土曜日――灰色(1)
闇町流という言葉がある。本来は文字通り闇町らしさ、闇町独特の文化の事だが、近頃では闇町で生産され闇町で消費される商品を指す事がある。例えばエスターがそうだ。この滑空機は基本的に街の中を飛ぶことを禁じられているので、無法地帯である闇町でしか生産されていない。またハナダ出版社が発行している日刊新聞「闇町日報」も闇町流だ。こういう商品は外から入ってくる物と違って初めから闇町の住人の為に生産されており、そのぶん価値が高いと見做される。逆に外で生産されて闇町に入ってきた物は余所物とか輸入品と言われ、例え値段は高くても軽く扱われる。いずれは風波政府から完全に独立する事を夢見ている闇町の住人達の、これが精一杯の矜持だった。実際のところ闇町流よりも輸入品の方が高い事からも分かるように、闇町で生産される物は粗悪で低質だ。今この通路一杯に響き渡っている闇町流の流行歌も、聞くに堪えないものだった。
「砕け散れ、燃えて死ね、俺もお前も片端者ぉ、……ジャスト! ラスト! バーーーーースト!」
因みにこの曲でデビューした「トロピカルピンクスランプ」という五人組は、史上初の闇町出身ユニットと持て囃されて話題を呼んだのも束の間、二曲目を出す前に殴り合いの大喧嘩をして解散し全員消息を断った。今となってはこうして曲だけが闇町のあちこちで流れている。どう考えても歌というよりは騒音だが、この下品で芸術性の無い所がいかにも闇町流なのだろう。事実これに感化されて多くの若者がバンドを組んで闇町流としてデビューした。そしてどれもこれもろくな曲を出さないうちに解散してしまうのだった。
「あっ」
擦れ違おうとした瞬間その男は俺の杖に蹴躓いた。杖は俺の手を離れてカンと飛んで行き、俺は平衡を失う。男の腰にまともに当たり突き飛ばされる形で通路に尻餅をついた。土曜の昼時、繁華街は闇町の住人よりもシャバから足を伸ばして来た背広姿の会社員で賑わっている。多くは賭け事と色、そして酒が目当てだ。この男もそういう連中の一人と見えた。彼らにとって法の無い町というのは恐ろしく危険で、それ故に魅惑的な世界なのだろう。彼らは平凡な背広を着て堂々と早足で歩いてさえいれば、闇町人の振りができると信じている。自分達がいいカモにされているとも知らず、初めて小遣いを貰った小学生のように楽しそうに金を使う。シャバでは何もかもカードで払うようになっているので闇町の「貨幣経済」が珍しくてたまらないらしい。おめでたいとは正にこの事。
「おいお前」
杖を拾って立ち去ろうとすると男は俺を呼び止めた。見抜かれたかと思って身構えたが「何か言う事は無いのか」などと言い出すので吹き出したくなった。一体どこの組長になったつもりでいるんだろう。俺を不良少年か何かと勘違いしているらしい。一つ揶ってやろうかとも思ったけど、疲れているのでただすみませんと言って歩き出した。
「おい待てよ」
男は虫の居所が悪いのか、それとも単に図に乗ったのか知らんが、俺の腕を掴んでぐいと引き戻した。触られるのが嫌なので俺は振りほどいた。男の顔は歪んだ。
「おまえ人にぶつかっといて、どういう態度なんだ」
「まだ気付かんのか」俺はでき得る限り低い声で言った。
「何だって? 何か言ったのか?」
「俺が誰だか分からないのか」俺は素早く手を伸ばして男の胸倉を掴みその目を深く覗き込んだ。「背中に気を付けろ。ど素人が」
男がぎょっとして振り返った隙に俺は人の波に紛れて歩き出した。奴が有り金をそっくり掏り盗られた事に気付くのはかなり先の事になるだろうと思った。図に乗って俺を引き戻したりしなければ、胸ポケットのカードだけは無事だったろうに気の毒な男だ。それにしても近頃シャバから来る素人どもが、皆申し合わせたように胸ポケットにカードを入れているのは一つの流行なのだろうか。そうすれば盗まれないという迷信でもあるのかも知れん。そんなこと信じる奴の気が知れない。
冷たい風が吹く。建物は石でできているはずなのに寒さは何処からでも入り込んで来る。風の無い晴れた日など外よりも中の方が寒いくらいだ。店の中に入れば暖房を焚いている所も多いが、通路を歩く限りそれは望めない。乾き切った風と一緒に埃を吸い、替わりに白い息を吐き出しながら人の群れが行き交う。冬の人込みにはいつも何かもの悲しい、焦燥と郷愁のにおいが付き纏う。それは俺の覚えている故郷がいつも深く雪に閉ざされているからだ。この町に雪は降らない。だが冬はある。寒さに身を屈め、自分の事で頭を一杯にした人々が何を想う事も無くただ行き過ぎる。俺もその中の一人という訳だ。他人から見れば俺は人の群れに埋もれた存在、人込みを形作る無意味なひとかけらでしかない。でも俺にとっての俺自身は、決して無意味になり得ない。それが俺であるという時点で俺は何処にも埋もれる事などできない。世界中で俺だけがただひとり孤独で、異端で、例外なのだ。俺はそれを知っている、この通路を行く人々の殆どが、意識的にしろ漠然とにしろそれを知っている。孤独の群れ。肌を刺すような風。なのにこんなにもこの群れの中に居て、ほっとしているのは何故なのか。荒野をただ一人で歩いていても孤独である事に変わりは無いのに、それどころかその方がきっと自分の孤独を忘れやすいはずなのに。孤独である事に安心している、それは何故だ?
「まぁたアンタか」
盗んだカードをそれ専門の所へ売りに行くと、応対の少年がにやにや笑って出迎えた。「いらっしゃいませ。カードかな? 丁度一枚欲しかった所だ」
「無駄口叩くなさっさとしろ」
「承知承知。新鮮だろうな?」
カードの持ち主は盗まれた事が分かった時点で銀行に電話しカードを無効にする事ができる。だからこういう物はせいぜい数時間しか価値が無い。それで魚になぞらえて新鮮とか腐るといった言葉を使うのだ。
「つい五分前。有り金ぜんぶ巻き上げたから、意外に早く気付くと思う」
「はん。携帯電話は?」
「見当たらなかった。内ポケットだったかも知れない」
「それじゃもう三十分も持たないな。ったく。言ってるだろ、電話さえ取り上げりゃカードの寿命は数倍、価値も数倍。今度はしっかり頼むよ、少年D」
「頼むだけならお前でもできるって事だ」
俺は一握りの銅貨を受け取ってそこをあとにした。
店を出てまた人込みに混じる。どっと疲れが出てきた。さっきの孤独と郷愁なんか何処へ行ったか知れない、ただもうざわめきが鬱陶しいばかりだ。世の中の人間どもはどうしてこうも無駄な事ばかり喋っているのだろう。シャバから来た連中は勿論だが闇町の連中だって中身は同じだ。今朝の「非公正取引委員会」に何の意味があったのか誰か説明できるのだろうか。闇町で活動する各組織の長が寄り集まって月に一度開く意見交換の場で、俺も柾の代理として暫く振りに出席したが、定例の誹謗中傷吊るし上げに始まって散々怒鳴りあった末、最後はあの闇町中央に現れた土管の話で盛り上がってお開きとなった。あんな重たい物をどうやって下界から持って来たのかというのが専ら話題の中心で、オガサという土建屋に言わせれば、あの重さではエレベータで上げられないしそもそも一人で転がす事すら難しいそうだ。誰かこの中に協力者がいるんだろうとか実は土管に見せかけた張りぼてなんだとかあの若者は超能力者だとか怪力だとか亡命者だとか宇宙人だとか何の足しにもならん意見がどっさり出て時間と体力が浪費されただけだった。いい大人が三十数名も集まって、何が宇宙人だ。委員会の設立はハナダ出版社初代社長の提案だったが、あいつもつくづく余計な事をしてくれた。情報交換の場になればというつもりだったようだが、俺が今日あの場で手に入れた情報と言ったらあの若者が黒猫と名乗っているという事だけだ。名前はと聞くとそう答えるのだそうだ。ところが他の質問には一切答えない。食事も摂らずあそこに居座っていて、脅しにも懐柔にも乗らず黙ってにやにやしているばかり。土管を運ぶ方法よりそっちの方が余程問題だ。竹組幹部に銃口を向けられても怯える様子無くきょとんとしていたあの若者、あれは演技にしろ単なる鈍感にしろ、只者ではない。死体が出るのは迷惑だが、早いうちに摘み出すなり何なりして片付けておくべきだろう。それくらいの事もあの馬鹿どもは分からないのだろうか。分からないはずが無い。ただ俺と一緒で言い出しっぺになって責任を取らされるのが嫌なのだ。
赤波書房の事務所に戻ると他の皆は昼食を済ませていて、俺の分の炒飯だけ素っ気無く会議机の上に置いてある。机の反対側では切真が一人で収支の計算をしている。俺は彼の前に黙って現金を置いた。切真はその生真面目な顔を上げて俺を見た。
「稼いできたの」
「悪いか」
「いや。丁度これくらいあればいいと思ってた所だ」
切真は後ろの戸棚の鍵を開けて厚紙でできた菓子箱を取り出し、その中に金を仕舞い込んだ。これが赤波の金庫なのだ。「委員会はどうでした」
「くだらない。中央に土管をしょった宇宙人が現れたとか」
「土管? 何故また土管?」
「俺が知るか。土管があってその中に人が寝てるのは確かだ」
「物好きなのがいるんだな。それとも待ち合わせかな」
「昨日の朝から居るんだぞ」
「可哀相に」
切真はすげない口調で言った。




