翌朝は沈没(2)
「放して! あたしは違います!」
「どっからどう見ても米山亜子さんじゃないか。それとも双子の姉でもいたの?」青は信じられない力でヨアをベンチに座らせた。
「そうですよ、亜子は妹です」
「じゃ、あんたは?」
「ミコ」
「よろしい。のこのこ自分から来てくれるとはありがたいね」青はヨアの腕をしっかり掴んだまま隣に腰掛けた。
「放して! 何ですかあなたは」
「でなきゃ町内を駆けずり回る羽目になる所だった。リンのクソバカのせいで手がかりは六人の中学生の名前とうち二人の顔だけ。そのデータだけを頼りに全員を探し出し、駆け引きに満ちた尋問をし、犯人を割り出し、説得する。私一人の手には余る仕事量だ。しかしあなたが自分から来てくれたおかげで助かったよ」
「放して下さい」
「逃げないと約束するならね」
「あたしがどうして逃げる必要があるんですか」
「あなたが亜子さんだろうとミコさんだろうと、毛糸を引いて本をばらまいた人である事に変わりはない。あたしはあなたとすれちがった。間違えたりしない」
「よく間違われるんです」
「だろうね。リンが間違えたんだろう。あたしは間違えない。絶対にね」
闇町で青が最も苦労したのがこの訓練だった。変装は日常茶飯事だ。服や髪型にとらわれず、顔つきと体格だけで人を区別しなければならない。生来人の顔を覚えるのが苦手だった青は、初めの頃何度もミスをして破滅しかけた。今だって、ヨアに双子の姉がいる可能性を否定できるほどの目は持ち合わせていない。しかし、相手が嘘をついているかどうかを見極める目は、充分にある。
「こちらの要求はただ一つだ」青はさっぱりした口調で言った。「今すぐ本の破壊をやめること。単純にそれだけ。その条件さえ飲んでくれるなら何でもあんた方の望む通りにしてあげよう。図書館職員、学校の教師、保護者の皆さん、あらゆる奴らを買収してこの事件そのものを無かった事にしてあげよう。でなきゃもっとド派手なテロ活動に協力してやってもいい。百万円くれって言うならやるとも。とにかく本の破壊さえやめてくれればいいんだよ」
「何の話……」
「黙れよガキが」青は低くすごんだ。「シャバのド素人の分際でこの俺をたばかれると思ったか。話が長くなるのはごめんだ、自分の罪を認めるのか認めないのか」
「――認めない」ヨアは決意を固める。「証拠を出せ」
「認めたんだな、では――」
「違う!」
「場所を変える」青はヨアの手を掴んだまま強引に立ち上がり、自動扉へと歩き出した。ヨアが抵抗しようとすると、青は掴む手に力を入れた。血管が締まる。
「じたばた騒ぐなよ」青はヨアの二の腕を掴み直し、自分の側にぴたりと引き寄せて囁いた。「大人の注目を浴びて、困るのはあんたのはずだ」
「証拠がどこにある」
「名前は挙がっているはずだ。一冊目の被害本は正規のルートで借りられたものだったから、本の題名さえ分かれば借り主を特定できる。そうすれば犯人は借り主本人かその知り合いだ。本の残骸が図書館の手元にある限りは、題名が割れるのは時間の問題。二冊目の被害本も図書館の蔵書。トリックを使って持ち出されたが、これも割れるのは時間の問題。持ち出した人間の名は別な本を借りた人間として図書館のコンピュータに記録されている。図書館職員はバカじゃない。二つの本と関わりのある人間の名はとうにリストアップしているはずだ。その中にあなたも含まれている。この状況で騒ぐのは、あなたにとって、得ではない」
青は反論する暇を与えず、ヨアを吹き抜け真下の喫茶コーナーへ引きずって行って手近な席に着かせた。
「さあ、交渉を続けよう」青はヨアの向かいに座った。「どうやったらあんた方は本の破壊をやめてくれる?」
「――向こうがやめれば、こっちもやめる」ヨアはテーブルの下で、ショルダーバッグをまさぐった。
「向こうとは?」
「敵」
「具体的には?」
「あんたに関係ないだろ」止め金を外す。内ポケット。携帯電話。カバーをスライドさせ、ロックを解除。
「敵が何をやめれば、あんた方は本殺しをやめる?」
「敵が本殺しをやめれば、こちらも本殺しをやめる」
「何だって?」青は身を乗り出した。
「うるさい」左のボタン、二秒押しで着信履歴。通話ボタン。頼む夕、出てくれ。
「あんたの味方以外にも、本をばらしてる奴がいるのか?」
「言っておくけど」夕が出たかどうか、手の感触では分からない。出たとしても、口と通話口とが離れすぎている。機能があったはずだ。「あんた何か勘違いしてる。あたしはあれを一人でやったんだ。仲間なんかいない」確か、通話ボタンを二秒押しだ。それでこの電話が拾える音の範囲がぐっと広くなる。同時に相手の声も拡大され、耳を受話器に付けなくとも聞く事ができるようになる。危険な賭けだ。
「あたしに仲間はいない。あたしは一人でやった。仲間はいない」
青がヨアを図書館内に連れ込んだのは、伏兵がいると見たからだ。館内でヨアを尋問すれば、気付いた仲間達がヨアを助けるために何らかの行動を起こす。青はそれを狙っている。規真達に、そのまま動くなと伝えなければならない。
「ひとりで、やったんだ」私が囮になる。この女は封じておく。「仲間はいない」
「仲間がいない人はテーブルの下で電話を掛けたりしないはずですけど」青はテーブルの下を見たわけでもないのに、澄まして言った。ヨアはびっくりして電話を切った。
「あのね。あなたもテロリストなら相手と自分の力量の差くらいは見極めるようになりなさい。格が違うの格が。これ以上舐めてかかるつもりならこっちも手加減しないよ」
「あんた、リンの、何?」
「友達だけど? 誤解を避ける言い方をするなら、リンのいとこの彼女……今、こっちが質問してるんだよ。あんたの敵も本を破壊してるのかってね」
「そうだ。敵は城文字奈香。最初の本を破ったのはあいつだ」
「それで、二冊目はあんた達だと」青は少しの間うつむいて考え込んだ。「では、犯行声明がかぶっていたのは、犯人が二種類いたから、なのか……想定外だ。犯行声明は図書館に向けたものではなかったのか」
「あれは宣戦布告です」ヨアは相手をぐっと睨み付けて言い放った。「チーム・ホワイトからチーム・チェリーへ。それを受けてチーム・チェリーからチーム・ホワイトへの」
「学校内の派閥抗争?」
「そのようなものです」
「あんたの所がチーム・チェリー。城文字奈香がチーム・ホワイト。困ったな……本への恨みや何かはあったわけじゃ……ないよな。物理の本だし。借り主を間に挟んでの派閥抗争。借り主は五雁正。彼はそのせいでこの事件に何らかの責任を感じている」
「うちらをどうする気だ」ヨアは声が震えそうになるのを感じた。
「とにかく全て中止してもらう。本も、五雁 正も、私にとって貴重な存在なんだ。ガキの喧嘩の踏み台にされちゃかなわない。城文字奈香を止める方法は?」
「知らない。どこにいるかも分からないし、これ以上本を標的にするつもりかどうかも――」
少女が一人、通りかかった。春風のようだった。白く、しっとりした生地のトレーナに、柔らかそうな緑のスカート。髪は長い。ヨアの肩越しに、クッキーの写真がプリントされた平たい丸缶を差し出し、きりっと大人びた目を向かいの青に流して、
「プレゼント。名探偵気取りさん」
次の瞬間、身を翻して去った。もともときちんと閉まっていたわけではない丸缶の蓋は、テーブルの上に叩き付けられると同時に外れ、ガランと音を立てた。缶の中に詰まっていた水が溢れて、飛び散る。缶の底に四角いものが貼り付いていた。鮮やかなイラストが表紙を飾る、子供向けの文庫本だ。青は険しい顔をしてそれを水の中から引き上げた。缶の銀色の底に、硬筆書写の手本のような字で、
すべてみなそこにしずめ
ふと見るとぐしょ濡れになって皺の寄った本の題名が、これと呼応して「水底の帝国とあかがねの書」となっている。青は溜め息をついた。ヨアはそれらを睨み付けて必死に考えを巡らせていたが、やがて決断し、ぱっと立ち上がって駆け出そうとした。しかしやはり青の方が早かった。ヨアの手をバンとテーブルの上に押さえ付けて引き止め、立ち上がって身を乗り出した。
「今のが、城文字奈香か」
「放せ」
「答えろってんだ」青は手首の間節を素早く押した。ヨアは顔をしかめた。「あれが城文字奈香。お前のリーダーは加奈川規真」
「なんでそんな事が……!」
「リンからその名前しか聞いてないんだよ」青はヨアの手を解放して缶の蓋を閉めた。
「――六人候補がいたんじゃなかったの」
「二人は顔が分かってて二人は男だ。城文字奈香が女ならばそのライバルは十中八九、女だろう。消去法だね」
「でも、リーダーは私ですけど」
「見え透いた嘘はつかないように」青は缶を持って中庭に出る扉へと歩き出す。ヨアが呆然としていると、きっと振り返って、「何してるの」
「えっ?」
「早く付いて来て。これ以上ジタバタする気なの?」
ジタバタだって? お望みならしてやるとも。背を向ける、床を蹴る、走り出す、一連の行動を思い浮べてみた。それは、不可能ではないという気がした。この女、足は速くなさそうだ。たぶん、追っては来れない。加奈川規真の顔だって知らない。逃げれば、逃げられない、事はない。
しかしヨアは黙って言われるままに付いて行った。




