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消える流れるすり替わる  作者: 羊毛
2.メロンの楽園
20/81

土曜日――灰色(2)

 忘れる事はできても、消し去る事はできない。




「僕が初めて自分というものの存在を知った時、多分三歳だった。僕は、自分というものは、どうして此処にあるんだろう。どうやって、いつから此処にいたんだろう。此処にいるとはどういう事で、これからどうなってゆくべきなのだろう。僕は何故、此処にいる。何処からどんな道を辿って此処に来たのか。これだけの事をほんの数秒の間に、全部考えた。不思議な気持ちがした。昨日の事や一昨日の事をぼんやりと思い出した。これまでずっとそうだったし、これからもずっとそうなんだと思えるような、明日や明後日の事を。毎日の日常の繰り返しの、真っ只中に僕が生きていて、それが、とても不思議な事に思えた。自分は何処かから生まれてきた、それは確かだ。でもどうやってここまで生きてきたのかは、よく分からなかった。もしかしたら、今突然自分というものがこの世に出現したんじゃないかとも、思った。僕はその瞬間『自分』というものの出発点に立ち、扉を開けていたんだよ。その時初めて僕は自分というものの存在を知り、存在するという事の不思議を知り、ただ自分の周りの世界を認識し反応するだけの赤ん坊から、世界の中心に立つ自分というものを内側から見詰める一人の人間に変化した。僕はその時感じた事をうまく表すような言葉を何一つ思い付かなかったから、だから僕は黙っていた。僕の心に訪れたものは、名前も知れない、得体も知れない、全く僕の理解の及ばないもので、しかもほんの一瞬やって来てすぐに立ち去ってしまった。だけど僕はその時感じた果てしない不思議を、今でも鮮明に思い出せる。あれが一番最初の記憶だったと思う。何年も忘れていても、何かの拍子にふっと思い出すんだよ。あれが僕というものの始まりだ。自分は何処から来て、何故此処にいるのか、そして、これから何処へ行くのか」


 岸は一息に言って、ほうっと息をついた。


 部屋は静かだった。暖房が効いて、隅々まで暖かい。閉め切ったカーテンごしに、日の光がほんわりと室内を明るくしている。ここに来て初めて、闇町やみまちという場所がいかに騒々しいかを思い知る。耳が静けさに戸惑うのだ。岸の言葉と自分の息遣い以外、何も聞こえて来ないという事が何処か奇妙であった。


「答えられる?」まさめは少し考えた後、低く尋ねた。


 岸は聞き落としたかのように、じっと黙っていた。


「答えられない、はずは無いと思う」岸はやがて言った。「でなければ、何故こんなに必死になって答えようとするのか。答えられるはずだと思うから、答えようとして答えを考えるんだ。或いは、答えなければ、答えられなければ、自分の存在が無意味だと認めた事になるから、それが怖いのかも知れないね。答えようとはするんだ。答えられないから考えるのを止めちまおうなんて思う? 僕は思わない。自分は誰なんだろうって、自分に尋ね続ける。きっと自分は、何にでもなれる――悪魔にも、けだものにも、天使にも、神にも。それだからこそまた、誰でもなく、何にもなれない。でも、何かではある、ような気がするよね。自分は無から生まれて無へ還って行くのだろうけど、まるで何処か特別な場所から来て、何処か特別な――無ではない何処かへ――行くべき定めにあるような、気がするよね。誰にも分からない。見る事も触る事もできない、確かめられない、でも、何かがあるような気がするんだ。自分は誰かであり、何処かへ行くはずだと、思い込んでいる。僕が三つの時、あの不思議な扉を開けた時からずっと――この思い込みこそが、人間なのかも知れない。だから、この問いは、答えには意味が無く、質問自体に価値がある―――そんな問いなのかも知れない」


 岸はそこで、ベッドに横たわる柾の額に手を当てた。彼のしなやかな手は冷たく、不思議な山吹色の瞳も何処か冷たい。岸はその目でじっと見下ろしている。安心して体を任せていながら、柾は同時に何とはなしに怖くもあった。自分が安心し切っているという事が却って、柾に不安を抱かせた。この男は、何者なのだろう。


「まだ熱がありますね」


「もっと楽しい話をしろよ」


「坊ちゃんが池に落ちて――」岸は柾の額から手を引っ込めた。「――ボッチャン。どう? 楽しいでしょう」


「全然」


「この水音シリーズには他にバッチャンとかジャパンとかいろいろありまして」


「別な話をしろ」


「議長の話、しましたっけ」


「いいや。誰だそれ」


「僕の育った施設の、先輩みたいなものです」


「お前、施設育ちか」


「ええ。一応ね」岸は何が面白いのか、にやにやした。「議長っていう先輩がいて、凄く変わったお方でね」


「お前に言われるようじゃよっぽどなんだな」


「ええ本当に。彼は思い込みが激しくて、自分は絶世の美形だと信じているんです。確かに結構もてそうな顔ではありましたよ。でも、彼は鏡を見た後に他人の顔を見るとがっかりするとまで言っておりました。自分の顔に引き比べるとどんな女の子もブスに見える、だから絶対誰とも結婚しないだろうって断言していました。ナルシズムもあそこまで行くと本家って感じでしたね」


「そのうち水仙になっちまうんじゃないか」


「ああ。そうだったらいいな」岸はちょっと笑って、目を細くした。「彼、もう多分死んだから……。自分に見とれて水仙にね……そんなんだったら、いいけどなあ。多分、拷問で死んだろうから……」


 柾はじっと岸の笑顔を観察した。彼の穏やかな目には一片の陰りも見当たらなかった。部屋は明るく、また静かであった。何処か不安になるくらい、何もかも安らかであった。柾は夢の中に居るような心地がした。


「――それで?」と柾は促した。


「それでね」岸は楽しそうに続けた。「その議長、他にもいろいろな思い込みがあった。まず、自分は議長だって言い張る。世界妖怪自治連盟会議の、議長だってさ。つまり、自分は人間じゃない、妖怪だって主張するんだ。彼に言わせれば、その施設には他にも大勢妖怪がいて、自分はその全部を取り纏める議長なんだって。で、僕は議長最もお気に入りの妖怪だった。彼が――僕をキシと呼んだ」


 柾は意味を取りかねて少しの間黙っていた。やがて呟いた。


「名字じゃなかったんか」


「うん。孤児だもの。僕ら、皆番号で呼ばれてた。僕は十二とかね。正式の場ではそう呼ばれてた。議長が僕をキシと呼んでくれた。大きくなってから、センダという家に引き取られた時は、センダキシ。今の名前、実生みしょうは、じつは結婚する事になった時、戸籍を作るために便宜上作った名前なんだよ。そして議長は――」


 岸は突然話を戻した。


「僕の正体は妖怪だと言うんで、つまり、普段は人間に化けているだけで、真の姿は別にあるんだと言い張る。僕は、彼が言うには、柳もどきという種族だそうだ。柳そっくりに化ける事ができる。柳の振りをして小川の岸に立っていて、通りかかった動物や人間をぱくりと一呑み。樹齢千二百年、下品で飢えた妖怪だって。どんなものでも無慈悲に丸呑みしちゃうけど、かわいい女の子にだけは目が無くて、食べる事ができなくて、人間に化けて話し掛けて、口説いて、そして必ずふられてしまう」


「違いない」柾は薄く笑った。


「面白い人だったな……彼と居ると凄く安心できた。僕は施設内でも病弱で有名でね」


「病弱?」柾は吹き出した。


「そう見えませんか?」岸は不思議そうに聞き返した。


「見えない」


「病弱だったんですよ。しょっちゅう隔離されてたんです。病気をうつさない為ではなく、うつされない為に。普通の子が持ってて平気な細菌でも、僕だけ過敏に反応する事が多くて……自分は頭も悪いし体も弱い、劣った奴なんだと思ってた。別にそれで悲しくなかったし。甘えていた。自分は劣った奴だから、自分の事だけ考えてりゃいい、難しい事は誰か別な人がみんな上手くやっといてくれるだろうと思ってた。自分はちやほやされるべき特別な人間なんだ、って。でも、議長がよく僕を見舞いに来て、そういうんじゃ駄目だって怒るんです。お前は確かに特別だけど、それは弱いからではないし、人からちやほやされる為でもない。そういうのは甘えだって。お前は樹齢千二百年の柳もどきで、どんな人間だって一口で粉々に噛み砕いてしまう、最強で、残酷で、物凄い妖怪だ。でも、自分が好きになった人のことだけは、どうしても食べる事ができない。必死になって、変身して、口説いて、でもきっと失敗する。そういう奴に、お前はなれるんだって。努力しろ。精一杯の自分になれ。お前は特別だ。お前は妖怪だ。最強で、しかも凄く弱い。その弱さの為に、必ず皆から愛される。……僕は彼の訳分かんない励まし方が好きだったな」


 柾は何と言ったらいいのか分からなかった。もしその人が今、ここに居たら、自分を見て何と言うのだろうと思った。一体どんな妖怪を当て嵌めて、どんな風に叱るのだろう。


「お前はそれで、そういう妖怪になったわけ」


「どうかな。確かに僕は最強になったし、残忍になったかも知れない」岸はちょっと上を向いて目を閉じ、また開けた。「なんか、あんまり運が良くなかったからな……その替わり、失恋はしなかったけれど」


「でも、別れたんだろ?」


「うん。それは、別な理由でね。ふられたからって訳じゃないんだ。そうだな。だいたい議長の予言は外れたな。悪い所ばかり当たって、肝心な所は外れたって気がするよ」


「お前は皆から愛される人間に見えるけど」


「うん……そうかな……どうだろうね……」


「本当だよ」


「でも、僕はそれに値する人間じゃないですよ。本当は、議長が思い浮かべてたのは、柾さんみたいな人間なんじゃないかと思うんです。優しくて、その所為で弱くて、その弱さの為に、必ず愛される」


「誰だよそんな奴。知らねえよ」


「僕、柾さんが好きだな」

 岸はさらりと言って、まるではにかむような笑顔を見せた。


「それ、どういう意味で?」


「普通に」


「気色悪い」


「あのね」岸は構わずに続けた。「議長は、自分が人間ではないっていう前提で、いろいろと人間という生き物を批評したわけだけど、彼の議論はこうだ……妖怪は自由を愛して束縛を嫌がり、他人の事なんか構わない。でも人間は群れたがる。他人に構いたがるし構われたがる。他人からの束縛は嫌がるけれど、自分で自分を縛るのが大好きだ。家族や、友達や、組織や、国に、自分を縛り付けていないと人間は気が済まない。――妖怪は身勝手だけど、愛を知らない替わりに憎しみも知らない。人間の持つ愛の心は美しいけれど、彼らの憎しみや怒りは恐ろしい。――妖怪は独りぼっちで満足するけど人間は群れていながら孤独を感じる。……議長は妖怪語というのを作って」


「妖怪語……」


「彼言わく、妖怪にはいろんな好き勝手な言語を使う種族があって、違う種族同士では言葉が通じないらしい。で、共通語として議長自らが妖怪語を作った。まあいろいろ変な言葉を覚えさせられましたよ……大方忘れたけど。彼の作詞作曲した妖怪の祭りの歌とかもあって、勿論初めから終わりまで妖怪語なんです。あの人は本当に、変人になる才能があったんだな……」


「その議長――自分の事はどういう妖怪だと言ってたんだ?」


「漆黒の猫だそうです」岸はまた嬉しそうに言った。「猫の鳴き真似が上手でね。いつか僕の目の前できっと猫に変身してみせるって宣言してましたよ。ああ、見たかったな」


「そいつその時何歳だったんだ?」


「十八か九かな」


「そう。お前は?」


「僕は八つ」


「ふうん。お前にも子供時代があったんだな……」


「熱、下がったでしょう」岸は立ち上がって、閉め切っていたカーテンを大きく開けた。光がなだれ込んだ。柾は布団をのけて体を起こした。「明日、雪になるって本当かなあ」


「天気予報なんか当てに」

 言いかけて、そのまま柾は言葉を止めた。逆光に浮かび上がる岸のすらりとした背姿に、何故かどきりとした。こんな景色を、見た事がある。多分、ずっと昔。もっと、ずっと、子供だった頃。叩き付けるような雪、刃物のような風。うなる山、のしかかる雲、闇に呑まれる森。


「どうかしたの?」岸は振り返った。


「何でもない」柾は岸の金色とも見える瞳をじっと見返した。「何か思い出しそうな気がしたんだ」


「そう。嫌な事? それともいい事?」


「どっちでもないよ。多分取るに足らない事だ」


「取るに足らない事ね……」岸はまた背を向けて外を見た。「だけど……歳を重ねるほどに、そういうものがだんだん愛しくなるんだ……」


「そりゃ、忘れやすいものほど愛しいに決まってる。無いものねだりだよ」


「そうかも知れない。なんだかね……昔話は、ちょっと苦手だな。いろいろ経験積み過ぎてるから、忘れたい事も多過ぎるし、忘れたくない事も多過ぎて。振り返るたびに、切なくなっちゃうよ」


 思わず茶化したくなるような科白だったが、柾は吹き出そうとして、その刹那ふと黙ってしまった。日差しに雲がかかって、すっと部屋が薄暗くなる。


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