表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
消える流れるすり替わる  作者: 森とーま
2.メロンの楽園
22/81

日曜日――白(1)

「お前は文章が弱すぎる。それだけが心配だ」

 緋鷓ひさは真剣そのものだったが、センは彼女ではなく彼女の後ろのガラス戸、その向こうにしんしんと降り積もってゆく雪のひとひら、ひとひらを眺めていた。


千二せんじ。やる気はあるのか、無いのか」


「無い」センは叩きつけるように鉛筆を置いた。「もうこんな事は無駄だよ。今年は作文は出ない。それだけを祈ろう」


「祈って入れるんなら誰でもそうするわい」


「緋鷓。何事にもチャンスは一度しかない――Fの受験もそうだし、雪の降る中を散歩する事だってそうだ。今この瞬間だって、二度とは戻って来ないんだ――」


「それとこれとは、別物だろう?」


「いや、緋鷓。お前とおれと、二人きりのこの瞬間は、決してかけがえの無い――」


「黙れ。ふざけんな」緋鷓は思わず立ち上がって向かいの従弟を怒鳴りつけた。「やる気が無いんなら、とっとと散歩に行ってしまえ!」


「はぁい、はい」


 センは上着とマフラーをつっかけながら居間を出た。いつもと変わり映えの無い廊下を見ると、急に顔が熱くなった。背中に緋鷓の視線が突き刺さっているように思えた。冗談だと思ってくれればいいけど。靴紐が緩んでいるのがやけに気になって、結び直すと力が入りすぎて足が締まる。こりゃ、脱ぐ時が面倒だ、一度脱いでまた履く時がもっと面倒だろう、と思いながら外へ出た。


 「教育の変革」をモットーに様々な形の学校が作られ、また世間にも受け入れられるようになった近頃だが、その中でも破格の存在が「F」だった。何しろ海外にも名を馳せる人気作家が自ら創立、校長を務めているので、話題性は抜群だ。彼は「あらゆる壁を壊してみせる」「宇宙に通用する人材を育てる」などの分かりやすくて思い切った発言を繰り返して世間にFを印象付け、自信と信念に満ち満ちた人生を送っているようだった。だが、その実態は優秀な子供を選りすぐった上での徹底的な英才教育。厳しい関門を潜り抜けて入学した生徒達は日本との国境に位置する孤島に一年間閉じ込められて、不可解極まる校長の下でみっちりと高校内容の教育を受ける。Fは一年制だ。センの三つ上である緋鷓が第一回生で、しかも彼女は主席卒業、高校をすっとばして既に風波市の大学に通っている。世の中には、一般人の理解を超えた人間もいるのだ、とセンは彼女を見るたびに思い知るのだった。


 緋鷓自身は、「自分は楽しかったが人には勧めない」とFを評していたが、センにはその目の輝きだけで充分だった。彼女はとても言葉には言い尽くせないような一年を過ごして帰って来たのだ。緋鷓にできたんなら自分にだってできないはずが無い、と思い立ったのが二年前、本格的に家族にも許可を得て受験勉強を始めたのが三ヶ月前。入試までにあと残すところ一ヶ月を切っている。少々出遅れた感があったが、「基礎力さえあればあとはセンスと才能、そして度胸のみ」と緋鷓は励ましにもならないような事を言ってセンの背中を押した。Fの入試の辛さは、当日になるまで試験内容どころかその形式すらも分からないという所にあった。緋鷓の時は国語、理科、社会、英語まで普通の常識的な問題が出て、最終課目の数学で十桁同士の加減乗除が各十題ずつ出た。二回生は体力測定と面接、口頭試問。三回生は小論文と面接。そしてセンが、もし入学できれば四回生となる。前年が小論文だから今年はそれ以外だとセンは踏んでいるのだが、もしあの変人校長が気まぐれを起こして裏をかいたらアウトだ。センは緋鷓の影響もあって理科数学は大好きだし得意だと思うが、文章を書くとなると人よりできる自信は無かった。


「ああ、よろずの神様、仏様、お星様、お月様、お子様ランチ、まだ様の付くものは無いかな……とにかく様の付く人みんな、どうかどうか十桁の足し算が出ますように。掛け算は面倒臭いから嫌だな……割り算なんてもっての他だ」


 家の中から見るぶんには綺麗に見えた外も、歩いてみると思ったより風が強い。手袋をしてくれば良かった、と後悔してから上着のポケットに入れていたのを思い出し、急いで嵌めた。降り落ちてくる雪の粒は重たく、地面に触れた途端にもう融けている。ほぼ、みぞれだ。やれやれ、今年は暖冬だ。この時季なら本当はもう根雪がついてたっておかしくないのに。センは上着のフードを被って、うつむき加減に歩を進めて行った。雪が好きだ。寒いのはやっぱり嫌だけど、それでも雪の降っている景色が好きだ。降っている瞬間の、そのひとひら、ひとひらが好きだと思う。風の無い日に限る。吹雪なんてのは荒れ狂って外を駆け抜けていくのをこたつの中で首をすくめてやり過ごすだけのものだ。風の無い、雲の垂れ込めた日に、音も無くゆっくりと落ちてくるのがいいのだ。その中で歩いていると、街が違って見える。不思議と寂しくない。たくさんの小さな、暖かい誰かがそばにいて、自分を取り巻きながら、さざめきながら歩いているような、そういう感じがする。


 雪が好きだ。雪が好きだ。緋鷓が、好きだ。このままどこまでも行こう。果てしなく歩いて、遠くへ遠くへ、行こう。海を越えて……


「いようっ」


 いきなり横からどつかれた。センはびっくりして顔を上げる。二人の少年が寒さに赤らんだ笑顔で立っていた。バス停だ。


「お前、どこ行くの?」

 打ち解けた口調で尋ねたのは双子の兄、ゼンだった。離婚した父親に引き取られ、首都のアパートで暮らしている。センはついこの間、彼の存在を知ったばかりだった。


「別に……散歩だよ。お前はどうしたんだ?」


「君に会いに来たんだってよ」

 こちらは幼馴染のリンだった。センの三つ下だが、小生意気で頭が良くて、そして女もうらやむほどの美形だ。

「だからね、僕が、センは受験生だから駄目なのよって教えてやったの。今から二人で街まで行って来ようと思って。センは、お勉強がんばってね」


「Fだって? すごいよねえ」ゼンも無責任にセンを励ました。


「お前はどうなんだよ。高校行かないのか?」


「僕に向かって言ってるの? 僕はすでに棒に振ったんだよ、何もかも。だからね、悪い事なんかするべきじゃないよ。経験者からの忠告だ」


 ゼンは、去年の春まで首都を牛耳る暴走族「デスカーズ」の長を務めていた。二人はハーフだった父親の血を受けてオレンジの瞳に金茶色の髪だが、ゼンの方はその髪を黒く染めて、肩まで伸ばしている。それを、後ろで一つにくくっているのだった。


「留年?」


「冗談じゃない。卒業はするさ。教師どもだって僕にもう一年もいられちゃたまんないだろ。あとは働くよ。少しはあの安月給の父親にまともな生活というものを教えてやらないと……」


 自分はガキだよな、とセンは思う。もう十五だ。働ける歳になったんだ。なのに平然として親の脛をかじって、さして真面目に勉強する訳でもなく、雪が降る日に散歩してみたいだとか言ってるんだ。恥ずかしい。


「おい、セン。その眼は何だ?」ゼンはセンの沈黙を誤解した。「エリートが労働者階級を見る眼だな」


「そうじゃないよ」と意外にもリンが口を挟んだ。「優等生が不良を見る眼だね」


「違うったら」


「おや、僕は羨望の眼差しというつもりで言ったんだぜ」リンは軽く首を傾けた。


「どっちでもないよ。ただ、真面目にやんなきゃな、と思って」


「僕みたいになりたくないからね?」とゼン。


「だから、そうじゃないって……もう、いいよ」バスが来てしまったので、センは言葉を探すのを諦めた。


「まあ、僕の分までがんばってやってくれ」ゼンはぽんとセンの肩をたたいてステップに足をかけた。リンが嬉しそうにそれに続く。他に三人の客が乗り込んだ。センが乗らないのを見て取って、バスは素っ気無く走り出す。曇った窓ガラスをこすって、リンがちらりと笑顔を見せる。ゼンも軽く手を振ったようだった。雪は漸く路面を白く染め始めていた。雪が音を吸い取ってしまうのか、こんな日のバスはひどく静かに走っているように感じられる。あっという間に小さくなって、角を曲がって消えて行った。


 ゼンも勉強が不得意ではなかったはずだ、と帰り道に思った。何しろおれとあいつは一卵性の双子なんだから。おれにできる事は、あいつにだって大抵できるはずなんだ。後悔しているだろう。多分、ものすごく。おれが合格しても、あいつは手放しで喜べない。自分もそうなれたはずなのに、と思って、また一から後悔しなおすんだ。何度も、何度も。なぜあんな馬鹿な事をした? 父親が良くなかったのだろうか。父は、どんな人だろう。ちゃんとゼンを大事に育てているんだろうか。ゼンの口調から窺う限りでは、ひどく頼りない、子供っぽい、教養の無い人間が思い浮かんだ。あの母が選んで美生みき家も認めた男なんだからそんなはずは無いと思うが、母は時々不可解な人間だし、緋鷓も、緋鷓の父親も、その他の親戚一同も、多かれ少なかれ変わっている。急にインスピレーションを感じてとんだ奴を婿養子に入れたのかも知れない。そのせいで離婚するはめになったのかも。母は別な事情だと言っているが、あいつは平気で嘘をつくからな。ゼンの事だって去年おれが偶然に彼と出会ってしまうまで、一言も教えようとしなかった。その事に関しては、緋鷓も同罪だ。


 緋鷓か。


 正直なところ、困ったな、まずいな、という気分だった。ほとんどきょうだいとして暮らしてきた。緋鷓の母親は病死しているので、セン、センの母、緋鷓、緋鷓の父、という組み合わせで一つの家族が成り立っていたのだ。緋鷓の、センへの溺愛ぶりは大変なもので、センはかなり大きくなるまで緋鷓が母親で、母がいとこだと思っていた。今でこそ接点は少なくなったが、それでも緋鷓は何かとセンに甘いし、センもそれを当てにしている。よそでは絶対に言えないようなわがままも緋鷓には言うし、逆に緋鷓が何をしたって腹が立つ事はない。お互いに相手の出方、引き方を知り尽くしているから、好き勝手にふるまう事ができる。こういう状態で、どうして緋鷓をそういう目で見る事ができるのかが分からない。もう、そういう間柄ではないのだ。本当に困った。たぶん、一時的なものなんだろう。そうであってほしいところだ。


 風が本格的に吹き始めた。フードを深くかぶり直す。考え事をしていたので、帰り道は早かった。センはもう少しで脇目もふらず玄関に入ってしまうところだった。だが、ふとその少年が自分を見ている事に気付いた。


 さっきから視界に入ってはいた。センの家の玄関のちょうど向かいの所に、電柱に背をもたせて立っているのだった。近付いてみると、小柄な割りに大人びた顔だ。自分と同じ年頃かと思ったが、顔立ちからすると二十歳前後のようだ。頭から爪先まで真っ黒な服に身を包んでいて、それが却ってこの雪景色に溶け込んでいる。だからなかなか違和感を感じさせないのだった。しかし、冷静によく考えれば、この男がセンの家の向かいに突っ立っているというだけで充分不審だ。センは向きを変えてその男に歩み寄った。


 男は切れ長の黒い瞳を上げてじっとセンを見た。


「うちに用ですか」センは警戒をあらわにして言った。


「君の、お父さんは、目が黄色い?」と、男は穏やかな声で言った。


「は?」


「お父さんは目が黄色いだろう」


「はい?」とセンは繰り返した。いつか、こういう事が起きるんじゃないかと思ってはいた。父が闇町に仕事を持っていると知った時からずっと、いつか闇の組織の刺客がセンの居場所を嗅ぎ付けて、何らかの接触を試みてくるのではないかと、どこかのアクション映画で聞きかじったような場面を思い浮かべながら、夢想してはいた。だが、今、ここは現実の世界だ。


「黒猫に会ったと伝えてくれないか。どうしても見つからなくて……」男は優しげな目をセンに降り注ぎながらゆっくりと言った。


「黒猫? 捜してるんですか?」


「いいや。俺が黒猫だ。君の弟に……兄かな……伝えてくれないか。黒猫に会ったと、岸に、伝えて欲しいと」


「――知りません」センは睨むように男を見据えて、一歩下がった。「おれには――姉が一人いるだけです」


「ならば君の友達でもいい」男はいたずらっぽく笑った。「可愛い子が一人いるだろう」


「なぜ――」リンの事だ、と分かった。あいつと、おれと、リンが友達同士なのを知っているのだ。ひょっとしたら、ダンの事も。


「怖がらないで。友達なんだよ」黒猫は困ったように言った。「バス停で、あの子達が岸の話をしていたから、あの子と君が岸の息子だって分かったんだ。だから、先回りしたんだよ。俺はひとりぼっちだし、何の力も持たない。本当だよ。明日には死ぬかも知れない。ただ、岸を捜しているんだ」


 センは黙っていた。


「伝えてくれればいい。俺が生きていると、伝えてくれればいい……」

 黒猫はすっと背を見せて歩き出した。何事も無かったかのように、雪に足跡を残しながら、ずんずん去って行った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ