違いかな……」少年はぎこちなく笑みを浮かべた。「そっくりな人を知っている……僕の親友なんだ」


「そう……コーヒー、飲める?」


「ココアがいいな……」


 田中が電話を終わって振り向き、「君、名前は?」と聞いた。


「誰に電話してたんです?」と少年は逆に聞いた。


「君の妹さんを川の中から引き上げてくれる人達に連絡を取ったんだ。名前は?」


五雁いつかり倫志郎りんしろう……五羽の雁、倫理の倫に志すに太郎の郎」


「何年生かな?」


「六年です。妹は四年。名前はあおいです」


「お父さんかお母さんは? 何処にいる?」


「家にいますよ」


「電話番号、教えてもらえる?」


 少年はすらすら答えた。田中は言われた通り押しながらまた眉をあげた。


「市内じゃないね?」


「ええ」


「こんな遠くまで、妹さんと二人で来たの?」


「当然でしょう。家出したんだもの」


「家出……あ、もしもし」田中は電話に出たらしい少年の家族に現在の状況を説明した。


 ゼンは好奇の目で少年を見つめた。「家出人?」


「珍しい?」少年はちょっと面白そうに返した。


「別に」とゼンも斜に構えて言った。「僕もグレて族入ってた口だからね」


「やっぱり君、センに似てる」


「セン?」ゼンは次第にどきどきしてくるのを感じながら、なんでもないように聞き返した。「センて誰だい?」


「さっきも言ったろ。僕の親友」


「クラスメート?」


「まさか。君と同じくらいの歳だもの……僕より三つ上だ。君、名前は?」


「僕かい? 僕はジョーカー四世って呼ばれてる。族長の呼び名だぜ」


「本名は?」


「岸全一だよ。ゼンだよ」


「そうか。じゃ、僕はリン」


 田中がいくつか電話を掛け終わって、「倫志郎くん。お父さんとお母さんが今から三十分くらいでこちらに来るそうだ。妹さんはすぐに探してもらうように頼んだから、すぐ見つかるよ。詳しい話を、聞かせてもらえるかな」


「今朝の朝五時に家を出て、電車に乗って風波かざなみ駅まで来ました」少年はお経みたいに一本調子に言った。「バスターミナルに降りて、たまたま来たバスに乗って、川西通り三丁目北で降り、ぶらぶら川沿いに散歩し、付近のレストランで食事を取り、公園で昼寝して、あの通行止めの橋に来て、妹が突然空に何か見つけて橋げたに飛び付いたら、そこがスコンと外れました。で、妹消えました。僕は……その辺を歩いている人に交番どこですかって聞いたら、親切にも地図を描いてくださいました。ほら、これ」


 彼はポケットから、くしゃくしゃになったメモ用紙を取り出して広げた。


「その人に、妹が川に落ちたって言わなかったの?」


「ええ、だって、ご迷惑でしょ。今にも転びそうなおばあさんだったもの。買い物袋かかえて、重そうだったし……」


 田中は不安げな顔をした。「妹さんは、どんな服だった?」


「ええ? 覚えてません。Tシャツにズボンですけど……あの子、似たようなのしか持ってないからな……ジーパンにクマのプリントされた白いTシャツだったと思うんですけど。それは、昨日だったかな……灰色のパーカを着ていたのは、確かです。あのう、僕少しこの人と話したいんですけど……」少年は、ゼンを指差して言った。ゼンは事務机に腰掛けてコーヒーの残りを飲んでいたが、きょとんとした。


「なんだ、まだいたのか」と田中は言った。「こら、机に座っちゃいかん」


「へいへい」ゼンはすとんと床に降りた。「あ、あと田中さん、この子ココア飲みたいんだってさ」


「あ、もらえるの? 嬉しいな」


 と、少年はにっこりした。美形だった。田中はますます不安を強めた。妹が川に落ちるのを目の前で見ていた少年が、こんな顔、こんな喋り方をするのだろうか。一昨日、財布を落としたと言ってここにやって来たのは、やはり十歳ちょいの少年だったが、もっと取り乱して、震えていた。結局見つかったその財布に入っていたのはテレビアニメのキャラクターカードだけだったが。子供なんてそんなものじゃないのか。大人にとっては些細な事が、彼らにとっては重大だ。まして、妹が川に落ちるなんて、田中にとってもかなり重大な事である。連日の雨で、川は激流と化している。少女が生きて戻ってくる可能性は極めて薄い。見ていたのなら、この少年にだってそれくらい分かるはずだ。なんなのだろう、この場違いな雰囲気は。少年は田中からココアを受け取って、ひどく嬉しそうにティースプーンで掻き回し始めた。


「ゼンはさ、兄弟いる?」


「いないよ」


「そっか。お父さんとお母さんは?」


「お母さんはいない。父親は、変な人」


「変な人?」


「うん……外人だしね……ひょろひょろでね、金髪でね、漫画家なのだ」


「漫画家? 漫画描くの?」


「そうですよ。ちっとも売れてませんよう。だからうちは超貧乏」


「ね、君、せんじっていう名前知ってる?」リンは急に言った。


「え?」とゼンは言った。


「あのさ、そいつ、僕の親友で、センて呼ばれてる。数字の千に、数字の二って書いて、センジって読むんだ。でもさ、そいつ、一人っ子なんだ。なのにどうして二っていう字を使ったと思う? 十月二日生まれだからだよ」


 リンは一口ココアを啜って、またぐるぐる掻き混ぜた。彼は顔を上げなかった。まるでそこに何かが潜んでいるのを読み取るかのように、回転するココアの水面を見つめながら、


「そいつ、一人っ子だよ。そいつ、十月二日生まれの、十五歳だよ。美生みき千二せんじっていうんだ。僕の親友で、あんたにそっくりだ。センには、お母さんがいるけど、お父さんは、いない」


 ゼンは黙り込んで自分の足元を見た。田中がこちらを凝視しているのが分かった。しかしリンはお巡りさんが眼中に入らない様子で、ポケットから携帯電話を取り出した。素早く操作して、画面をゼンに見せる。


「これがセンの電話番号。そろそろ夕飯食べてるかな……でも、こっちは緊急事態なんだから、かけてみてもいいよね?」


「父親がたまに話してくれるよ」ゼンは急いで言った。「僕の双子の弟と母親は生きてるって。僕らが生まれてすぐ離婚したって。会いたいけど、会えないんだって。君に会えて僕は嬉しいよ、でも、電話はしないで。父ちゃん泣いちゃうから」


「おい、おい」リンは心外そうに言った。「僕は家出した矢先に妹が川に落ちて、とってもショックを受けてるんだ。お巡りさんに事情は説明したし、両親が駆けつけるまでにはまだ間がある。この間を持たせるために無二の親友のせんじくんに電話するんだよ。君に禁止する権利は無いぜ」


 そして電話を耳に当てた。相手はすぐに出たらしい。


「何も聞かないで、セン」リンは口早に言った。「とっても大変な事になったよ。大変な事が、二つ起こった。君の双子のお兄さんを自称する人に会ったよ。そして、葵が消えちゃったんだ」


 田中とゼンは目をみはった。言った瞬間、少年の目からするすると涙がこぼれ落ちたからだ。


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