金曜日――黒(2)
俺には青という知り合いがいる。この間まであのハナダ出版社の社長を務めていた少女だが、ある日組織をそっくり放り投げて海外へ逃げてしまった。それで副社長だった八羽島影仁が新しい社長になったのだ。俺と青は歳が近いが仕事上の取引で面識がある程度だった。だけど青は闇町を去る直前に俺を訪ねて来て、自分の携帯電話の番号を俺に教えて行った。俺は面倒なのでその覚え書きを燃やしたが、俺と青に共通の友人が三人いる事を忘れていた。俺が柾の父親に自分の携帯電話を買って貰った時に、その友人達を介して情報が青の方に流れ、青はしょっちゅう俺に電話を掛けてくるようになった。
「今日、元気無いでしょう」この歳の少女にしては青の声は低めだった。特に電話口だと低く聞こえた。「何かあったの?」
「今日に限った事じゃない」
「でもいつもはもっと元気だもの。お父さんと喧嘩?」
「知らない。具合が悪いから、三泊四日の休暇を取るそうだ」
「へえ。一人で?」
「いや、岸って奴が付いて行く」
「ふうん……ダンは連れてって貰えないんだ」
「ああ」
「本当に元気無いよ。今度こういう事があった時は、柾さんに自分も連れてけって頼むといい」
「誰が頼むか。具合が悪い時は、あいつ岸以外そばに寄せないんだ。俺だってあいつの看病だけは御免だ、痛いからな」
「そうか。難しいんだね」
青は考え込むように言った。そんな風に簡単そうに言って欲しくなかった。
「今日、うちの兄貴がね……」青は俺の事に構わず同居している「兄貴」の話を始めた。俺は聞き流していた。青からの電話、青との会話、青とのささやかな詰まらない接点、そんなものが煩わしくてならなかった。こうなる事が分かっていた、だから俺は嫌だと言ったのに。一体青はまともに聞きもしない人間に向かって兄貴の話なんかして何が楽しいんだろう。青は俺がちっとも聞いていないのを知っているのだ。知っていてそれでも喋っているのだ。俺もきっとこれくらい強気だったら十五歳でハナダの長にもなれるのだろう。青には怖いものなんか無いみたいだ。俺は彼女にそう言った。
「大人が子供ほど闇を怖がらないのは」青は何気ない口調で、静かに言った。「もっと怖いものがあるって知ってるからだよ」
「そう? 例えばどんな」
「さあ。自分、かな。結局、一番怖いと思うのは自分自身の内側にあるものだよ。正体不明で、いつ何をしでかすか分からない、そういう怖さがある。そして何をしでかそうとそれが自分の内側のものである限りは、自分でその責任を持たなきゃいけないからね」
「殺人衝動か」
「違うよ。そういう、外に向けられるものの話をしてるんじゃない。自分の内面の問題だよ。分かり良く言えば、絶望とか。そういうものって自分の内側から生まれてくるものでしょう。なのに、自分でそれに耐え切れなくなったりする。まるで自傷行為だ。刃物みたいなものでさ……自分で作り出したものなのに、その為に自分が駄目になっていく。誰もその責任を肩代わりできないんだよ。分かるかな。自分を最も苦しめる事ができるのは、実は自分自身なんだ。勿論いま問題にしている苦しみは、精神的なものに限るけど」
「絶望の為に眠れ……」俺はふと思い付いて口にした。
「え? 何?」
「小さい頃、祖父に教え込まれた言葉。今日の苦しみの為に生き、明日の絶望の為に眠れ。小さい頃は、意味が分からなかった。今も分からない」
「今日の苦しみの――為に生き」青は味わうように繰り返した。「なるほどね……詩の一節かな? 続きはあるの?」
「続きは無いけど、似たようなのがもう一つある。星の下に跪き、お前を踏み躙る者の為に祈れ」
「ふーん。汝の敵を愛せ、みたいなやつかな。まあ、闇町みたいな場所じゃ、虚しい言葉か。私は結構そういう思想好きだけどね」
青がそれから少し黙ったので俺も黙って二つの言葉を頭の中で繰り返し、考えた。
「苦しみとか絶望しか無いって意味か」少し経ってから、俺は聞いてみた。青の意見を聞いてみたかった。
「さあ」青は何か具体的な事を思い出しているらしかった。「そういう心構えで生きろ、っていう意味じゃないかなあ。――実際の所、生きるなんて生易しい事じゃないと思うよ。幸せになれなくて辛いから自殺する、なんて言っている人に、かける言葉があると思う? いつか幸せになれるかも知れないから死んじゃ駄目だとでも言うのか。そんな無責任なこと俺は言えない。生きている限り苦しみも絶望も尽きる事が無いんだ。そして人は、幸せになる為に生きている訳じゃないと思うね。少なくとも、それだけの為じゃない」
「――踏み躙る者の為に祈れ、は?」
「それは、許しでしょ」青は簡潔に答えた。「結局は自分を肯定する為の手段だ」
分かったような分からないような意見だった。たぶん青は言葉にして説明してしまうのが嫌だったんだろう。世の中には説明を付けた途端に色褪せてしまうものが沢山ある。絵や音楽や、料理や、冗談が、それだ。俺はそれ以上追求しなかった。
短い挨拶を交わして電話を切った。すると俺は急に独りになった。明かりを落とした自分の寝室は、胸騒ぎがする程静まり返っていた。




