消える(3)
小さな派出所に、電気ストーブが焚かれていた。書類を片付けている田中の隣で、長髪の少年が十年前の漫画を読みながらくつろいでいる。ポットの湯とマグカップをちゃっかりと拝借してインスタントコーヒーを淹れ、ちびちび啜りながら、ページを繰る。彼の髪は黒いが、生え際が金茶色なので、そちらが地毛の色と分かる。肩に届くくらいに伸ばしていて、それを後ろで一つに括っている所が、気取った感じだ。
「岸全一殿」
田中は書類を一つ片付けて顔を上げながら、溜息混じりに言った。
「んー?」ゼンは、顔を上げず、ページを繰り、生返事をした。
「ここは、私の仕事場で、かつ、君の家ではないんだが」
「そう、カタイこと言わないの」ゼンは呑気に言った。「もうちょっとだけ。もうちょっとねばれば、あいつらも諦めて帰るから」
「君の敵なら、とっくに帰ったよ」
「いいや、また新しいのが来た。僕の第六感でそれが分かるのさ」
「いいから、もう消えてくれ」
「なんで! 市民を守るのがお巡りさんの役目でしょう?」ゼンは顔を上げた。「人が危機を脱して命からがら逃げ込んできたってのに、出て行けってのは無いんじゃない?」
「あんたは自分で危機を招いたんじゃないか。恨むんなら自分の過去を恨むんだな。さあ行った行った」田中は少年の背中を叩いてパイプ椅子を取り上げた。
岸 全一と言えば、あの警察も匙を投げた小型滑空機暴走族の一つ「デスカーズ」をつい最近まで支配していた最強のツッパリだ。デスカーズの長は「ジョーカー」と呼ばれ、ゼンは「四代目ジョーカー」だという話だったが、事実上は彼がこの族を立ち上げたようなものだった。彼が、それまでバイクをぶっ飛ばすしか能の無かった悪ガキどもに滑空機を買わせ、命知らずな飛び方を叩き込み、「空飛ぶ暴走族――暴空族」の新しい伝説を作り上げたのだ。たちまちこれは大流行し、似たようなグループがいくつもできあがって飛び回り始めた。エスターと呼ばれるこれらの滑空機は、本来街の中を飛ぶ事を政府から認可されていない。全国唯一の無法地帯「闇町」でだけ通用する乗り物だった。それをゼンがシャバの街に持ち込んだのだ。何しろ恐ろしく小回りが効く。ビルや街路樹の込み合う空中にこちゃこちゃと飛ばれては、追い掛ける手だてが無い。警察の方で使用できる最小の飛行機といったら、ヘリコプターしかなかった。苦肉の策で、警察は政府に掛け合って「街の治安の為に」エスター使用の許可を取ったが、さて、取ったところで誰もこの変てこりんな機体を乗りこなせないのだ。闇町でも、事故が多くて敬遠される乗り物だった。命を懸けて飛び回る少年達を追う為には、追う方も命を懸けねばならないのだった。そんなわけで、今日もお巡りさん達は頭痛と闘っていたが、肝心のゼンは数ヶ月前に足を洗って、派出所に入り浸ってコーヒーを飲んでいた。
「やだよう! 今出てったらミンチにされるう!」ゼンはパイプ椅子に取りすがる。
「ああ結構。いい見せしめになる」
「ひどいぞ。鬼だ」
二人が椅子を掴んで争っている所へ、がたんと勢いよく戸を押して、誰かが飛び込んで来た。ゼンと田中は、入り込んできた冷たい風に揃って首をすくめ、戸口を振り返った。
真っ白な顔をした少年だった。もともと色白な上に、ひどく青ざめているのだ。黒い目を大きく見開き、睨むように田中を見た。背丈はすらりとしているが、まだ十一、二歳と見えた。一瞬女の子にも見えるような、中性的な顔立ちだった。
「あの、妹が」
彼は、あっけにとられる田中に向かって、奇妙に落ち着き払ったような、感情を抑えた声で言った。
「妹が、消えました」