昼は堕落(6)
「結局あの犯行声明は文学的に正しいんだろ?」
「そうだよ」
エレベータは壁が透明で、なんだか寄り掛かるのがためらわれた。青は透明でない奥の壁に背を預ける。
「じゃ、なんで初めに間違ってるなんて言ったの?」
「犯人を怒らせるためさ」
「犯人が中学生だと思う根拠も、君は示していないけど」
「うん、根拠は無い。勘だね」
実は、青はリンを疑っていたのだった。大体どんな事件でもまず疑ってしかるべきは第一発見者だ。犯人がエレベータ内に残していった本の残骸を、リンが後からやってきて見つけた、と考えるよりは、リンが自分で持ってきて自分でぶちまけたと考えた方が何となく自然ではないか。紙袋を持ち上げたら中身が散らばった、というリンの言い方が、まず不自然だと青は思った。普通、誰が置いて行ったのか分からない紙袋を見つけたら、持ち上げる前に中身を確かめるはずだ。そうすればあんなふうに紙くずを散らす必要は無かったのだ。青がエレベータに踏み込んだ時リンが後ろから言い訳のように状況を説明したのは、後ろ暗いところがあったからではないのか。本を借りに来たと言うくせに、本を入れる鞄や袋を持ってきていないのも不自然だと思った。そこで、青は昼食を食べながら、「犯行声明が間違っている」「犯人は中学生だ」などのはったりをかけて、リンの反応を見たのだった。しかし、彼は理屈の通らない事を捲し立てる青に戸惑うばかりで、犯人らしい反応はなにひとつ示さない。まさかシャバ生まれシャバ育ちの少年がハナダの元ボスを演技で騙せると言う話もあるまい。リンは犯人ではないのだ、と青は結論した。
「あ、二階で降りるんだったのに」エレベータがフロアを一つ素通りしてしまい、青はボタンを押し間違えた事に気付いた。「あーあーあー、二階が去って行くー!」
「二階に用があったの?」リンは呆れた顔で青を見た。
「だって、破られたあの本、ノンフィクションだったよ。だからちょっと一応二階を調べようと思ってたのに。あーあー」
「階段で降りよう。そのほうが地球に優しいから」
「どうせこのエレベータは乗客がいなければ一階へ行く設定だよ。何が地球に優しいだ」
「どうしてあれがノンフィクションの本だって分かるの?」
「運動方程式の定義が説明されているフィクションがあるんですか? あれは物理の本だったよ。犯人はたぶん物理の教師に恨みを持つ高校生だね」
「さっきと主張が違うようだけど……」
三階に着くと、怒ったような真面目くさった顔をした小太りの少年が乗り込んできた。リンの同級生か何からしく、「おう、マンジ」
「あ、リン。そのひと彼女?」
「腹違いの姉よ」と青はでたらめを言ってエレベータを降りた。
リンは不機嫌になって、「君、二階に行くんじゃなかったの?」
「この歳にもなってエレベータで遊んでると思われるのはしゃくだからね。そういう君こそ、朝からずっとうろついてるくせに、まだ目的の本が見付からないの?」
「借りられちゃってたんだよ。せっかく来たんだし、替わりに別な本を借りようかと……」
落下が始まった。
青はぴたりと足を止めた。手すりの上にぽつりと置き忘れられたハードカバーの分厚い本が一瞬視界に入り、そして一瞬で消えた。落下はまさに二人の目の前で始まったのだ。ばさばさばさっ、と、本を愛するあらゆる人間にとって悪夢としか思えない音が響き渡り、ついでバタンという音と女の子の悲鳴が一緒になって下から飛んできたが、青は他の野次馬のように手すりに飛び付いてその惨状を見下ろそうとはしなかった。青の冷たい観察に集中した目は真実を捕らえていた。床の絨毯と同じ、灰色の毛糸。この糸の先が、本の表紙にテープで貼り付けられていたのだ。落下の勢いでテープは剥がれ、糸の端と本とは手すりから逆方向に遠ざかる。青は考える間もなく走りだしていた。糸だ、糸。犯人は糸を引く事で遠隔操作による落下を成功させたのだ。落下直後、皆が本のほうに気をとられているうちに糸を回収すれば完全犯罪が完成する。毛糸はフロアを横切ってらせん階段へと続き、階段の内側に巻き付きながらずんずん下っている。意外に長い。階段の途中で中学生くらいのボーイッシュな格好をした少女と擦れ違い、あやうくぶつかって突き飛ばしそうになる。相手はぎょっとしていた。糸は続く。だが様子がおかしい。糸が動いていない。犯人が今、糸を回収している最中なら、糸は向こう端からどんどん巻き取られて動いているはずじゃないか。階段を降り切る。糸はまだ続く。床を走り、ガラス戸の下の隙間をくぐり抜けて外へ。そうか、「完全犯罪」である必要はないわけだ。犯人はこのまま糸をほったらかして逃げる気だ。どうせしばらくはみんな本に目を奪われてしまって糸の事には気付かない、気付くころにはとっくに逃げおおせてしまうという魂胆だ。だがそうは行くものか。この俺が目撃者に含まれた時点で犯人の敗北だ。
ガラス戸は、図書館の裏手に広がる緑地へ出るための扉だった。体当たりすると、思ったより軽く開く。柔らかな風が吹き込む。春なのだ。
芽吹いたばかりの芝生の上で、よちよち歩きの子供達が転げ回ってはしゃいでいた。母親達は、楽しそうにベンチに座って眺めている。青はちらっとそれを横目に映して、すぐに糸を追って走り出した。誰かがぽろぽろこぼしていったかのように、糸はどこか頼りなげに砂利の上を這っている。建物の壁に沿って、確実に続いている。しかし青は、それを辿りながら、強い違和感を覚えた。
それは、丁度、夢中になって読んでいた本にふと集中できなくなった時の不快感に似ていた。きちんと文章を辿ってきたはずなのに、なぜか読み残してきた所があるような気分がつきまとい、どうしても消えなくて、ページを逆戻りしたくなる、その時の感覚に似ていた。先に進むべきはずなのに。頭のすみで、誰かがささやく。引き返せ。お前は間違ってる。その糸の先には、誰もいない、何もない。嘘だ。そんなはずは無い。この糸はどこで切れていたわけでも枝分かれしていたわけでもない。一本道なんだ。ただ、もっと速く走らないと、犯人に逃げられてしまうだけで。だから、もっと速く。もっと前へ。後ろだ、と悪魔のような声がしつこく囁く。お前は間違ってる。違う、前だ。なぜ集中できない。集中するな。後ろなんだ。
お前は、通り過ぎたんだから。
――何だって?
建物の角をまわり、糸は途切れた。図書館の脇に設けられた駐輪場の前で、毛糸はぷつりと終わっていた。そして、青は自分の犯した重大な過ちを悟ったのだった。
「もう、何やってるんだろう、この、馬鹿っ」
息を切らしながら、誰に怒鳴るわけにも行かない、自分で自分に吐き捨てるしかなかった。ところが、
「え、すみません」
と、見当違いな返答があったのには驚いた。顔を上げると、沈んだ茜色の浴衣を着た、髪のむちゃくちゃ長い男が立っていた。
赤波柾だった。