消える(1)
あれは、プロポーズだったのかも知れない。
目覚める直前に妙な事がひらめいた。こういう事は、たまにある。大体ここ数年青の見る夢ときたら、自分でも呆れるくらい忠実に現実を反映していた。二三日前の出来事で気に掛かっていた事とか、近いうちにしようと思っている事などをそのまま夢に見るのだ。夢占いもあったものじゃない。現実を暗示どころか明示されるのだから。おかげで、毎晩夢の中で意中の人に会えるのも、嬉しいんだか切ないんだか。そんな調子だから、夢を見ているうちに何か現実の生活の中で見落としていたものに思い当たるという事が、あるのだ。今朝もそれだった。
高瀬継優という男は、現在の青の知り合いの中で、最も親しく、かつ最も利害関係の薄い人間だった。つまり、分かりやすく言えば友達だ。闇町で友達を持てるというのは貴重な事だ。だから青は継優との関係を大事にしていた。二人とも闇町で暮らし、それぞれの地位を築いてはいたが、お互いに相手の前ではそれを話題にしなかった。会うのは休日に限り、仕事中に道端ですれ違う事があっても声は掛けない。それくらいしないと、闇町で利害の無い関係を維持するのは難しかった。とにかくそういう風にして、上手くやっていた。ところが先日会った時、継優は急に変な事を言い出したのだ。
「なあ、あんた。今の、現在のこの暮らしに、満足してるのかい?」
してるわけないと青は思わず素っ気無く答えた。継優は、困惑する青に向かって更に続けた。
「どうだろう。俺とあんたとで、二人そろって足洗って、どっか土のあるところ行ってラーメン屋を開くってのは」
青はただびっくりして、また冗談だと思って、「ああそれ、すごくいいねえ」と答えたのだが、その時の継優の目はどうしてなかなか真剣だったし、青自身も後になってから、だんだんその事を本気で考え始めた。足を洗うなんて、あいつそんな事できるのかしら。
考えれば考えるほどに、その提案は現実味を帯びてくるようだった。何よりも、足を洗うという言葉が魅力的だ。つまり、今までの生活を全て清算して、真っ白な新しい生活を始めるという事だ。新しい自分になる、すっかり変身するという事だ。
三日後、青は初めて休日でもないのに継優に会いに行った。継優は既にだいぶ前から計画を立て、準備を進めていた。あっという間に夢のように話は進み、日取りまで決まってしまった。青は降って沸いたような素敵な計画に、すっかり浮かれていた。継優の急な提案の意味よりも、その内容の方に気を取られて、はしゃいでいた。今朝、目覚める瞬間にあの神の啓示のようなひらめきが訪れなければ、おそらく一生気付かなかっただろう。
あれは、プロポーズだったのかも知れない。
この種のひらめきが大抵そうであるように、この啓示は先に単なる言葉として頭の中に訪れた。夢を見ている時の頭の中は、ときどき酔っ払ったように脈絡というものが失せていて、筋道立てて物を考えることができない。ふっと言葉が浮かんできても、それがどんな意味を持つのか、そもそも意味があるのかどうか、とっさに判断する事ができないのだ。それで、言葉はただ意味もなく頭の中で繰り返される。あれは、プロポーズだったのかも知れない。あれは、プロポーズだったのかも知れない。ほとんど夢は終わり、目が覚めかけている。「あれ」って何だろう。もちろん、あれはあれだ。継優の突然の提案の事だ――
ああ、何だって?
青は目を開けて、ベッドから飛び出した。何が何だったかも知れないって? どうして俺はこんな言葉を夢の中で思い付いたんだろう。どうして俺の脳細胞ときたら、起きてる時に思い付かない事を寝てる時に思い付くんだ? しかも、論理ではなく直感で。
継優のあの提案、あれは、プロポーズだったのかも知れない。
まったくだ。言われてみればその通り。男が女に、一緒に暮らそうと提案したんだから。プロポーズでない方がおかしい。青はいつも継優を兄貴兄貴と呼んで甘ったれているが、本当は六歳しか離れていないんだから、恋人になったっておかしくないはずなのだ。すっかり失念していた。
身支度を整えながら、青はにやにやした。高瀬継優という男は、思っていた以上に面白い奴だ。もちろん彼は青が気付かないようにわざとタイミングを計って誘ったのだ。そういう気取った思いやりらしきものが、いかにも彼らしくて面白かったし、それに見事に引っ掛かってしまう自分自身や、そういう微妙なバランスで上手く付き合っている継優と自分の関係自体が、面白かった。そして、これからは友達じゃなくて家族になるって事だな、と思って、自分で思い付いたその言葉がまた面白くてにやにやした。家族か。でも多分、夫婦ではないだろう。兄と妹といった所か。へえ? あいつが兄。この俺が妹。こいつはいよいよ面白い。
着替えを終えて廊下に出る。青は何しろハナダ出版社の社長だから、このハナダビル最上階を丸ごと一階分、自分のプライベートルームにしていた。初めはあまりにも無意味で無駄な気がして、せめてフロアの半分を会議室か何かにしたいと部下にも言ってみたのだが、これは闇町の各ビルのボスが持っていなければならない一つのシンボルなのだと説得されて、しぶしぶ受け入れた。今でも、使いもしないのにごてごて飾り立てられた沢山の部屋を思うにつけ気づまりだ。それでも慣れというのは恐ろしいもので、近頃では無意識のうちにこのフロアを自分の縄張りだと感じている。部下などが上がってくると、さっさと追い出したくなる。使いもしない部屋でも、汚れたり人に見られたりするのが惜しいと思う。人間というものは、結局どこまでも欲張りになれるものらしい。
エレベータに乗って十八階まで降りる。そこにハナダ社の重役達が普段使っている事務室がある。ここでは、機密情報の売買の見通しを立てたり、都合の悪い文書や物品を滅却したり、今後脅迫あるいは暗殺すべき人間を数え上げて表にしたり、そういう物騒な事をやっていた。そんなわけでここで働いているのは冷徹なまでに合理的で頭が良くて、しかも表向きは気さくに振る舞うという人間ばかりだった。そうでない人間はたとえここまで上がってきても、すぐ下界へ降りて行った。というか、青が意図的に降ろした。ノイローゼになられても困るのだ。
事務所に入ると、何故か部屋にいる全員がうろうろと歩き回っている。一人が顔を上げて、「あ、お早うございます」と言うと、他も皆それに習った。しかし、歩き回るのは止めない。何人かは床に這いつくばって事務机の下を覗き込んでいる。
「何してんの?」青は呆れて言った。「探し物ですか?」
「北泉のロッカーキーがなくなったんです」と森谷が言った。
「ロッカーキー? ロッカーって廊下の?」
事務所の外の廊下に、前世紀の遺物かと思われるようなトタン製のロッカーがあって、社員達がちょっとした物入れに使っていた。一応、鍵も付いていて、建て前上はロッカーの所有者しか開け閉めできない事になっていた。本音を言うと、こういうロッカーは量産品なので、何十個かに一個の割合で全く同一の鍵穴を持つロッカーが存在するのだが、それは言わない約束。そんな代物だから、誰も本当に大事な物をこのロッカーに入れたりはしない。本当に、単なる物入れだ。
「そんなに重要な事なの?」と青は聞いた。
「いえ、なんか珍しく仕事が早く終わって暇になったから、なんとなく皆で探す気になって」森谷はとぼけた調子で言った。恰幅のいい彼は這いつくばって探す事には抵抗があるようで、身軽に身をかがめて飛び回っている若者を見やりながら苦笑いした。その若者は、八羽島という名で、若けれど青の補佐役の一人だった。
「スペアキーは? 持ってるはずでしょう?」青が言うと、その八羽島がぱっと立ち上がって、
「だってこいつ、バカだぜ。バカですよ。スペアキーをキーホルダーにしてたんだから」
と、問題の北泉を指差した。北泉もまた若く、青の補佐役の一人だった。彼は、「やっぱり拙かったかな」と笑った。
「つまり、二つ同時になくしたわけ」
「消えちまったんです」北泉はまた笑った。
「しょうもない人ね。ロッカーに何を入れてたの?」
「辞書とか、カメラとか、マフラーとか」
「それが今すぐ必要なの?」
「いいえ」
「じゃ、諦めなさい。ほら、全員止め」
青はパンと一つ手を打った。すぐに、社員達は立ち上がって、徹夜明けのぽかんとした顔を並べて青に向けた。
「あのね、仕事が早く終わって嬉しいんでしょうけど、そういう時は少しでも睡眠を取って下さいね」
「いや、たまには運動した方がいいかと思ったんすよ」八羽島が言った。「デスクワークが続くと血行が悪くなるから……」
「そういうつもりなら皆で力を合わせてロッカーをこじ開けるといいんじゃないの。でなきゃラジオ体操するとかね……」
青は皆に一時間の休憩を取るように言って、北泉を連れて事務室を出た。
「ようやく松組を説得した」北泉は青に並んで歩きながら陽気に言った。「先が見えてきたよ。予算も綺麗に割り振れたし」
「まあ、上手く行くといいよね。先の長い話だけど……どのロッカー?」
「あのう」北泉はちょっと口ごもった。「キーなら、ここにあります。別なポケットに入れてたのを忘れて、昨日無い無いって騒いじゃって。で、今朝になって皆で探し始めてから気付いて……言い出しにくくて」
「ああ、なんだ。北泉さんって妙に抜けてますね」
「あはは」と北泉は笑った。
二人は十五階まで降りてそこの食堂で朝食をとった。まだ早朝と呼べる時間帯だったが、カウンタ席はいっぱいで、ボックスの方も座りやすい所はみんな埋まっていた。
「テイクアウトにしたら」北泉が言った。この人は、人前では青に敬語を使うが、個人的には年上の顔で接してくる。それが自分の務めだと思っているようだった。実際、闇組織のボスとして立つには体があまりにも小さすぎる青を、この北泉が庇うような所はあった。北泉は背が高く逞しいし、歳の割には、やや老けて見える。そういう些細な事が、この町では重要な事だった。
「そのつもりなら、最初からここまで降りないで電話で注文したよ」青は構わず奥の込み入った所へ進みながら言った。「たまには人間くさい場所で食事がしたくてね」
「青ちゃんがいいんなら、いいけども」
北泉がそう言ったのは、食事を取っていた社員達が青に会釈しながら、ちらちらと反感のこもった目を交わし合っているからだった。この会社が立ち上がって以来、ずっとこうなのだ。むしろ、だいぶましになったのだ。下っ端の者ほど、吹けば飛びそうな姿の社長への不信は強い。当然ではあるのだが、女の子に社長が務まるはずがない、と思っている。生意気で、けしからない、はっきり言って、侮辱だと感じているだろう。ほとんどの社員は、青が名前だけの社長で、実際の仕事をこなしているのは補佐役の北泉や八羽島であると信じる事で不安を抑えている。この際、北泉や八羽島だって闇組織のボスになるには若すぎるという事実には目をつぶるしかない。ハナダは闇町で最も幅を利かせている、これだけは確かだし、給料だってどこぞのけちなヤクザよりはよっぽどいい。そういうものだ。多分ハナダ社は、少しでも経営が傾けば社員がクーデターを起こすだろう。景気の良さだけでどうにか纏まっている組織だった。
サンドイッチを食べ終えて、青は休憩を取りに行く北泉と別れて事務室へ戻った。事務室には先程の半分くらいの社員がいてそれぞれの机に突っ伏して寝ていたが、八羽島だけは起きていて、クッキーをかじりながらパソコンの画面を睨んでいた。
「休みません?」
青は後ろから画面を覗き込んで言った。
「コーヒーでも持ってこようか?」
「ああ、いえ」八羽島は振り返ってちょっと決まり悪そうに笑った。彼がこんな顔をするのは、彼が独断でやった仕事が上手く行った時だ。八羽島は時々、自分の思い付いた事が絶対に上手く行くと確信すると、周りに相談する前に実行してしまう事がある。そうして実行された物事は必ず成功するし、彼はそれを鼻にかける所が無い。皆から重宝されていた。
「すんません、もうちょっとで終わるんで、暖房の設定温度上げて貰えます?」八羽島は背中を丸めて再び画面に向かいながら言った。
「今度は何を思い付いたの?」青はエアコンの操作パネルを開いた。
「何、大した事じゃないんすよ。予算の割り振りを、割合で示した方が分かりいいんじゃないかと思って、それに対応するプログラムを。今までも部分的にはそうやってたんですけど、やっぱりぽんと金額を打ち込んだら、すぐにその脇にパーセンテージが表示されるくらいじゃないと、なかなかやりづらいっしょう」
「そういうプログラムを組んだの?」
「ええ。単純作業なんすよ。重大な事でもないし。予算の表示方法なんていつでもできる事だと思うから、結局誰もやろうとしない。コジさんなんか俺より数倍上手くこういうのやれるんすよ、面倒くさがってやらないだけで」
「そういうもんですよ。八羽島さんがこうして文句も言わずにいろいろしてくれるから、助かっています」
「文句?」八羽島は笑った。「俺、チームワークってのが苦手なんすよ。個人プレーしかできないんです。だから、せめてチームの役に立つような個人プレーを心掛けてます」
「謙虚だもんなあ」
「まさか。謙虚であなたの補佐にはなれませんや」
「うん。そうかもね」
青はカーテンを開けて窓から朝日を入れながら、少しの間これからの事を考えていた。経営は軌道に乗っている。今後の展望も開けてきている。この階まで上がってきた重役達は青の力を認めているし、この組織の方針も理解している。多分、ここまでやれば充分だろう。もともと好き好んで始めた仕事ではない。自分のやれる事はやった、義理は果たした、と思う。社員達だって、もっと体の大きい社長を欲しがっている。
「そう言えば青さん」仕事が終わったらしく、八羽島は立ち上がって伸びをした。「下で紙が足りないって騒いでました。編集部会議の資料にどうしても使うんだそうです」
「全部パソコン上でやれって言ってるのになあ……」
近年、環境保護運動の一つなのか何なのか、世間ではやけに紙の流通が悪い。闇町も煽りを食らって紙の値上がりに悩まされていた。それで、書類はなるべく印刷せず、パソコン上のデータとして扱うようにと社員に言い渡しているのだが、あまり効果が無い。結局、手で触れる情報でないとしっくりこないのだろう。
「A4の上質紙が三百枚欲しいそうです」
「そんなに使うわけないのに」
「適当に二百枚くらい出しといて下さい。あと、俺がわら半紙で水増しして下に届けるんで」
「ああ、いいです。私がやっときますよ。八羽島さんは休んで下さい」
青は隣の印刷室へ入って、紙を入れている戸棚の鍵を開けた。ここの鍵は量産品のちゃちなやつではなく、社内IDカードで開けるようになっている。社員なら誰でも開けられるが、いつ誰が開け閉めしたかいちいちコンピュータに記録されるので、勝手な事はできない。少し厳重すぎる感もあるが、近頃は紙の値上がりが酷すぎるあまり、とうとう紙ドロボウなるものまで出現し始めたのだから油断はできない。A4の紙を二百枚抱えて階下の編集部事務室へ行き、確実にそれが資料の作成に使われるのを見届けた上で、そこを後にした。
それが、ハナダのボスとしての青の、最後の仕事になった。