夜は打撃(3)
「結局、お前は答えていないと思うんだ」
校庭を縁取る芝生の土手に腰を下ろすと、柾は言った。芝生は露で湿っていた。人込みの熱気から逃れて来た身には、ひんやりした風が心地良く感じられた。
「何が?」と岸は聞き返した。
「何故俺に構うんか」
「やけに拘りますね」
「俺に拘ってるのはお前だ」
「理由なんて別にいいでしょう。闇町なんだから。僕と貴方の利害が一致したというだけの話」
「俺は死ぬはずだったんだ。死んだも同然だった。誰にも止められるはずが無かった」
「でも、僕は止めました」
「誰にもそんな事ができたはずが無いんだ」
「並みの精神ではね。あれは僕が柾さんを好きだったから、できた事だった」岸の言葉は静かだった。
「理由は?」柾は慎重に尋ねた。
「分からない」岸の山吹色の目は遠くを見ていた。「分からないんだ」
「俺の方が分からない」
花火が頭上で怒鳴っていた。
「同じ匂いがした」岸は呟いた。「少なくとも、よく似ていた。そういう感じがした。外見も性格も違ったけど――同じ佇まい」
「彼女か」
「違う。更紗じゃない。更紗は特別だったから、会ってすぐ分かった。でも赤波柾は、僕は――」岸は言葉を切り、しばらく考えてから、また口を開いた。「因果なものですね。僕はもう九十四年も生きました。なのにまだ、終われない」
「辛い?」
「僕を岸と名付けたのは」岸の話には脈絡が無かった。「ユウザと言った。湧佐大河」
「黒猫さんの本名は高橋だったと思ったが」
「議長じゃないんです。僕の名付け親は、別な人です。こないだ嘘をついたんです。湧佐大河と言って、僕を担当した研究員でした」
「そう」柾は足元を見下ろした。
「僕を名付けて、研究所から僕を盗み出して、海の向こうへ逃げました。そして死んだ。なんだか、僕は、そのまま止まってしまったような気がするよ。取り残された。世界が沈んでしまった。なんで僕は湧佐がいない世界にまだ生きているんだろうって」
「ふうん」柾は素っ気無く言った。「悪いけどよく分からない」
「湧佐が帰ってくるのを、ずっと待っていた。ずっとだ。何十年も。忘れられなかった。僕はいつまでも子供だった。いつまでも、待っていたら、湧佐の替わりに、貴方を見付けた」
「三十にもならないガキを?」
「僕は八歳だったんですよ。ずっとね」
「変な奴だ」柾は溜め息をついた。「変すぎる」
「変すぎる」と岸も言った。
「『好き』なんかと思ったが、正直な話」柾は言った。
「似たような事ですよ。柾さんが受け入れられる範疇のものじゃないって意味では」
「悪いが、お前の父親にはなれない」
「分かっていますよ」岸は声を立てて笑った。「もう大丈夫です」
「何が大丈夫なんだ?」
「そのうち、友達になれますよね」
「お前が俺の?」
「そう」
白い蛇のような光が、身をくねらせて空に駆けた。不思議な音が響き渡った。それが何度か続いた。岸と柾は黙ってそれを眺めた。
「悪いが、友達にもなれん」と柾は言った。
「なんで!」
「迷惑だ」
「ああ、やっぱり」
「納得すんなよ」
「柾さん」岸は突然言った。「柾さんの右足は、ちゃんと爪先があるじゃないですか」
「お前が自信たっぷりに間違うから、合わせてやったんだ」
「願掛けのつもりで足を引きずり出したのは、柾さんのほうだった?」
「あいつだってもう歩けるのに杖を手放さない」
「そういう物なんでしょうかね」
「そういう物なんだろう」
二人はまた少し黙った。
花火は煙が晴れるのを待って、少しの間止んでいた。
「大介さんと青さん、何処行ったんでしょうね」思い出したように、岸が言った。
「さあ……何やってんだか」
「議長もどっか行っちゃうし。夏の打ち合わせするって言い出したのは議長と彼女なのに」
「顔見たかっただけなんじゃないか」
「そうかなあ……青さん、電話掛けてきた時はすっごく緊張してて、何か重大な話があるみたいに言ってたんだけど」
「だから、多分、電話で話しているうちに解決したんだ。俺もハナダさんが電話してる時そばにいたけど、そんな感じだったから」
「そうか……なら、抜けた事のことかな……」
「ことのこと?」
「妙な所で拘るんだな、絵馬……昔から変わってない」岸は思い浮かべて微笑んだ。
「その、エマって、ハナダさんの名前?」
「そう、水無絵馬。僕らの敵の、娘だ」
「……え? 敵?」
花火が再開される。
「……敵?」
柾はもう一度聞き返した。岸は黙って笑っていた。




