翌朝は沈没(3)
「自分を可哀相がるのって、気分いいよね」
町を見下ろす事ができた。縁の高いフェンス越しに、のどかな春の住宅街。図書館の屋上には、湿った雨の匂いを含んだ生ぬるい風が吹いていた。ダンの髪は風をはらんでふわりと持ち上がった。
「気分いいなら、結構な事だ」とダンは言った。
「汚いやり方だと思わない」リンは町並みを見下ろして微笑した。「自分をわざと可哀相にして、勝手に感傷にひたって、罪悪感を消してるんだ。そういう奴って、すごく嫌な奴」
「それは、嫌がる方が間違ってる」ダンは自信ありげに言った。「誰が感傷にひたろうとそいつの勝手だ。周りに迷惑かけるわけじゃなし」
「そりゃ、迷惑はかけてないけどね。だって、反省してないんだぜ。感傷に浸ってるだけで。周りから見て、印象が悪いじゃないか。目障りで不愉快だ」
「俺はそうは考えない」ダンは言い張った。「そんな事考える奴は間違ってる。間違ってる奴はぶん殴れ」
「君と話しても言葉通じてない気がするよ」リンは溜め息をついた。
ダンは黙って右足の脇から笛を抜き取り、いきなり構えて吹き始めた。ダンが吹くのは、竹に穴を開けただけの簡素な横笛だ。素朴な優しい音がする。こうして見ると、ダンの指は長くてしなやかだった。
やはり、テープで聞くのとは格段に違う。ダンは音の連なりである曲という形よりも、音そのものを追及している節がある。リズムを付けず、一つ一つの音をランダムに選んで丁寧に並べていく。そうやって吹いているように、リンの耳には聞こえた。しかし、それでいてやはりダンの吹くものは一つの壮大な曲のようでもあった。ランダムに並んでいるように聞こえる音も、本当は計算し尽くされ、厳選された音の連なりなのかも知れなかった。
「話の続きだけど」ダンはまた唐突に吹きやめて、ポケットから取り出したクシャクシャのハンカチで笛の中と外を拭きながら、「感傷に浸ったり問題を棚上げしたりするのは、人が生き物として自分を護るために必要な行動だ」
「君が言いたい事は分かる。だけど僕は必要かそうでないか議論してるんじゃない」
「馬鹿な事言うんじゃない。目の前にボールが飛んできたら目をつぶるだろうが。目を守るためだ。それが必要かそうでないか議論する奴がどこにいる?」
「だから議論してないって」
「だけどお前はそれを見て周りにいる人がお前をなじるとか責めるとか、そういう話をしてるんだぞ。馬鹿げた話をしているんだ。ボールが飛んできて、目をつぶって、結局ボールが頭にぶつかった。目をつぶっても何の解決にもならなかった。格好悪い。あさましい。いっそ目をつぶらないで、しっかり見据えて、ボールを避けるべきだった。理屈の通った話だ、それが何だって言うんだ? 馬鹿馬鹿しい。目をつぶって何が悪い? それを見て周りの人間がどうこう言う事に何の価値がある? 自分の問題じゃないか」
「僕、周りの人間の話をしてるんじゃない……自分で自分を馬鹿だと思ったんだ。汚くて情けないと思ったんだ」リンはフェンスを軽く掴んで揺すった。屋上に吹く風は少し強い。「ひどい事を言われて、借りてた本を取り上げられて、破られてばらまかれて、どうでもいいような小競り合いに巻き込まれて……それでも友達だと思ってる。何をされても、かばって、許してやりたい。友達だと思う事ができる。そういう自分が、可哀相。本当に可哀相だよ、そしていい気分なんだ。そんなキレイな事考えれば考えるほど、いい気分なんだよ。そして、それを見ているもう一人の僕が、五雁リンは、なんて汚い、情けない、惨めったらしい奴なんだろう、と僕を責め立てるんだ」
「そいつを殴れ。ぶちのめせ」ダンはズボンの裾に自分で取り付けた細長いポケットに笛を戻し、歩き出した。
「ダン、君さ、本当に僕の話を聞いてるの?」
「しっかり聞いてる」ダンはガラス戸を押して屋内に入る。四方がガラス張りの、小さな待合室のような空間で、中央にエレベータがある。夏の天気の良い日には、この屋上は読書スペースとして開放され、貸し出し手続きを踏まずとも本を持って来て読む事ができるようになる。パラソル付きのテーブルと椅子が置かれ、かき氷の屋台も出る。しかし今はまだ、何も無く、誰もいない。
「もう、いいや」とリンは笑った。「なんかさ、ダンは世の中から逸脱してるよね」
「世の中が、俺から逸脱してるんだ」
「君こそ少し反省したほうがいいね」
一階まで一気に下りた。図書館内は昨日と同じく春休みらしい賑やかさだ。昨日の同じ時間帯より人が多く見えるのは、気のせいだろうか。それとも、事実「殺本事件」の噂を聞き付けて野次馬が集まって来たのだろうか。
「人が多いな」とダンも言った。しかし彼は単に人込みのやかましさが苦手なだけのようだった。「結局リンは、クラスメイトをかばったのか?」
「中途半端に青の邪魔をしただけだよ。結局青にもクラスメイトにも無視された」
「世の中そんなものだ。気を落とす事はない」
「気を落としてないよ。僕はしたいようにしただけだから」
「そう、したいようにすればいい」
「でも、我ながらとても中途半端だったと思うよ……いい人ぶって感傷に浸ってただけで、それだけで終わっちゃった。ちょっと、心残りなんだ、そこだけが」
「次回がある」ダンは無自覚に不吉な事を言った。
館内がやかましいので二人は外をぶらぶら散歩する事にして、正面玄関に向かおうとしたが、そこへ丁度事務室の扉が開いて青が出て来た。彼女は部屋の中に向かって丁寧に頭を下げ、扉を閉めると、二人を振り返ってにっと笑った。
「どこまで進んだ?」ダンは興味なさそうに聞いた。
「終了した」青はすがすがしい口調で言った。
「終了? 何が?」リンはまじまじと青を見つめる。
「何もかもだよ。全ての殺本事件を強制的に停止した。さあ、そろそろお昼だね、誰がおごってくれるんだろう」
「まだ十時だよ」
「黙れ、私の腹が減った時が昼の十二時なんだ」青はリンの指摘を一蹴した。「一体何を根拠に十時とかほざいてるんだろう、そこのガキは」
「時計に決まってるじゃないか」
「お前の時計が間違っている。二時間進めなさい」
「君も、ダンの同類だね」リンは再び、苦笑をまじえて溜め息をついた。




