翌朝は沈没(1)
「僕はできる限りやってあげたからね。だけど、姿を見られたのは君達の失敗だし、僕には防ぎようもないよ。あいつは一度見た人間は絶対に忘れないはずだ。今日、出て来れば、必ず捕まるよ。家から出ない事をお勧めするね。それでも敢えて出て来て、捕まったとしても、僕の知った事ではない。僕は偽証したいから偽証しただけで、君達を助ける気なんか無いからね。僕の偽証を上手く利用すれば君達はあいつの追跡を逃れられる、でも僕の偽証を無下にすれば、必ずあいつの餌食になる。僕はその時君達の味方面するつもりはないよ。つまり、勝手にしろって言ってるんだ」
あいつには分からないんだ。小さい頃から、今までずっと、大人の望み通り欠けた所の無い人間をやってきたあいつには。規則に背いて信念を通すという事の意味が分からないんだ。偽証なんて余計なお世話だ。こっちは大人やその「あいつ」とかいう女にバレる事なんかとっくに覚悟しているんだ。
あんたとは違う、五雁正。勉強もスポーツもそつなくこなして、美形ともてはやされ、優しくて、楽しくて、けなされた事なんか一度も無い。悪い事をわざとしようなんて考えた事も無い。あんたはそういう奴なんだろう。そういう奴だから偽証なんて姑息な真似を思い付く。そういう奴だから、故意にしろ過失にしろ妹を死なせてしまって、その事を覚えていないと言って目を背けているんだ。失敗した事なんか無いから、受け入れる事ができないんだ。自分のした事を責任持って説明する事もできなかったから、殺しの汚名を着せられたって黙っているしかない。あんたはそういう立場を自分で選んだんだ。責任も無いかわりに信用もされない、沈黙を。何が偽証だ。偉そうに。その女に対して、妹の死と同じように、何も知らないと言って沈黙を守っただけじゃないか。責任を放棄しただけじゃないか。
「ヨア、似合うよ」規真はきゃっきゃっと笑って奥の部屋から姿見を引っ張ってきた。「毎日これくらいおしゃれすればいいのに。美人さんね」
姿見に変な女の子が映っていた。別に変ではない。ただ、ヨアが身じろぎすると、その子も身じろぎするから、変だ。
「駄目。絶対不自然だよ」ヨアは意外に自分はかわいいのかも知れないと思いながら、口ではそう言った。
「そんな事ないよ! あたしね、いい事考えた、お母さん達に許可をもらってあたしとあなたの服を何着か交換しましょう」
「値段が違い過ぎるよ」
「あたしが欲しいと思えば、それだけの価値はあるの。お母さんが納得しないようなら、あたしの服一着に対してヨアのを二着もらってもいいね」
「それでも釣り合わないよ。それにそんなに服持ってないって……」
服なんて三着あれば事足りている。ふだん着るのが二着に、服がなかなか乾かない時に着るのが一着。朝、服を選ぶのに時間を掛ける事を、何よりも煩わしいと思っている。規真のひらひらのワンピースも、たまにはいいと思うけど、普段着はジーパンによれよれのTシャツのほうが気が楽だ。
「ねえねえ、似合う――?」と一方、規真はヨアの脱いだ服をいそいそと着て、隣に立ち、姿見に全身を映した。
「ああ、新鮮だね」ヨアは思ったままに言った。規真は目が大きく、わりとあどけないがはっきりとした顔をしている。規真が着れば、よれよれの男物の服も流行の最先端という風に見えた。
「駄目だ、こっちこそ不自然だねえ」規真は苦笑して鏡の前で一回転した。「なんか気取った感じになってしまう」
「あたしは田舎者が見栄張ってるみたいじゃない?」
「そんな事ありません! あなたは何を着ても純情なのよね」
「あなたは何を着てもファッションモデル……」
「まあいいんです。昨日と違う印象であれば、それでいいんです。急ぎましょう」
急ぎましょう、と言いながら規真はヨアを洗面台へ連れて行って、軽くアイラインを入れ、ショートヘアを丹念にとかし、右のこめかみの少し上の所に花のピンを留めた。
「こんなんで大丈夫かなあ」ヨアはぽそっとつぶやいた。「もっとこう、大掛かりに変装したほうがいいような気がするね……男装するとか」
「素人がそんな事してもボロが出て目立つだけよ。これでいいのこれで。目さえ隠せば人の識別は難しくなるって言うでしょう。あなたなるべく内気な少女を装ってうつむき加減に歩けばいいの。あたしはね、これね」
規真はどこから出してきたのやら、薄い茶色の、フレームの細いサングラスをかけて、鏡に向かってピースサインを出した。妙に似合っている。
「うーんそれいいね。四月からこれで学校に来たら?」
「そんなに似合うかな?」規真はくるくると二回転した。
「似合う似合う」
「こっちはどう? 親父のなんだけど」規真はサングラスを四角い真っ黒なものに替えた。
「映画に出て来そう」
「目立ちすぎる?」
「とても」
「だめか……」
それから満次と夕に電話で連絡を取り、打ち合わせをし、荷物をチェックすると、小半時間が過ぎた。規真はヨアの自転車に乗り、ヨアは徒歩で、時間をずらして出発した。時刻は九時。図書館の開館時刻だ。
こちらの反撃を受けて、チーム・ホワイトは必ず反撃の反撃を仕掛けてくるはずだ。相手の出方を見て、こちらも臨機応変に対応する。相手がまだ本の破壊に拘るようならこちらもそうするし、別な闘い方を示してくればそれに応じる。冷静な観察、把握、対処。何しろチーム・チェリーは少数精鋭、頭脳派だ。
ショルダーバッグが一定の間隔で振動を始めた。
ヨアは急いでバッグの止め金をまさぐった。規真がいつも下げている薄桃色のバッグ。慣れないので開けるのに手間取った。電話は夕からだった。開館と同時に図書館に入っている。
「『夢学園』の二巻がなくなってる。ばれたみたいだ」
「ああ、盗み方が? そんなの当然じゃない」
「警戒が厳しくなってる。昨日と同じ方法は使えない」
「それは敵も同じだ」
「規真はいつ来る?」
「もうそっちに向かってる。五分くらいで着く」
四人の中で、規真だけが携帯電話を持っていない。機械を持ち歩くのが嫌いだそうだ。腕時計すら持っていない。いろんな人間がいるものだと、ヨアは思う。
電話を切って、バッグにしまった。
明け方に雨が降ったようで、道路はうっすらと濡れていた。空も東半分が灰色の雲だ。西が晴れていれば、この後は晴れるんだったか。空気は湿って、生ぬるい。静かな朝を過ごす見慣れた住宅街が、何故かいつもと違って見えた。どこが違うのか、ヨアには分からなかった。
十五分ばかり歩いて、図書館が見えてくると、ヨアは気を引き締めた。規真に借りたオレンジのワンピース。洒落たサンダル。足が少し痛い。内気を装い、うつむき加減。入館したらすぐ三階へ。本を物色するふりをしながら、チーム・ホワイトの出方を待つのだ。
変装というほどのものではなかったが、印象はすっかり変えたはずだった。昨日、一度すれちがっただけの他人に、見破られるはずがない。目を伏せていれば、分かるはずがなかった。なのに、図書館に一歩も踏み入れないうちに、その声は後ろからかかった。
「米山さん。米山亜子さん」
ぎくりとするとは、こういう事なのだろう。何故、分かる? いつの間に、背中に回った?「あいつ」だと確信した。
「米山亜子さん。私は高瀬 青という者ですが……」
図書館の正面入口の、自動扉が開く。が、青はヨアの肩の前に両腕を回してがちっと押さえ込み、後ろにぐいと引きずった。センサの検知範囲を外れ、自動扉は誰も通さずに閉まる。




