了
「柾か」祖父は一瞬間を置いてから言った。そして急に笑い出した。肩幅の広い逞しい老人だった。「随分突然じゃねえか。びっくりさせんな、おめえ」
「そうすべきだと、思ったんで」柾はぼそぼそと、しかし挑むような光を湛えた目で言った。「戻るべきだと、思ったので。急に」
「道草も道のうち。いや、大きくなっちまったな」祖父は柾を抱こうとして、その背に隠れていた俺を見つけた。「おおなんだよ、おめえも生きとったんかいな」
俺は黙っていた。祖父の事なんかもうよく覚えていないのだ。彼が俺にどんな応対を期待しているのか見当も付かなかった。俺が無言なのを見ると祖父はまたあっはっはと笑って俺たちを急き立てて小屋に上がらせた。
丸太組みの壁と屋根と薪のはぜる暖炉、壁にかかる様々な狩の道具、円形の毛皮の敷物。どれも見慣れない物ばかりだった。隣で柾は一人懐かしげな様子をしているのでそれが悔しかった。祖父は敷物の上に柾と俺を座らせてお茶を淹れた。湯飲みで紅茶を飲むのは妙な気分だった。殆ど会話というものは無かった。今も闇町かと祖父が聞いたのに対して柾はこっくり頷いて、それだけだった。俺は薪のはぜる音に耳を傾けていた。そしてぼんやりと敷物を眺めていた。熊皮のようだった。何か思い出せたらいいのにと思った。
「大介」祖父が不意に言った。やっぱり、それが俺の名前なのかと思った。なんだか違うような気がしていたんだが。
「もう、笛はできないのか」と祖父は聞いた。
「できる」と俺は言った。
「俺のやった笛はどうした?」
「持ってる」俺はいつも右足の脹脛の脇に入れている竹笛を引き抜いた。これを入れておけるように俺のズボンにはどれも右の脹脛の脇に笛が丁度入る大きさの外ポケットが付いている。
「吹いてみろよ」祖父が言った。
そこで俺は笛を横に構え口に当てた。いつもやるように思いついた順に、指の向くままに一つ一つ音を並べていった。俺の吹くのは曲ではない、ただ何の縛りも流れも無い笛の音なのだ。俺はそういう吹き方を祖父に教わった。吹くうちに、いつものように、雪の夜の景色が浮かんだ。闇を呑み込んだような、どす黒い森とその入り口。俺はある夜そちらへ向かって歩いて行ったのだ。祖父は湯飲みを足元に降ろしたまま真剣な目で俺を見ている。柾は何処とも知れぬ虚空に目を向けて、疲れ切って空っぽになったような顔をしていた。俺は構わないで吹いた。雪の中ときおり、背中をどうと押すような風を受けながら、森の奥へ奥へと足跡を辿った。雪に足を取られ息は切れ、目は眩んだ。何度も倒れ伏して眠りたかった。だけど足跡は永遠に続くようだった。俺は必死で辿った。東の方が明るくなるころ俺は漸く柾に追い付く。あの時もこんな顔をしていた、柾。空っぽで、打ちひしがれて。闇町に来てからも、何度もこんな顔を見せては立ち止まった。俺はその度に途方に暮れた。どうすればこいつに力を取り戻させてやれるのか、分からなかった。自分は無力だと感じた。何も変える事が、できないのだ。その時、悲しくて、恐ろしかった。生きる事がひどく重く、明日を迎えるのが躊躇われるほど心細かった。俺は何処を歩いて来たのだろう。闇の中を歩いて来たのだとしたら、多分まだそこにいる。光が欲しいとは思わない、ただ、先の闇へ進んで行けるだけの力が欲しいのだ。限りの無い力が。いつか、何処かへ行こうと思った。いつか、空の向こうまで飛んで行きたいと願った。無邪気な幼い心に、俺は大きな望みを一杯詰め込んでいた。その時を、今、俺は思い出す事ができる。自分の内側を覗き込んだ時に、子供の頃の俺がまだそこに住んでいるのを、見つける事ができる。忘れ去って、失ってしまったと思ったものも、俺の内側に俺の一部として、連々と積み重なっている、それを感じられる。光が降って来る。力が降って来る。閉ざされたはずの谷底に、見えないはずの空から。それはいつも、何処かから、ひとひらの雪のように降って来るのだ。
俺は吹くのを止めて立った。壁に掛かった物入れの中に白い柔らかな塊を見つけた。俺はそれを急いで手に取った。こんなに小さかったかと思う。こんなに薄汚れてみすぼらしかったかと思う。だけどメロンだった。タオル生地でできて、赤いボタンの目が付いた、やたらにひょろひょろしたうさぎの縫いぐるみ。
「それ覚えてるか?」祖父が俺の背中に言った。「メロンて呼んでたんだぞ。どこ行くのにも持ち歩いてたのに、肝心の遠出の時に忘れてくんだもんな、呆れたよ」
「忘れたんじゃない」俺は何もかもすっかり思い出した。「俺のいない間、留守を任せるつもりで――わざと置いて行ったんだ。――柾が出て行った時に、もう二度と戻れないかも知れないと思ったから、メロンを残して行ったんだ」
「おい大介」柾が言った。「それメロンて名前を付けたのは、この俺なんだぞ」
「知るかそんな事」
俺は昔やったとおりにメロンを抱き締めた。その時初めて、泣いてもいいと思った。
(「メロンの楽園」・終)




