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消える流れるすり替わる  作者: 羊毛
2.メロンの楽園
24/81

日曜日――白(3)

「憧れていた人がいた」

 発作が終わるとまさめはベッドに起き上がって、憔悴したように座っていたが、急にぽつりと言った。


「うーん……」岸は床に座って柾の枕元に、頬杖をついたままウトウトしていた。「何? 誰だって?」


 部屋は真っ暗だ。


「何でもないよ」柾の声は静まった部屋にもの寂しく響いた。「岸。もう寝たら」


「疲れてません」岸は目を開けた。


「そう?」柾は何か言いたげに岸の方を見たが、少し考えてから、「なら、散歩に行って来れば」


「出て行けと言わんばかりですね」


「俺の面倒ばかりじゃうんざりするだろう」


「そうでもありません」岸は柔らかく言った。「この頃は慣れましたから」


「慣れた? 何に?」


 岸は遮るように、「憧れの先輩の話でしょ?」


 柾は溜め息をついた。「先輩じゃないよ。学校が違った」


「柾さん、学校なんか行ってたんだ」


「そりゃ、一応シャバの人間でしたから……」


「一応、ね」


「部活が同じだったから」柾は疲れた声で続けた。


「なるほど、部活がね」


「学校が違ったけど、交流会なんかで見掛けるんだ……かっこ良かったな」


 岸は手を伸ばして、枕元の明かりを一つ点けた。突然広がった光に、二人は目を細める。


「その人柾さんの、初恋の人?」


「男だよ。二つ上で……いろんな賞取って、全国でも指折りの実力だった」


「待って、柾さん。それ、何の話?」岸はくすくす笑った。


「さっきから同じ話をしとるはずだがな」


「だから、何の部活です? バスケ? サッカー?」


「笑うから言わない」


「笑う? 男子新体操とか?」


「全然、違う」


「合唱とか?」


「ちょっと違う」


「合唱の方がちょっと近いんだ」


「そういう人がいて」柾は強引に戻した。「まあ、いたんだよ」


「それからどうなったの?」


「話しかけた」


「ふーん。なんて?」


「『雨陰さんみたいになりたいです』――雨陰っていう奴なんだ」


「青春だね」


「向こうも悪い気はしなかったんだろう。それからは目をかけて可愛がってくれてさ。いろいろ手ほどきを受けたよ。ただ嬉しくて。今思うと、まるで初恋だった。夢を見てた。自分で勝手にあの人を美化して、妄想してたんだ。現実との区別が付けられなかった」


「誰しもそういうものでしょう」岸は割と真面目に言った。


「だとしたら、俺は運が悪かったんだろうな。雨陰は――薬をやってた」


「麻薬?」


「ああ。当時の最新型のを。学校では普通の生徒をやってて、裏では闇町に出入りして不良と付き合ってた。雨陰に連れられて初めて闇町に行ったんだ。本当はその時に目を覚まして手を切るべきだった。でも、憧れだったから。絶対だと思ってた。親や兄貴達が何と言ったって耳に入らなかった。雨陰は俺に、何もさせなかったんだ。あいつは自分の後を付いて来る子分ができたのが嬉しくて、浮かれて俺を連れ回しただけだった。本当に、俺を可愛がってくれたんだよ。周りが見えなくなったよ。あいつが俺に何か悪い事をさせようとしたら、俺だって馬鹿じゃない、彼と手を切ったと思う。でも違うんだ、ただ連れ回して、闇町の友達に引き合わせて、俺にはこんな可愛い弟分がいるんだって馬鹿みたいに自慢して歩いたんだ」


「無邪気な方だったんですね」と岸は言った。


「無邪気? そうかもしれない。変わり者だった」


「貴方も無邪気でしたね」岸は穏やかな声で重ねた。「闇町でなかったら、良かったのに」


「そうだな」柾は機械的に言った。


「柾さんもその方も、幸せでしたね」


「まさか。冗談じゃない」


「掛け替えのない思い出じゃないですか。違う?一生に一度、その時期だけですよ。同性に憧れを感じるのは」


「雨陰は死んだよ。俺の目の前で」


「そう。薬の所為で?」


「体がボロボロだよ。見てられない」胸が締め付けられるように感じて柾は、布団を肩まで引き上げた。


「辛かった?」


「怖かった」後ろに倒れ込むように横になり、それから柾は壁の方を向く。「怖かった。自分もあんな風に、死ぬんだと思った。――怖かった」


「今でも?」


「――そうかな……」柾は涙が布団に吸い取られて行くのに任せていた。「……何も怖くないよ、今は。怖いのは、死ぬ事なんかじゃない――」


「自分が失われて行く事だ」岸は低く言った。「得体の知れないものに、変わって行く自分が一番恐ろしい」


「雨陰は死んで」柾は物語の頁を繰って行くように、思い出をなぞった。「俺は何処かへ逃げようと思った。闇町を出て、家に帰れば良かったのに、そうしなかった。逃げ出した。そしたらなんか知らんけど追っ手が」


「それが『日本』の?」


「そう。雨陰がやった薬――ミナっていうんだが――開発に日本政府が関わったそうだ。俺が妙な動きをするんで、ミナの秘密を何か掴んだんじゃないかと勘繰ったんだな。馬鹿な事を……俺が馬鹿だった。あんな事をするから――そして逃げたりするから。追っ手に気付いてからも、おとなしく捕まっときゃそれで済んだのに、何を思ったか密航を」


「やっぱり本当にしたんですか」


「何だ、やっぱりって」


「柾さんの噂って闇町のあちこちで流れてるから。どこからどこまで本当なんだか分かりませんけど、一番遠い所ではブラジルまで高飛びしたって聞きましたよ」


「ブラジル? 記憶に無いな」


「でしょうねえ」


「日本に渡ったんだ。追っ手は誰だか分からなかったが、プロだと思った。絶対に殺されると思ったから、誰にも迷惑かけたくないから風波を出た。日本で死ぬつもりだった。船に潜って渡って、山に分け入って。冬だった。すごい吹雪の日で、な。そのまま雪ん中に倒れて死んだつもりでいた。でも目が覚めたら小屋にいて、おっそろしく気難しそうな不親切そうなジイさんがな、『お前、せっかく野たれ死のうとしてるのを邪魔して悪いが、玄関前に死体が転がってると俺が迷惑するんだ』と。彼は孫と二人で暮らしていて、その孫が大介だ」


 柾はぷつりと言葉を切った。暫く、壁の中でうなる暖房の機械音だけが部屋に満ちていた。


 岸が唐突に言った。「そのおじいさん、外科医だったでしょ?」


 柾は答える替わりに寝返りを打って、岸を見上げた。


「そうでないと説明が付かないのですよ。霞や瀬川は元来医師だから分かるとしても、貴方や大介さんが死体の処理を行えるのが何故なのか。貴方がそのおじいさんから教えを受け、それをまた大介さんに教えたのです」


「逆だよ。俺が大介に敵うもんか。何もかも手取り足取り、師匠に教わって、大介に教わって、やっと起き上がれるようになって……このまま師匠の息子になろうと思ってた。でも、追っ手が……岸。散歩に行って来ていいんだぞ」


「何故?」


「俺の話なんかつまらないだろう」


「いいえ。聞かせて下さい」岸は体の向きを変え、ベッドの縁に背中を預けた。「さあ、話して」


「お前が話せよ。俺は腹が痛い……」


「本当ですか? 薬いりますか?」


「いや……なんとかなるだろ。何か話せ気が紛れるから」


「僕が思うに」岸はすぐに喋り出した。「時間が経つという事だけが、生きる者に与えられた唯一の救いです。どんな事があっても、長く生きていれば、そのうち立ち直れる。経験論だけどね……。怖い事も、悲しい事も、怒りが止まらなくなった事も、そのうち忘れてしまえる。その時は受け入れられないと思っても、長い間忘れていて、そのうちふと思い出した時、大した事でもない、そして、愛しい思い出の一つに変わってしまうんだよ。辛い思い出は辛いなりに、それでも替える事のできない、自分自身の一部だと認められるようになるんだ。それが……許しだよ」


「お前に話を頼んだ俺が阿呆やった」柾は痛みに呻くように言った。


「どうも気に入って貰えなかった」


「お前の話は楽しくない。聞いてると具合が悪くなる」


「ではやはり、柾さんがさっきの続きをお話し下さい」


「腹痛い……」柾は布団の中で体を折った。「本気で痛い……」


 岸は振り返った。「力を抜いて。楽にして。今、薬を持って来ますね」


「嫌だ。金がかかるんだよ薬は」


「ケチってる場合ですか。非常事態でしょうが」


「俺の人生つねに非常事態なんだ」痛みが引き始めたので柾は弱く息を吐き出した。「死んだ方がマシだ」


「死なないで」岸は芝居がかって柾の頭に手を乗せ、顔を覗き込んだ。


「辛い……」柾は顔半分を枕に埋めたまま目を細めた。「痛い。苦しい。死にたい」


「――そして、寂しいね」


「今日の苦しみの、為に――」柾は細くぼそぼそと呟いた。


「何?」


「――生き。明日の絶望の為に眠れ――」


「ええ? ――そうか、師匠さんの言葉?」


「そう」


「いい人ですね、師匠さん。その人が、大介さんのおじいさんなんだ」


「ああ。いい人だった」


「だった?」


「いや、まだ死んでない、はずだけど」


「はず? 連絡取ってないの?」


 柾は黙って目を閉じた。


 岸はその額に冷たい手を触れて、じっと顔色を見た。次に目を開けたとき岸の顔が目の前にあったので、柾はぎょっとして飛び退いた。


「うわっ」と岸の方が驚いた。「どうしたんですか急に飛び起きたりして。治ったんですか?」


「何なんだよお前は! 離れろド変態!」


「僕は別に、なんにも……」


「貴様さっきから俺をからかってるだろう」


「あ、バレた」


「何がバレただ。給料減らすぞ」


「マイナスなのに」


「お前だけ倍にしてやる」


「おお、すごい。減ってる!」


 柾はようやく気分が良くなってきて、起き上がって岸を押しのけ、水を飲みに行った。その背中に岸は言った。


「柾さん、話が途中でしたよ」


「何の話?」


「師匠さんと暮らしていたら追っ手が来たところからです」


「あー?」柾はうがいをして流しに水を吐き出した。「空耳だろ」


「話してよう」岸は立ち上がって、眠そうに伸びをすると、柾の隣にやってきた。


 柾は少しぼんやりした感じで突っ立っていた。


「柾さんの足は」岸はいたずらっぽい目で柾の横顔を見た。「お師匠さんが手術なさったんでしょう?」


「悪い、何の話だ?」


「僕の目を誤魔化せてたつもりでしたか? 右足が不自由なのは本当は貴方で、大介さんは貴方を庇う為の目眩ましなんでしょう?」


「そうだったんか?」柾はちょっと不思議そうに言って、考え込んだ。「……まあそうなんかな。結果的にそうなってるんなら。なんか……山奥で倒れて死んだつもりでいたら、目が覚めたとき山小屋にいて、右足の先は無くなってて、性格悪そうなジジイが、『凍傷になってたから切り落としたから……ああ、ところでおめえ誰だよ。あそう、口きけないのかしょうがない。本当にしょうがない奴だ。おめえみたいなの親元に送り返しても親御さんが迷惑だな。俺も俺で大変迷惑だが俺の弟子になるか? こっちは俺の孫で一番弟子の大介だぞ。兄弟子なんだからお前はちゃんとこいつの言う事聞くんだぞ分かったか』」


 岸は流し台に体をもたれて、柾とは反対の方向を向いたまま、黙っていた。


「願掛けみたいなつもりだったのかな……俺が歩けるようになるにつれて、あいつは痛くもない足を引きずりだした。いくら言っても、止めようとしないんだから。自己暗示みたいなもんか? 俺にはさっぱり分からない。どうしようもない」


「そのどうしようもなさに、貴方は救われるわけだ」


「意味分かんねえよ」


「僕にも分からない」


「お前が思ってるようなのとは違う。言葉では何とでも美しく言えるんだ……小さな村だったよ。山の奥の。毎日、薪を作って、火を焚いて、屋根の雪を降ろして、森で狩をして。そういう生活。師匠が、村の長老みたいな役どころで。何でも知ってたよ。外科医でもあるし、獣医でもあるし、内科も兼ねるし、作物の事も狩の事も、村で暮らすぶんには困らないだけの事をみんな知っていた。師匠を中心に、その村は自分達だけで上手く暮らしてた。不思議な村だったな……ずっとあそこに居たかった」


「そう。……それで?」


「追っ手が来た。村の皆を巻き込むわけに行かなかったから、夜中のうちにこっそり小屋を出て、森の中に逃げた。死ぬつもりだったな、今度こそ。できれば生き延びたいとも思ってたけど、森で待ち伏せされて、腕をぶち抜かれた」


 生まれて初めて、弾丸を身に受けた。痛みより先にパニックが押し寄せて、夢中で雪の中を走った。おそらく相手は「動くな」と言ったのだろうが、耳に入らなかった。踏み固められていない雪に腰まで埋まりながら、力任せに逃げた。それは、敵にとっては誤算だった。彼らは雪山に慣れていなかったのだ。若さと身軽さの限りを尽くして逃げる少年を、ついに追い詰める事ができなかった。柾は泣きじゃくって夜を明かした。そこへ、大介がやって来た。


「あんな馬鹿は見た事が無い。俺が夜中にベッドを抜け出した時、目を覚ましてたんだ。師匠にも知らせないで、一人で追っ掛けて来たんだ。もう、どうしようもない。小屋に戻ろうとすれば途中で殺されるのは目に見えてる。大介を連れて山を降りた。海を渡って闇町に逃げ込んだ――そんなところ」


「そう。そうか」岸は部屋の向こうを眺めたまま、言った。「なんだか、よくできた作り話にも聞こえるね」


「どうして」


「不自然なところが一つも無いから。柾さん、何処か端折ってない?」


「一部始終あまさず話さなきゃならんのか?」


「ううん……でも、いつか話してね」


「なんで?」


「別に……もし話したくなったら、話しても構わないっていう意味ですよ」


「だから、なんで?」柾は振り返って、睨むように岸を見た。「あんたさ、入社して来た時からずっと思ってたけど、なんで俺に構いたがる?」


「好きだから。それじゃ駄目?」


「真面目に聞いてんだよ」


「だから、真面目な話。貴方が、僕の憧れの人だから。ねえ、手芸部だったでしょう」


 柾は言葉に詰まったように黙り込んだ。


「火の鳥の刺繍でなんとか大賞を取って、雑誌に載ったでしょう」


「……一体何者だてめえ。何時から俺を知ってる?」


「十五年前ですかねえ……たまたま買った雑誌の、たまたま開いたページに、貴方の作品を見かけた。あの色が忘れられなくてね。闇町に出入りするようになった時、すぐに貴方だって分かったんですよ」


「それこそ取って付けたような話だな」


「でも、本当なんだもの。つまり、柾さんの話が本当なのと同じくらいには」


「それじゃ、ほとんど当てにならんという事だ」柾はふらふらした足取りで自分のベッドに戻ると、素早く布団に潜り込んだ。


「何にせよ」岸は歩み寄って来て、枕元の明かりを消した。部屋は暗闇になる。「柾さんがこうして立ち直ってくれて、僕は幸いですよ」


「立ち直ってねえ。明日死んでやる」


「明日は僕と更紗のラヴストーリーをとくとお聞かせしますから」


「聞くか、そんなもの」


「柾さん。僕、散歩に行ってきますね」


「そうですかそうですか。ご勝手に」

 柾は寝返りを打って枕に顔を埋め、目を閉じる。


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