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消える流れるすり替わる  作者: 羊毛
3.辿れない糸口
32/81

朝は低迷(3)

 ハナダのボスの座に戻るつもりはない。青が言いに来たのはこれだけだった。


 そもそものきっかけは大介からたまたま「黒猫」の名を聞いた事だった。黒猫と名乗る男が闇町に現われて、一騒ぎやらかしてまたいなくなったのだそうだ。大介は単なる話題として青に聞かせただけだったが、青は戦慄した。それは十六年前に誘拐されたきり消息の途絶えた同志の名だった。大介の話では、彼の言動はかなり特徴的で、青の記憶している「黒猫」と一致している。死んだと思っていたのに。黒猫が、帰ってきた。


 まずい、と思った。青も、他の連中も、黒猫は死んだ、希望はついえた、と思っていた。希望がついえたどころか、その上青は何もかも切り捨てて足を洗い、逃げようとしている所である。決して裏切ったとか不真面目にやってきたとかではないが、投げ出そうとしている事は確かだ。そして、そういう態度の青に対して黒猫がどう思うのか、青には全く予測がつかないのだった。


 彼は何が起こってもたいていふざけたような態度で受け流してしまうのだが、それだけにたまに真剣になった時の迫力が怖い。そして青のしている事は、彼を怒らせるに充分なものだ。それこそ、理屈ではない。言い訳は何とでもつくが、本気で怒った黒猫の前に論理などというこざかしいものが通用するはずがない。殺されるとか殴られるとかそういう類の怖さではなかった。彼に怒られるかも知れないという純粋な事実だけで、青にとっては充分重い。息がつまりそうだ。


 彼が本格的に戻ってくる前に、何か手を打っておく必要がある。大介から「会ってほしい」と誘いが来たのはある意味好都合だった。彼との待ち合わせは昼だったし場所も風波市外だったが、青はわざわざ真夜中の飛行機で夜明け前に入国し、八羽島やはしまを訪ねる事に決めたのだった。この先どうなるかは分からないが、闇町に戻って来ざるを得ない可能性が高い。しかし、ハナダのボスに舞い戻る事はない。一番ありそうなのは黒猫の仲間として昔の同志と結託し直すというシナリオだ。ハナダのような巨大な組織では、いざという時に小回りが利かない。こちらとしては、組織が巨大すぎて身動きが取れないという事態だけは避けたいのだ。少人数の関係者だけで結託したい。青が闇町に戻れば多くの者がハナダの初代ボスが戻って来たと騒ぎ立てるに違いないから、そのつもりはないという事だけは、八羽島に伝えておかなければならなかった。下っ端の者たちが無責任なデマを飛ばすのはいっこうに構わないが、八羽島を始めとする各組織のボス達や重役どもにまで誤解が及ぶのは絶対に避けたかった。青が欲しいのは闇町を牛耳る権力だとか、ビルを所有する財産だとか、そういうものではない、これまでもそうだったし、これからもそうなのだという事を、分かっておいて貰う。ともあれ、八羽島は良く分かってくれた。会見には三十分と掛からなかった。


 北泉は帰りも青に付き添うつもりのようだったが、のんびり闇町の様子を見物して帰りたかったので、青は断った。青のお気に入りは「共同ビル」と呼ばれる一連のビル群だ。第一から第八まであり、どのビルにも数々の弱小組織が事務所を構え、少ない予算の中からどうにか金を出し合って共生している。ゴチャゴチャしていて泥臭くて、住んでいる人間も多種多様、そして、闇町をがんじがらめに縛っている秩序が、ここではほんのわずかに緩んでいる。ここが一番「闇町」の名にふさわしい、豊かでなくてキナ臭くて人間臭い、「無法地帯」だと思うのだ。大介の所属する赤波書房株式会社もここに事務所を持っている。今行けば会えるかも知れない。もちろん、そういう事をしてはいけないのは知っている。大介との付き合いは仕事上のものではない。闇町で彼とバッタリ出会っても、口をきくことはできない。会うのは今日の昼、闇町での地位と身分からすっかり解放された場所でだ。


 青はにやにやした。


 大介の事を考えると、いつもにやにやしたくなる。気持ちが緩む。思考が歪む。それが、彼女の、命取りになる。青は自身それを自覚している。しかし自覚したからと言ってそれが何かの足しに、失敗の防止に、打撃の緩衝に、なるとは限らなかった。


「絵馬さん」

 擦れ違ったのは、偶然だった。大介と会うといけないので、青は彼の住まう共同第八ビルを迂回するために角を曲がった所だった。たまたま何処かへ行く途中か、あるいは帰りだったのだろう、金髪の男と擦れ違った。

 そいつは赤波書房の副長で、黒猫の同志の一人であるきし実生みしょうだった。いきなり本名で呼ばれたので青はぎょっとして立ちすくんだ。

「何、岸」

「聞きましたか?」岸は嬉しそうに目を細めて、何を考えているのか知れない山吹色の目で青を見下ろした。「黒猫議長、生きてたんですよ」

「ええ、聞きました」

「いよいよ、と言った所ですかね。絵馬さん、ハナダをやめたって伺いましたけど」

「ええ」

「戻られるんでしょう?」

「ハナダには戻りませんけど」青は慎重に答えた。「その必要があれば、それなりに」

「うちの大将、よろしく頼みますね」岸は青の返事なんか初めから聞く気がなかった調子で言った。そう言えばこいつは会話がしょっちゅう飛ぶ奴だったと思いながら、

「大将? まさめさんですか?」

「ええ、今日、会っていただけるんでしたよね?」岸の笑顔は無邪気だった。

「ええ?」と青は聞き返した。話が飲み込めなかった。「私が? 柾さんとですか?」

「ええ。あれ? そういう話じゃなかったんですか?」

「それは――」青の中で、かちっと思考が繋がる。会う。大介と。柾と。黒猫の生還。嬉しそうな岸。タイミング的にも、彼の性格から考えても、デートであるはずがなかった。

「……っと? もしかして僕の思い違いですか? うちの大将朝から張り切ってるんで、てっきり……」

「いえ」青は短く言った。「たぶんそういう話だと思います。思い違いしていたのは私でした」

「はあ。……なんだかお嫌そうですね。それとも具合が悪いの?」

「あ、うん。具合が悪くなりたくなってきた」

「はい?」

「いや、岸さん。確かに承りました。柾さんの事は大いに尊重したいと思いますよ。ええ」

「お願いしますね。大将は今朝も微熱がありまして、僕は早朝から呼び出されてしまいました……午後までにはどうにか解熱鎮痛剤で押さえ込んで……」

「ええ、ええ、柾さんの病弱はかねがね伺っております」

「妖自連、再結成ですかね」岸の話はまた飛んだ。

「黒猫さんがそうおっしゃったの?」

「いーえ。僕の希望的観測です。絵馬はどうするつもり? ハナダには戻らないんなら、やっぱりこっちに?」

「さあ。黒猫さんがそれ以前に私を生かしておいてくれるといいんですが……」

「ええ、まさか」岸は声を立てて笑った。「仲間でしょ? ミツメのこと気にしてる?」

「いや、それもあるけど、なんか議長には、こっぴどく叱られそう……岸さん、会う機会があったら、私のこと許してくれるように説得して下さい」

「うーん……そっか……君、ラーメン屋と駆け落ちしたって聞いたけど……」岸はまた目を細めた。

「はあ。その通りなんです」

「議長、そんな事で怒るかなあ。まあいいよ。もし会ったら言っとく。じゃね」


 じゃね、と言われても返事のしようがないので、青は笑顔で挨拶の代わりにした。岸も微笑み返して、その背中はどんどん小さくなる。何しろ足が長い。手も長い。あいつはあの体型自体が一種の奇形だろう。しかし概して奇形とは人より劣っていて醜い事を言うんだろうな。彼の体型は人と違うけれど、人より美しいから、奇形じゃない。「一種の奇形」だ。


 それ以上岸実生について考える事がなくなったので、青は溜め息をついた。溜め息は体にいい。かも知れない。しかし役に立たない。今度浮かんできた大介は、横顔だった。大きな黒い瞳。長すぎてうざったそうな前髪。ビデオに撮った映像を一時停止させたような、鮮明な横顔だった。次に何が起こるのか分かる。今にも彼は隣に立つ柾を見上げて、その浴衣の袖を掴んで微笑もうとしているのだ。この横顔は、その直前だ。何度か見た景色の記憶が、一つに合成されてできた、イメージ画像だ。畜生。あの野郎。いつか必ず俺の手で殺してやりたい。その時彼が何を言うのか耳に聞こえるようだ。「俺は柾に殺されたかったのに」。言う。絶対言う。変態、ファザコン、地獄に堕ちろ。


 念頭に入れておくべきだった。大介が愛しているのは父である柾であって、断じて青ではないのだ。先日急に彼が青に興味を示し始めたのは、柾が風邪で休暇を取った時だった。あいつの人生は柾を中心に回っている。知っていたのに。


 大介は青を目的を伏せて呼び出したのだ。初めから柾に会わせるためだと言えば青が拒否するだろうと予測して。会いたいと言って誘えば、それだけで青が舞い上がって、他の事を考えられなくなってしまうのも、彼の計算の内だった。嵌められた。遊ばれた。


 帰りたくなった。継優つぐひろの所へ帰りたい。少なくともあの兄貴は青を道具にして使ったりしない。青を傷付けるような事は何一つしない。いつも青が大介と電話していると言って、ちょっとつまらなそうな顔をしている。もしかしたら、嫉妬してるのかも、「好き」じゃなくたって嫉妬する事はあるよな。帰りたいなあ、兄貴。


 ああ、もう、嫌だな……。


 私はなんであんな変態に目を付けてしまったんだろう。せめて柾さんにしておけば良かった。彼にはまだ、余裕と愛嬌があるもんな。息子命であることに変わりはないとしても、息子の気を引くために青をおもちゃにするほど追い詰められてはいない。ちゃんと周りが見えている。大人だからな。告白したって怒らないだろうし、迷惑がるにしてももっと紳士的なはずだ。顔だって断然男前だし。何しろリンの親戚だぜ。ああ、終わってる。終わり切ってるよ。なーにが「だぜ」だ。死にたい。いや嘘だ。死にたいなんて思っていない。だけど消えたい。もう嫌だ。自分が嫌。情けない、かっこ悪い、消えてしまえ。


 生まれ変わるというのはどうだろう。今すぐ死んで別なものに生まれ変わるというのは。人間はもう沢山だ。インフルエンザウイルスになって大介の内臓を食い荒らして取り殺すというのはどうだろう。いや、あいつインフルエンザじゃ死なないな……肺炎かな。胃癌かな。もう、いい加減に大介の事を忘れないか。生まれ変わるんならせめてもう少し大きい、ルーペがなくても見えるくらいの生物にならないか。虫がいいな。カブト虫。植物でもいい。寿命が長いのは嫌だ。確実に一年で死ねる植物というと、朝顔あたりか……。


 哀しかった。青は哀しかった。他人が聞いたら吹き出すような事を頭の中で考えているにしても、その実、哀しくなっていたのだ。


 闇町を出た。風波駅に着いた。電車に乗った。「旅に出ます」と顔に書いてあるような楽しそうな家族連れを見て胸が悪くなる。電車を降りる。乗り換える。降りる。約束の場所。約束の時間は二時間半後。素通りする。泣きたくなってきた。


 バスプールを回り、列に並ぶ。ラッシュアワーだが、青の行く方向は皆と逆なので、すいていた。バスに乗り、小さな座席に身を納めると、ようやくほっとした。


 窓の外に流れる景色を見て、そうか、春なのだ、と気付く。


 春なのだ。緑が来ている。花が来ている。日は高く昇り、バスの内側に斜めに差し込んでくる。俺の心の暗い内側にもこういうふうに窓が付いているといいんだが。どうでもいい、感傷だけれど。何に対してか。過去か、現在か。未来か?

 何処へ行くんだろうと思う。時々というより、いつも、感じている。自分という奴は何処へ行くんだろう。たぶん、前へ進んで行くんだろう。ちょっと霧がかかっていて、よく見えない前へ。分からない、なんだかよく見えない。言葉で説明して誰かと共有できたらいいのに、この不安は。上手く、説明できない。

 説明できない。説明できない事ばかりだ。大事な事ほど、人には分かってもらえない。当てはまる言葉がない。探しても探しても、見付からない。


 ところで、本当に何処へ行くんだろう。


「桜城子ども図書館前」

と、車内アナウンスが告げた。そうそう。図書館だった。大介と、十一時に三番駅で待ち合わせて、この図書館へ来る予定だったのだ。教えたつもりはなかったのだが、大介は青が本好きなのを知っていたらしい。それでなきゃ、大介も本が好きなのか、それも違うなら、柾が本好きなんだろう。とかく彼が青を誘ったのはここだった。青は降車ボタンを押して立ち上がった。


 大介との約束を、この時点で青はすっぽかすつもりだった。すっぽかしといて予定の場所へ行くというのも変な話だが、他に行く場所がないのだ。青が人生に行き詰まったとき閉じこもるのは、いつの時代でも、本屋か図書館だ。大介が提案した場所が映画館だったとしても、青はやはり図書館に逃げただろう。つまり、今回は彼の提案と青の逃げ場がたまたま一致しただけの事だ。


 そう思ってから、逃げるつもりなら、首都近辺の別な図書館に行くという手もあったと思い当たる。何か、自分のやっている事、おかしくないか。また思考が歪んでいるんじゃないか。しかしバスは青を降ろして走り去る。もう、なんだっていいや。早く逃げ込みたい。帰りたい。


 のどかな風の吹く道路を横切って、青はバス停向かいのしゃれた建物へ足を進める。いいかい、大事な事というものはこの世に四つしかない。すなわち食べる、眠る、泣く、逃げる、だ。


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