消える(2)
「わがまま勝手を許して下さい。私は土のある所へ行きます。北泉さんに全権を委任します。グッバイ。――青」
「なんの冗談だ」
獣が唸るような声で、八羽島が言った。
「誰かを笑わせるつもりだったのか。あいにくだが俺はこんなもので笑えるほど機嫌が良くねえんだ。悪気が無かったんなら今すぐそこに手をついて取り消しますと言え!」
北泉は黙って同僚を見詰め返していた。彫りの深い八羽島と違って、北泉は感情の起伏が顔に出にくい質だった。その所為で、超然としていると思われたり、いきがって斜に構えていると思われたり、得体の知れぬ男と思われたりするのだった。だが、北泉にだって感情の起伏はある。今、彼は抑えがたい焦りと苛立ちを感じていた。それなのに、八羽島は相手が拗ねてだんまりを決め込んでいるのだと思い込み、ますます声を張り上げるのだった。
「やり方がきたねえんだよ。お前はよ。せこいんだよ。こんな物」八羽島はその紙切れをぱっと掴んで握り潰した。
「おい、やめろ」北泉はその手に飛び付こうとした。
「うるさいっ」八羽島がさっと手を振ったので、その甲が北泉の目頭に当たった。くしゃくしゃになった紙は事務室の隅に飛んで行った。
他の者達はしんとなってこの遣り取りを凝視していた。決して広くはないこの事務室が、今はハナダ出版社の重役社員達でほぼ一杯になっている。特に八羽島と北泉は、常日頃から社長であるハナダ青の一番そばで働いており、副社長とも言える立場にあった。だからこその、この遣り取りである。
「同じ事を何度も言わせるな」北泉は初めて声を荒げた。「これは社長の筆跡だ。社長はもう戻って来る気は無い。何故だか知らないが後任にお前でなく俺を指名して、去った。それだけだ」
「それだけだ?」八羽島は目を剥いた。それからぐるりと周囲の人間を見回した。「これだけの連中をアゴで使って、ハナダの社長名乗って、闇町を裏からも表からも牛耳って、史上最年少のヤクザのボスと持てはやされ! 何処の国のお姫様よりも我儘一杯し放題でふんぞり返ってた十五歳の女の子が! 書置き一つ残して消え失せた! それだけか! 何がそれだけか!」
「既に手の届く範囲を徹底的に探した」北泉は努めて落ち着こうとして言った。「何処にもいない。おそらく今日の昼前にはもう闇町を出ていたんだろう。俺たちはもう三時間も探し回った。でも何処にもいない。ようやく、社長はもう戻って来ないと諦めもつき始めた所だ。それなのに、お前という奴は今頃になってノコノコやって来て、この書置きが俺の冗談だとか言いがかりを付ける」
「口を閉じろ、お喋り鳥野郎」八羽島はがしりと北泉の胸倉を掴んで顔を近付けた。「ピーチクパーチク言ってんじゃねえ。社長は確かにもういない。こないだ土が恋しいとかなんとか言ってたもんな。信じがたい話だが、信じてやってもいい。だけど、あの紙切れは断じて認めない。あれはお前の悪戯書きだ。俺は認めないぞ。お前に都合のいい事が書いてあるんだからな」
「社長の座が欲しいのか」
「そんなものじゃねえよ」八羽島は掴んでいた手をぱっと放して、吐き捨てた。「社長の座? 最上階の寝室? そんなもの欲しがる奴はこんなとこ来ねえよ。俺はただ信じられねえんだ。お前のようなよこしまな奴が、この俺よりも社長に気に入られてたって事がよ。あの誰よりも冷静で沈着な青さまが、最後の最後に見誤ったって事がよ。真面目一本気に社員として付き合ってきたこの俺より、あいつの体つき眺めて鼻の下伸ばしてたてめえの方に信頼を置いてたって事がなあ、この、ロリコン野郎が」
北泉は殴りかかろうとした。だが、それより先に周りの者達が、あまりに言葉の過ぎる八羽島を宥めにかかった。八羽島は毛を逆立てた犬みたいに何か喚いて、周りの者の手を払った。その姿を見ると北泉はもう嫌気が差して、さっと背を向けた。皆が北泉を見詰めていたが、その視線を無視して彼は歩き出した。真っ直ぐ前を見たまま、よく通る声ではっきりと、
「今日やるべきことだけ片しといてくれ。今後の事は明日になってからだ」
と告げた。皆の反応を待たずに彼は廊下へ出て、丁度来ていたエレベータに乗り込んだ。ボタンを押して扉を閉めたが、エレベータはきょとんとして止まっている。行き先が定まっていないのだ。北泉は深く考えもせず、一階のボタンを押した。何処までも、堕ちて行ってしまいたい気分だった。