日曜日――白(2)
何もかも、柾が悪い。
柾の所為で全て台無しになった。俺は家も家族も右足の爪先も、大好きだった縫いぐるみもなくしてしまった。あいつの所為で。なのにあいつは何だ、のうのうと五体満足で生きていやがる――風邪をひいたと言えばあの変態副長に心ゆくまでちやほやされ、機嫌が悪いと言っては腹いせに俺を殴り。やりたい放題の至れり尽くせりだ。あいつの望んだ事で叶わなかった事が一つでもあるか、それに引き換え俺の望んだ事で叶った事が一つでもあるか。あの疫病神、死ねとは言わないから俺の人生から消えてくれ。でなきゃ俺の被った被害を全て償ってくれ。それもできないと言うんならせめて返してくれ。俺の故郷を。俺が、覚えているはずの故郷の、思い出のひとかけらで構わない、お前が奪ったんだからお前が返してくれるべきだろう。俺は六歳の時に当時十六歳だった赤波柾に誘拐されてここに来た。それ以前の事は何も思い出せない。柾が俺に思い出させないようにしたからだ。柾は俺の両親の悪口を恐ろしく念入りに俺の耳に吹き込んで俺の記憶を架空のものとすり替えた。俺は柾に欺かれて自分の故郷を忌まわしい場所と思うようになった。そうして物事が分かるようになって、柾の嘘を見抜けるようになった頃には、もう本当の故郷の様子を何一つ思い出せなくなっていた。返せ。俺を何だと思っていやがる赤波柾。呪い殺してやろうか。
笛を吹く。笛を吹く時だけ、雪に閉ざされた山での暮らしがおぼろげに見える。俺はこの笛を祖父から譲り受けた。俺に才能があると言ってそれは熱心に手ほどきしてくれた。多分そうだった。何もかも吹雪の雪煙の向こうにあるようだ。微かに見えたかと思うと次の瞬間には見えなくなっている。荒れ狂う嵐が不意に一息つく、その瞬間だけ夢のように思い出の影が映る。深い山奥。下界の街から切り離された村。祖父との質素な暮らし。丸太の小屋で小さな火を焚き、晴れ間を見ては森に分け入って狩をした。夜の森は本物の闇だ。或る夜俺は小屋の戸を押して出て行く。たった一人で雪の中、もう二度と戻る事の無い黄色い明かりを何度も振り返りながら。あんな夜中に、何処へ行こうとしていたのだろう。それともこれはただ昔見た夢の記憶に過ぎないのだろうか。冷たい風が背中をどうと押した、あの感触は体の中に刻まれて、俺は今でもはっきりとその風を感じる事ができる。それでも、あれは夢だったのだろうか。もしそうだとしたら、何故こんなにも、鮮やかに浮かんで来るのだろう。
ふと思い付いてテープ録音機を引っ張り出した。リンに送ってやるんだった。去年の秋に知り合った柾の親戚で、俺の六つ下の少年だ。初めて会ったとき彼に何と話し掛けたらいいのか分からなかったのでただ笛を聴かせてやった。それ以来ときどき笛を吹いたのをテープにとっては送ってやっている。片面十分のテープに目一杯思い付くまま入れて日付を書き入れて封筒に収めた。柾の部屋に押し入って便箋を探すが見つからない。メモ用紙を一枚破り取って鉛筆も拝借する。「柾休暇中。青に怒られた。理由は知らない。体に気を付けて。」リンに闇町の住所を教えるわけにはいかないので、手紙はこちらから送れても返事を受け取る事はできない。携帯電話にもなるべくかけて来ないようにと言い渡してある。彼を闇町の揉め事に巻き込む訳にはいかないのだ。本当はこうして、テープや何かを送る事ですら、ある程度の危険が伴っている。だけどこればかりは仕方が無い。彼に笛のテープを送ってくれる人が俺の他に一人でもいるなら、俺は喜んでそいつに全ての仕事を任すのだが。手紙の宛名はリン本人ではなくその母方の実家にする。つまり柾の父親に宛てて送るのだ。後は彼からリンに手渡しされる事になる。
切手を貼って一息ついてからまた笛を取ってひとしきり吹く。やはり思い出せるのは、雪に閉ざされた山。闇町に来たばかりの頃も浮かんだ。俺と柾は二人きりで生き延びて行かなければならなかった。苦しくて、不安でたまらなかった。あんな事はもう二度と御免だ。もう二度と。俺と柾は互いに死にかけるまで傷付け合った。そうでもしないと相手が自分を見捨てて、何処かへ行ってしまうのではないかと、恐れていた。柾の傷は消えない。俺の傷も消えない。ただ忘れてしまう以外に道は無い。
一体何故あのどうしようもない、馬鹿な弟を責める事ができるのだろう。俺だってもっと力があれば柾の右足を切り落としてやったろう、もっと沢山言葉を知っていればあいつに両親の悪口を吹き込んで、記憶を抹消してやったろう。柾を自分に繋ぎ留める為にどんな事だってしただろう、実際やれる限りの事をしたのだから。今でも、俺が背中から近付くと柾は身構えるし、俺もそうする。悲しいなんて思わない、ただ虚しくなる。俺と柾が傷付け合うのを止めてからの数年間少しずつ、積み重ねるように築いてきた信頼とか、そういったものは全部無駄な事で、俺と柾はやっぱり今でもあの時のままなんじゃないか。この先何年こいつと付き合ってもあの時のまま変わる事ができないんじゃないか。どんなに、辛い思いをして年月を重ねても、一度してしまった事を取り消す事ができないのなら、時間などあっても無くても同じ事じゃないか。死にたいなんて思った事は無い、俺はとっくに死んでいる。何年生きても、何も変える事ができない、だから、生きていないのと同じだ。俺は死んだんだ。柾も。
苦しみの為に生きろ。だけどそもそも生きる事ができない人間は一体どうしたらいいのだろう。そうする事ができるなら俺は、苦しみの為だろうが絶望の為だろうが生きたいと思う。今の俺は空っぽだ、ただ時間が俺を取り残して、流れ去るだけ。生きるも死ぬも無い。空っぽだ。
寂しい。寂しい。そうだ本当に、俺は寂しい。誰でもいい。俺がこの世界にちゃんと生きて、存在しているという事を、誰か俺にはっきりと分からせて欲しい。怒鳴ってくれても殴ってくれてもいいんだ。憎んでくれたっていい。俺の空っぽの人生に関わって、干渉して欲しい。その為に死んだって構わない。空っぽだけは嫌だ。
携帯電話を取って、覚えている番号を押した。危険だからリンの番号はどこにも記録していない。数字が五桁記号が五桁、語呂を付けておいたから間違えない。リンは待ち構えていたかのようにすぐに出た。
「おい、君にかけようかと思ってたんだぜ」とリンは言った。
「へえ。なんで」
「センが尾行されたんだ。黒猫って名乗っててね」
「黒猫? それ……」
「若い男で、ゼンのお父さんの友達だと言っている」
「岸の?」
「心当たりは?」
「――詳しく話せ」
俺は体がこわばるのを感じた。柾や自分の事なんか頭から吹き飛んだ。
「ゼンがうちの近くまで遊びに来たんだよ。で、僕と、父親がどうのこうのってお喋りしながらバス停で待ってたんだよね。そしたら、同じバス停で待ってた奴の中に黒猫って奴がいて、全部立ち聞きしてたんだよ。直後にたまたまそこをセンが通りかかってね、ちょっと散歩に出て来ただけみたいで、バスが来たんだけどセンは乗らなかった」
「お前とゼンが乗ったんだな」
「うん。で、センはそのまま家に帰ったんだけど、家まで来たらその黒猫っていう人が先回りしていて、君のお父さんは、目が黄色かって聞いてきたんだって。ゼンのお父さんの友達で、ずっと捜してるんだって。たまたま僕とゼンが喋ってたのを聞いて、息子だって分かったから、センの方を尾行したんだって。で、俺が生きてるってゼンの父さんに伝えて欲しいって言って去って行ったんだって。ねえ、怖いだろう? センから僕に連絡が来てさ、ゼンを早くうちに帰らせろって。闇町の関係者かもしれないから、何が起こるか分からないだろう。ダンに相談してみようかって、考えてたところなんだ」
「リン」俺は彼を怖がらせないように声を落ち着けながら、言葉を選んだ。「その話は、他人にはするな。お前にも、センにもゼンにも、危険が降りかかる事は無い。ただ、岸は危ないかも知れない。でも大丈夫なんだ。岸はいま出張中で、探しても絶対に見つからない所にいる。黒猫はそれを知らないから、見つからないと思ってセンをつけ回したりしたんだ」
「なぜ、ゼンでなくセンをつけたんだと思う?」
「そりゃ、人目に付かない所で話し掛けたかったからだ。センがたまたま通り掛からなかったら、そいつはお前とゼンを追いかけて、お前達が人通りの少ない路地か何処かに入るまで何時間も機会を窺っただろう。そんな事はどうでもいい。お前は安全だ。家族には話してもいい。ただ他人には言うな。少し危険かも知れないのは岸だけだ。でもあいつはここにはいない。だから、総じて大丈夫だという事だ」
「なんか、そういう口調じゃないよ、ダン」リンは悲しげに言った。「無理しないでね。本当はとっても怖い事が起きてない?」
「起きてないよ。その黒猫って奴は、もし同一人物だとすればだが、闇町の関係者ではないんだ。何処から来たのか知れない流れ者だ。本当に岸の友達なのかも知れないし」
「怖かったら怖いって言って」リンは詰め寄るように言った。「黙っていられるとその方が不安だよ。君が心配だ」
「心配しているのは俺だ」俺は唇を噛んで言った。「少し怖いかも知れない。でも、お前は怖がらなくていいんだ。住む場所が違うんだから」
「怖くなったら僕の事でも考えてね。効果あるかどうか分からないけど」
「ありがとう」俺はただ短く言った。「あと、笛のテープ、また送るから」
「うん」
「じゃあ」
「うん、じゃあね」
電話を切って、俺はもうその時には赤波の事務所を出て闇町中央に向かっていた。土管はもぬけの殻だった。なんとなく蹴ってみるがびくともしない。確かにこれだけ重い殻をしょってくる蝸牛もそうそうあるまい、この重さのものを一人で運んで来たのだとしたら真実彼は宇宙人だ。だけどあの馬鹿どもは不思議がってばかりいないで少しは頭を働かせるべきだと思う。




