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消える流れるすり替わる  作者: 羊毛
3.辿れない糸口
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午後は泥沼(1)

「いや、あなたでなく」青はあたふたした。こんな所でこんな人に心の叫びを聞かれてしまうとは。かなり恥ずかしい。

「ハナダさんやないですか。お久しぶりです」まさめは容姿を裏切る穏やかな声で言った。

「ええ、そうですね」青はどうにか思考を切り替えた。「お久しぶりです」

「楽しそうですね」柾は柔らかく笑んで青をじっと見下ろした。見つめ返すと、逆らえなくなる、柾の黒い瞳はある種の邪眼と言われる。


 青はわざと目を合わせないで毛糸の先をゆっくりと拾い上げた。

「いえ、楽しくは、ありません」と青は少し間を置いてから答えた。

「どうなさったんです?」

「ちょっとたちの悪い殺本事件に巻き込まれ……もとい、自ら首を突っ込んでおります」

「殺ボン?」

「この図書館で今朝から本がビリビリにされる事件があいついでまして」

「そりゃひどい。犯人は?」

「今、追いかけようとして、失敗したところです」

「犯人は空を飛べるんですか?」柾は突拍子も無い事を言い出した。

「いえ?」青はぽかんとして、思わず顔を上げてしまった。「何故?」

「いや、俺は数分前からここに居たけど、誰もこっちへ来なかったから。挟み打ちで逃げられたという事は、犯人は空へ逃れたんじゃないんでしょうか?」

「はあ」青は吹き出した。「回転が速すぎます。そんなんじゃ誰も付いて行けない」

「貴方なら付いて来れると思ってね」柾はにっこりした。その表情が予測を遥かに超越して無邪気なので、頭がくらくらするような感じだった。この人との会話は気が抜けない。嫌ではないが落ち着いていられない。あえて言うなら、エキセントリック。


「ところで、大介は?」当然の質問だった。

「さあ」青は苦労して目をそらした。「私も知りません」

「え、あいつ、すっぽかした?」

「いえ、すっぽかしたのは、私です」

「あ、そうですか」予測していたかのような、味気ない反応。誰でも初めは戸惑うのだが、これが彼の驚き方だった。

「柾さん」沈黙が来ないうちに、青は先手を打った。

「はい」

「好きです」

「え?」柾は今度は正常な驚き方をした。「何が?」

「柾さんが」青は頭の中ではまったく別な事を考えていた。

「そう……?」

「柾さんが、大好きです。これで二度言ったと思いますけど」

「ううん、そう」柾は困り果てた顔をした。「どうも、ありがとう」

「本気にしてない」

「本気とは?」

「どうでもいいけど」青は毛糸を指に巻き付けた。日の当たらない駐輪場は、風が吹くと寒かった。

「どうでも良くないと思いますが」柾が歩み寄ってきたので青は緊張した。しかし柾は青の脇を通りすぎて正面に回り、建物の灰色に湿った外壁に背を預けて座った。

「大介さんにとっては、ね」青は軽く俯いて呟いた。

「いえ、あなたにとって、良くないですよ」柾は熱心な目で青を見上げた。さすがにこれ以上その視線を誤魔化しきれないので、青は用心しながら相手の瞳を見返した。その瞳は優しげに笑っていた。これだから油断ならない。

「あんまり、男にむかって無差別に好きとか言わないほうが」

「無差別には、言いません」

「じゃ、特にろくでなしには、言わないように」

「柾さんは、ろくでなしじゃありません」

「うーん……」柾は首をかしげた。「断言されるとなかなか敢えて否定したくないけど……」

「柾さん」

「はい」

 青は必死で会話の続きを考えた。「女の人を好きになった事は?」

「ありますよ。それは」

「その人から裏切られたと思った事は?」

「いや……そこまで経験豊かでないので。少し羨ましいかな」

「裏切られる事が?」

「そうです」柾はこっくりと頷いた。

「大介さんに裏切られたいですか?」

「そうですね。それくらいになれたら、いいんじゃないですか」

「どういう意味ですか?」

「信頼があって、それで初めて裏切りが成立するんでしょう。裏切られてがっかりするくらいの信頼関係が欲しいと思いますよ」

「詭弁だと思います」それ以前に大介と柾の関係は信頼以外の何者でもない。自覚していないのだろうか、この男。それとも謙遜すると見せ掛けて自慢しているのか?

「あ、そうですか?」柾はまた笑った。何を考えているのか分からない。「大介に裏切られましたか?」

「私が一方的に過剰な信頼を置いただけです」すねたような言い方になってしまった。

「慣れていないのだと思います」柾は瞬時に親馬鹿の口調になった。「今少し、大目に見てやってもらえませんか」


 そういう事を親が本人の知らない所で勝手に頼むものではないと青は突っ込みたくなった。しかし突っ込んでも始まらないので、

「いや、それは別に構わないんですが。慣れていないというだけなら大いに結構なのですが」


 そういう不器用な所が好きだと思うのだ。青は気分を落ち着けて考えようとした。大介の事を考える時に落ち着けるはずがなかったが、それでもなるべく気を鎮めて考えた。不器用なのは大いに結構なのだ。拒否されるのも構わない。憎まれたり呪われたり罵られたりしても、たぶん許せるだろう。でも、今回は違った。こちらの気持ちに戸惑い、うっとうしがるばかりで手も足も出なかったはずの大介が、今回に限って積極的に青をあしらい、利用し、もてあそんだ。大介にそんな事ができるはずがないと思っていた。優越感だったのだろうか。青は大介をどうとでもできるが、大介は何もできない。そう決め込んで思い上がっていたからこそ、ことさらに傷付いてしまったのかもしれない。


「冷静に考えると、私がかなり悪いようです」柾と張り合う気力も失せたので、青は無防備に彼の目を見下ろした。

「女にそんなこと言わせてほっとくような奴は、男とは言いません」柾はまだ笑っていた。

「でも、私が卑劣でした。裏切られたというより侮辱された気がしたんです。私が大介さんを対等に扱っていなかったという事です」

「いえ、対等である必要はありませんね。男が女の上に立つとろくな事になりません。対等なんてのは、最悪です」

「経験してきたようにおっしゃるのですね」

「一通り歴史を見れば明らかじゃないですか」

「柾さんは優しいね」

「あ、それも無闇に言うもんじゃありません。ハナダさん。男なんてね、どれもみんなケダモノですからね。二人っきりの時に余計な事言わないように」

「でも、無闇には言いません」青はだんだんおかしくなってきて、笑い返した。「たぶん、まだ柾さんにしか言ってません。レアですね柾さん」

「それも、駄目です」柾もくすくす笑った。「お前だけ特別だとか言われると男はすぐ本気にするもんです」

「男じゃなくても本気にしたいでしょうね。本気にしましたか?」

「少しはね」

「嬉しそうですね」

「ええ。悲しくなれないでしょう?」

「怒らないね」

「え? 怒るべきでしたか?」

「私は知りませんが、あなたの息子さんは怒りましたよ……」


 突然毛糸がぐいっと引っ張られたので、青はびっくりして指をふりほどいた。ざくざくと砂利を踏む足音が近付いてきて、左手に毛糸をぐるぐると巻き付けたリンが現われた。

「あおー! ひどいじゃないか。君が逃げたから僕が疑われたんだぞ」それから壁際に座りこんでいる柾に気づき、「あっ……えっと、葬儀屋さん!」

ただしさん」柾はさっきの数倍嬉しそうに微笑んだ。「ハナダさんの知り合いでしたか? 俺の甥なんですが」

「知ってます」

「友達なんです」とリンは得意げに言った。

「そうか。葉月ちゃん元気?」リンの母親、つまり柾の姉の名だった。

「元気です」

「柾さん、葬儀屋だったんですか?」と青は聞いた。

「え、違うの?」とリン。

「葬儀も、してますよ。あまり希望されるお客さんがいませんが」

「葬儀もって……」リンはちょっと緊張した顔になった。「……やっぱ本業は殺し?」

「ああいや」柾は苦笑した。「うちはそういうんじゃない。闇町で死人が出ると儲かる所と儲からない所とあるんやけど、うちは儲からないほう」

「絶妙な説明ですね」青は真実を知っているのでさり気なく言った。赤波書房は死体処理組織だから死人が出るほど仕事は増える。それなのに儲からないのは単に経営が悪すぎるからだ。


「ふうん、まあ、いいけど」リンは少しほっとしたものの、死人が出るなどとごく日常的に言われてしまってたじろいでいた。

「では、柾さん」青はこれ以上この三人で会話を続けるとまずいと感じたので、唐突に会釈した。「また夕方にでも。失礼します。私はしばらくここで殺本事件の調査をしてますんで、大介さんによろしく」リンを引っ張って歩き出した。


「さんざんだったぜ」リンは左手を糸の束から引き抜きながら訴えた。「前回も第一発見者だったから既に犯人扱いだよ。僕が本に触ってない事を複数の目撃者が証言してくれたから良かったものの。犯人は糸を使ったんだって言おうとしたのに、見回したら糸がないんであせったよ。君が足に引っ掛けて持ってっちゃったんだ。階段の途中に落ちてた。だから、今からこれを持ってって僕の無実を証明しないと」

「そりゃ、大変だったね」

「ねえ、ハナダさん」駐輪場から充分離れたところで、リンは口調を変えて言った。

「一つ訂正。あたしの名字、今は『高瀬』なの。だからハナダさんていうのはハナダ社の元社長さんという意味であってあたしの名前じゃない」

「でも、()()()()()。あんた、どれくらい偉いの? ハナダっていう所のボスだったって、本当だったの?」

「君にゃあ関係ない」

「でも、気になるぞ」リンは図書館に入るガラス戸を引いた。

「なんだい?」青は面倒くさそうな顔でリンを見た。「柾さんに敬語使わせてるから驚いた?」

「そう、そう、それ」

「まあ気にするでない。例え俺が闇町の最高権力者で柾さんが最下級の雑魚だったところで、君の友達と君の叔父さんであることに変わりはないね。それに……あの人には勝てないと思うよ。尊敬している」それは本当だった。あの眼もそうだが、喋り方にしても、素朴な表情の一つ一つにしても。今だって、いつの間にか慰められていたのだ。

「尊敬?」

「そう。君の叔父さんって闇町で金も権力も持たないんだけど、結構いろんな人から尊敬されてる。不思議だね」


「いや、僕は、君が誰かを尊敬することなんかあったのか、と不思議に思ってる」リンはとぼけた調子でそう言った。胸の内ではまだ少し青が遠く見えていた。


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