午後は泥沼(2)
「あの本、図書館のじゃなかったらしいよ。魔法の夢のなんとかっていうやつの一巻。この図書館のは、今貸し出されてないし、無事だってさ」
事務室に毛糸を届けて自分の無実を主張してきたリンは、三階まで階段で上がってきて言った。
「光の魔法夢学園、だよ」青はまさにその本を手に取って重さを確かめている所だった。「結構な分量だな。小さめの辞典くらいあるじゃない。近頃は長編ファンタジーがブームなの?」
「へえ、そうなの?」リンはこの辺のジャンルには興味がないようだった。
「しかし、図書館の本じゃないとすれば自宅から持って来たのかな。随分気前のいい殺本犯だね。ほら、定価千二百円もするのに」
「図書館の本を盗む苦労を考えれば、背に腹は代えられぬって事だろ」
「カウンタから死角じゃん?」
「そんな事関係ないよ。ほら、ここのチップを磁気処理しないとエレベータか階段の入口でセンサーに引っ掛かっちゃうからね」そう言ってリンは本の背表紙に透明なシールで貼り付けられたけし粒のような機械を指差した。
「なるほど。借りてない本を持ったまま一階へ行く事はできないんだな。するとこのチップで本を区別してるわけだ。カウンタで、読み取って、コンピュータに入力して把握……誰が何の本を借りているのかいないのか、図書館側はいつでも瞬時に検索可能なんだね。いや、文明は進んだね」
「今どき何処の図書館だってそうしてるじゃないか」リンは不思議そうに言った。「まあ小中学校の図書室なんかはいまだにバーコード式だけど……」
「まあいい。犯人が少なくとも一人は割り出せた」青は本を棚に戻し、さっさと歩き出した。
「えっ。うそっ」リンは慌てて並んだ。「なんで?」
「あの重さで、あの毛糸なら、制限されてくる部分があるじゃない?」青は階段を降りながら説明した。「糸の長さだよ。一般に、糸の端を引けばもう片方の端に等しい力が加わり、その働きは糸の長さに関わり無いはずだと考えられている。引くものが一緒だったら、十センチの糸でも十メートルの糸でも、変わりないはずだと」
「糸は伸びるよ。長いほどよく伸びる」リンはふっと笑って言った。
「そう。一つにはそうだね。長さなんか関係ない、と考えるとき、我々はいろんな事象を無意識のうちに無視している。例えば、糸の伸び。糸の強度。糸とその周辺との摩擦。そして糸自身の重さ。本当は、糸とか鎖というものは、長ければ長いほど伸びやすく、切れやすくなる。毛糸は表面が毛羽だっているから、摩擦も無視できない。そういうわけで、あの重さの本に毛糸を付けて引っ張るという事を考えると、糸が長くなればなるほど、糸が切れる可能性が大きくなる。つまり、失敗率が高くなる」
「それで?」
「それで、犯人だってそれは分かっていたはずだ。となれば犯人はなるべく糸を短く切り詰めようとする。失敗はしたくないからね」
「でも、あの糸は馬鹿みたいに長かったよね」
「そこなんだけど、別に糸を本当に切り詰めて短くする必要はないわけじゃない。力のかかる部分の長さを短くすればいいんだからさ、犯人は糸の途中を掴んで、引っ張ったんだよ。それで、じゃあ具体的に何処らへんを引っ張ったか考えてみると、人目につかず、しかも失敗率が最小になる位置という事になるから、この階段の途中辺りがベストなんだよね」
青は降り切った階段を振り返って、溜め息をついた。
「じゃ、君は張り切って外まで出てっちゃったけど……」
「そう。無駄足だった。犯人はこれを狙ってわざと不必要に糸を長くして外まで巡らせておいたんだな。ああ、完全にからかわれた。私は犯人と擦れ違ったんだよ。たぶんだけど、あの迷彩柄のTシャツの子……」
青は空いているテーブルを探し、リンを促して座った。
リンはしばらく考えてから、「そういえば、糸、張ってなかったね」と言った。「もしあそこの自転車置き場のとこで端を持って引っ張ったら、そこまでずっと糸がぴんと張ってたはずだ」
「まったくだ……」青は椅子に沈み込んだ。「気付くべきだった。なんたる不覚。最後まで辿ってしまうまで気付かなかった。おかげで取り逃がした……」
それから青はナップザックの中から鉛筆を取り出し、紙ナプキンを一枚とって、図書館の平面図を書いた。
「自宅で本を切り刻む……紙束を大量に切る専門の刃物が必要だな。一般家庭にあるとは思えないが。学校の印刷室に忍び込んでとか。犯人がその学校の生徒であれば比較的容易でリスクも小さいと考えられる。リン、ここから学校は近いかい?」
「そだね。わりと近いね。中学校も小学校も」
「うん。多少マニアックではあるが、犯人はどうしても本を刃物で刻みたかったんだろう。さて、切った本を元の形にしっかり組み合わせて、表紙で包み、本らしき形にしておく。そして図書館へ。入口から堂々と入る。三階へ上がる。人目を盗んで、本らしきその物体を手すりの上へ。次に糸だ。毛糸を一束、丸ごと使ったんだな。ここは知恵の使いどころなんだけど、リン、どう思う?」
「え?」リンは首をひねった。「何が?」
「堂々と毛糸玉を転がしていくわけにもいかないだろう。犯人は一体どうやって、人目につくことなく糸を巡らせたと思う?」
「そりゃ、最初から本に糸をくっつけといて……」
「目立つだろ」
「そして糸玉と一緒に袋に入れてさ。本をさりげなく置いて、それからさりげない顔で袋を持ったまま階段を降りて、そうすると袋からさりげなく糸が繰り出されてね、さりげなく……」
「さりげなくって連呼しても無駄だよ。糸はただ張るだけじゃ駄目だ。引けば本が落ちるように、手すりの柱の間に通しておかなきゃいけないだろう。本が最初から糸に繋がってたら、本ごと柱の間にくぐらせなきゃいけない。それはあまりにも不自然だ。言っておくけどね、犯行現場はカウンタの正面なんだよ。間に書棚とテーブルがあるとは言え、死角と言えるものではない。だから、あくまでも本は本、糸は糸で設置して、最後の最後に二つを連結したんだ。それだけの作業なら自分の体で死角を作る事ができるからね」
「答えを知ってるんなら早く言えよ」リンは軽く首を振った。
「答えは犯人しか知らない。ただ、私は一番怪しまれずに済む方法を予測してみた。共犯者がいたほうがいいんだが、一人が外の砂利の上で毛糸玉を持つ。一人がその糸の先を足にでもくくり付けて、図書館に入り、階段を登り、本が置いてある、あるいはこれから置く予定の、手すりの所まで歩く。これで糸を張る事ができた。ところが、糸は予想以上に余ってしまう。そこで、糸玉を持っていた人は、これを転がして駐輪場まで伸ばしたんだ。こうすれば、外に出た途端急に糸がくねくねし始めた理由が分かるね。まあ、この糸玉を持つ人ってのは、スリットのある重しで代用が効くから、いなけりゃいなくてもいいんだが……いたほうが断然便利だ。最も効率良く怪しまれずにやるためには、四、五人いるといいね。糸を張る人、糸玉を持つ人、本を置く人、糸と本を連結する人、それらの作業が誰かに見られていないかどうか気を配る人。そんな所だ」
青は紙ナプキンの平面図に糸や共犯者の配置を適当に書き込んだ。
「でも、青が今言った五つの役は全部兼任できるね」
「うん、もちろんさ、はっきり言って一人でもできるね。でも五人いれば怪しまれずスムーズにできる。五人は多いかな。三人だ。四人だともう難しくなる。いかに上手に連携を取るかにかかってるからね。三人なら友情でどうにかなる。四人以上になったら、リーダーが必要だ。特に六人七人八人となると、ただのリーダーじゃ済まない。ずば抜けて頭が良くて、カリスマがあって、誰も逆らえないくらいのリーダーが必要だ」
青は言った側からそれを簡単にメモしていく。それが何の足しになるのか、とリンは冷めた事を思った。細かい事をごたごた予想しても推理にはならない。犯人がわかるわけでもないじゃないか。
「それから。もう一つ吟味しときたいのは、犯行のタイミングなんだ」青は真面目な顔で続けた。「糸を張って本も用意できた、連結完了、あとは引くだけ。どうだ、その後どれくらいのブランクを作るべきだろう。早過ぎれば、カウンタの人や他の客が妙な行動を取っていた犯人を覚えていて、疑うかもしれない。しかし遅すぎれば、いくら目立たない色とは言え、誰かが糸に気づくし、いくら本らしき形をしているとは言え、誰かがそれがずたずたになっている事に気付くだろう。だから、そこらへん微妙な加減なんだが、どちらかと言うと遅いよりは早いほうがいいように思うね。それに、犯罪者心理ってやつもある。とかく早く終わらせてしまわないと落ち着けないからな。だから、早ければ準備が完了して数十秒でもう落下は始まっていたし、いくら遅くても三分後には始まっていただろうと思う。単なる想像でしかないんだが、私が犯人だったらそうするよ」
青は言葉を切り、また今言った事をメモした。
「あ、それから犯行声明について一言。いや二言、三言。まず、あれはなかなか美しい掛詞だ。火蓋は切って落とされ、本も切って落とされた。無理が無いし簡潔だ。しかし変なのは、第一の犯行で既に始まっていたのに、今回再び火蓋を切った、つまり闘いが始まったと、宣言した事だ。これについては三つの可能性を挙げとこう。一つはただ言葉遊びがしたかった。もう一つは仕切り直して、もう一度新しく始めるというつもりだった。最後の一つは、考えにくい事だが、第一の事件と第二の事件の犯人が別であるという可能性だ。まあ大したことではないと思う。たぶん言葉遊びなんだろうと、私は思ってるね」
「ふーむ」リンはあいまいな返事をした。
「さて、と。もうこれで推測はお終い。ここから、私は調査に入る。と言っても、今のとこやれる事は二つしかないんだ。外で遊んでる子供達のお母さんに、毛糸を持ってる人を見かけなかったかどうか聞くことと、三階へ行ってもう一度、本当に『光の魔法夢学園』の一巻が無事なのかどうか確認する事だ。実際の所、図書館の職員達は黙り込んでるけど、第一の事件の被害本は図書館の所有する本だったろうと思うんだよ。物理の本なんかわざわざ自宅にあるやつを破って持ってくるわけないだろう? あれが図書館の本だったからこそ、犯人はあれを破ったんだし、わざわざ図書館のエレベータにばらまいたんだ。とすれば、今になって突然自宅の本を持ち出してくるのはおかしいよ。この図書館のセキュリティシステムを考えてみても、盗もうと思って盗めなくはない。やはりこの公共施設は市民の皆の良心を当てにして経営されているんだよ。それが図書館のあるべき姿だとも思うしね。とかく盗もうと思えばどうとでも盗めるんだ。だからもう一度確認する」
青は席を立った。
「そしてリン」青は立ち上がろうとするリンを射すくめるような眼で見下ろした。リンはどきりとして、動けなくなった。青の目は怒っているでも睨んでいるでもない。穏やかとも言えるくらいだった。なのにリンは、今まで会ったどんな人よりもこの人が怖いと思った。
「リン。私は、犯人をあぶり出して吊るし上げるつもりはないよ。まして、大人に言いつけてどうこうするなんて、とんでもないと思っている。ただ、私はこれ以上多くの本が破壊される事を望んでいないだけだよ。犯人にだって言い分はあるだろうし、犯人の気持ちより本のほうが大事だなんて決して思わないが、けれども、話し合って済む事なら話し合いたいと思う。だから、早く犯人を見付けて、直接会いたい、会って話がしたい。これを前提として聞いてくれ。結論を先に言う。君の同級生の中に犯人がいる可能性がある。君の知っている先輩や、後輩の中に、犯人がいる可能性がある。第一に、昼も言った通り、本を破る、それを見せびらかす、必要のない犯行声明を残す、と言った幼稚な精神と、犯行声明で言葉遊びをし、あるいは毛糸を使って巧妙な仕掛けを作り、誰にも見とがめられずに上手くやってのけるくらいの知恵。このアンバランスはティーンエイジに特有のものだと思う。第二に、さっき言った通り、本を切る道具は一般家庭には無い。かと言って絶対に無いわけではないし、手動のものなら比較的簡単に手に入るはずだから、断言することはできないが、それでも、小学生や中学生や高校生という肩書きがあれば随分便利だと言えるだろう。第三に、犯行のタイミング。仕掛けを完成してから本を落下させるまでにそう長い間は無かったはずだと、さっき言ったね。とすると、本の落下が始まった時、犯人や共犯者やらがその周辺にいた可能性は極めて高い。ところで、私とリンは偶然その瞬間、その周辺にいた。そして、何人かの中学生を見かけている。そのうちの一人は、君の知り合いだったはずだ。マンジという名前だったと思うけど、直前にエレベータに乗ってきたね」
リンは頭の中が真っ白になった気がした。
「君に協力しろと言うつもりはない。私は犯人を責め立てるつもりはない、会って話がしたいだけだが、君が私を信用するしないは君の自由だと思う。信用してても、やっぱり話すわけにはいかないという事もあるだろう。君の人間関係にかかわる事だから。ただ、もし、話せるかもしれないというのであれば、私が階段で擦れ違った迷彩柄のTシャツの女の子に心当たりはないかどうか、マンジ君という人は本を破ったりしそうな人かどうか、君の学校には紙束を両断する機械があって、使おうと思えば今日や昨日も使えたのかどうか、それから、本を破りそうな三人組や、四人組や、五人組や、もっと人数が多い場合リーダー役を務めるような人に心当たりはないか、そういう事を、少し、考えてみてほしい」
青は言葉を切った。
リンはどんな顔をすればいいのか、どんな返事をすればいいのか、分からなかった。ただ、この人は本当に怖くて、たぶん本当に闇町の最高権力者になれる人で、財産とか武器とか人脈がなくても、実力だけで人の上に立てる人で、自分がどんなふうに誤魔化したりはぐらかそうとしても、その眼だけで何もかも見透かしてしまうのだと、思った。
「時間を置こう」青は手を伸ばして、リンの頭を軽く撫でた。「私は外の目撃者に事情聴取して、三階の本をもう一度確かめて、その辺をぶらぶら散歩してから戻って来る事にする。二十分置こう。二十分後に、とりあえずここ。その時、まだ時間が足りないようなら、延長するし、場所を変えたければ、そうする。それでいいかな」
「うん」とだけ、リンは言った。
「では、しばしの別れ」青は歩きだし、リンの後ろを通り過ぎながら、「何も話さなくていいんだよ。黙って下向いてりゃいいのさ」
さらりと軽く言われたのが、リンには一番痛かった。




