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消える流れるすり替わる  作者: 森とーま
2.メロンの楽園
17/81

金曜日――黒(1)

 架橋は天井がのしかかるように低く、明り取りの窓も殆ど無いのが普通だ。特に松組へと向かう通路は北向きなのでどうせ光が入らんという理由で一切窓を付けていない。通行人は足元を照らす為に小さな懐中電灯を持ち歩く。でなければ勘と記憶を頼りに歩いて誰かにぶつかり、相手が悪いと次の瞬間に殺される。


 引き換え、噴水のある中央広場は高い天井から惜しみなく光の降り注ぐ明るい場所だった。噴水の池の中にまで電灯が幾つも沈めてあって、水の柱を下から照らしあげているのは資源の浪費だと俺は思っている。だが闇町四大組織が金を出し合ってする事に俺の思う事なんか関係無い。彼らは自分達の持つ莫大な財力でもって何一つ役に立つ事をした例が無いが、俺が思うにただしないだけではない、必死になってしないように努力しているのだ。


 ところで広場には時計台があると言ったが、その針は伝統的にきっかり五分だけ進んでいる。その日その五分早い時計台の足元に土管が一つ現れたのだった。直径は四尺長さは二尋、俺の目で測るとそれくらいの物だった。横倒しになって転がっているので死体が丸ごと一つ入りそうだと俺は思った。すると実際その中には男が一人入っていたので、俺は心底ぞっとした。死体ではなく生きていたからだ。俺は赤波書房の仕事でよく死体を扱うが、死んだ人間なんて怖くもなんともない。死んだ人間は何もできやしない。でも生きている人間は別だ。生きている人間がどんなに恐ろしいものか闇町で半日も暮らせば誰でも身に染みて分かるだろう。


 俺は初めその男が殺し屋だと思った。殺し屋にもいろいろ種類があるが、身軽ですばしこくて体が小さく蛇みたいな目をしてる奴等が一番怖い。奴等はよくこんな風に通路の隅に寝そべって、標的を待ち伏せるのだ。使う武器は親指ほどの小刀、背後から飛びついて首を掻き切って風のように姿を眩ます。現場は血の海になる。何が恐ろしいって奴等には理性が無いのだ。標的を待ち伏せているうちに急に気が変わって無関係の者に襲い掛かったりする。俺も一度だけ襲われた事がある。気の毒だがこちらも死にたくないので射殺した。確かめなかったが心臓を撃ち抜いたので生き延びたはずは無いと思う。


 そんな訳でこの土管の御仁とは死んでも関わりたくないと思ったが、よく見ると男はぐっすり眠っているようだった。落ち着いて観察すればそいつは正体も無く無防備に眠りこけていた。細身で小柄で、まだ少年とも呼べるような年頃だった。こんな寒くて物騒な所でよく寝ていられるものだと感心した。多分おおくの通行人は彼を死体だと思って素通りしたのだろう。死んだように眠るとはこの事かも知れなかった。


 一体こいつはこんな所で何をしているのか、何故土管があって何故彼はそれに潜り込んでいるのか、俺には知る由も無かった。ここは闇町だ、この暗黒のでたらめの町で起こる事は大概が当事者以外には決して理解のできない事柄だ。自分の身の安全さえ確認できればそれで結構なんで、俺は背を向けて歩き出そうとした、けれども遅かった。


 俺の様子を見て土管の中身が生きている事に気付いた人間が、足早に近付いてきて、誰かと思えば竹組の幹部の芥子川けしがわというのだったんで俺は今日は運の無い日だと思った。俺の運のいい日なんてこれまで一度も無いが、今日はまた格別運が悪い。まず早朝に土管なんか見付けるからいけない。これが人通りの多い夕方だったら良かった。誰も俺が土管の中に何を見付けたかなんて注意を払わないからだ。しかし早朝はいけないのだ。人が少ないばかりに俺の挙動はよく目立ったのだった。そしてやって来たのがくそ芥子川だ。こいつの好戦的短絡的思考の為に今まで何度収拾の付かない事態が生じた事か考えてみるがいい。俺は走って逃げたかった。だけど何せこちらは社員総勢八人のちんけな後始末屋、向こうは三代続く大やくざ様だ。芥子川の詰問調の問い掛けにきちきち答えていると、土管の奴が目を覚まして伸びをした。芥子川はさっと拳銃を抜いてそいつの頭の側に歩み寄った。


「それじゃお前の知り合いじゃないんだな」と芥子川は言った。


「そうです」と俺は心の中で舌打ちしながら言った。


「誰のお客様だか知らんがどっからどう見ても素人だ。そう見えるだろ」


「はい」


「お前ん所は、殺しはやってないんだっけ」


 芥子川は腕を真っ直ぐに伸ばして銃口を若者の頭に向けながらぎょろぎょろした目で俺を睨んだ。若者も綺麗な黒い瞳を真ん丸にして俺の方を見つめた。


「殺しはしておりませんが」俺はできる限り控え目に言った。「只働きも、しておりません」


「るっせえよ犬が」と言われるだろうと思ったら、実際その通りになった。在り来たりで詰まらん科白だと思ったが、別にひねった面白い科白で罵ってもらう必要は無い。芥子川は続けた。「てめえは目をつぶってろ。そして目を開けるとここに正体不明の死体を見つけるってわけよ。そんでお父上様に知らせて、ちゃっちゃと回収して、好きなやり方で処理すりゃあいいんだ、ええ違うか?」


 失礼にならないような返事が思い付かないので俺は黙っていた。赤波の仕事はごみの回収とは違う、誰にでもできる仕事ではないしそれなりの設備が必要だ。一見死体が出れば出るほど儲かるように思えるが、それも違う。さんざん神経の擦り減る労働に従事した挙句、報酬の殆どが設備や器具の維持費に消えていく。社員八人は給与を受けるどころか他の組織に雇われて食い扶ちを稼ぎ、その上自分の会社の維持費を払わされる始末。いっそ全く仕事が無い方がましなくらいだった。正体不明なんぞと言って料金を踏み倒されては堪ったものではない。俺は芥子川が今すぐ熱心な仏教徒になって殺人を思い留まってくれるように祈りながら若者を見ていた。若者は恐怖というよりは単純な驚きの目で銃口や俺の顔を眺め、黙ってそのまま横たわっていた。そこへ漸く別な人間が近付いて来た。


 芥子川は既に引き金を引き掛かっていたが、やって来た男はその右手を拳銃ごと掴んで背中の方へ捻り上げた。芥子川は貴様とか言って振り返った。相手は芥子川よりずっと若かったが、その顔を見た途端芥子川はおとなしくなった。それは闇町でいま最も幅を利かせているハナダ出版社という組織の社長で、八羽島やはしま影仁えいじんとかいう奴だったからだ。


「あなたのような方が下々の仕事をなさるとは思っていませんが」と八羽島は芥子川の腕を掴んだまま言った。


「素人です」芥子川は不満げに応じた。


「放っておきなさい。用が無ければ自分の足で帰るでしょう」


「用が無くてここに来るはずがないでしょう。政府の回し者だったら誰に責任を取って頂けるんでしょうかね」


「政府に何ができます?」八羽島はさも意外そうに聞き返した。「ここは我々の国ですよ」


「お前の、だろう」


 芥子川は皮肉げに言ったけど、八羽島は人懐っこい笑顔で流して芥子川の腕を放し去って行った。芥子川は苦虫を噛み潰したような顔でそれを見送り、腹いせに俺を睨み付けてやはり立ち去った。土管の若者はまだ横たわったままぽかんとしていて、よく見ると若者以外にもいろんな物がその土管に詰め込まれていた。薄汚い毛布と酒か何かが半分ほど入った容器とか、麻の縄にビニルホースなんかが。彼はこの土管が自分の家のつもりらしかった。土管は両端が太くなっている他はのっぺりとして何の字も模様も無くて、大方どこかからかっぱらって来たんだろうと思われた。土管の縁に三つほど丸い小さな突起が突き出していてそれは手垢で黒ずんでいた。土管全体に彼の気配が染み付いていた。少なくとも一ヶ月前からこの土管を使っているはずだった。してみると彼はわざわざこれを担いでここまでやって来たという事で、人の趣味をとやかく言うつもりは無いけど、まるで蝸牛のような奴だと思った。


 その時俺が一瞬ぼんやりしていると、後ろから大介大介と不機嫌な怒鳴り声が近付いて来たので俺は振り向かないといけなかった。


「ぐずぐずすんな馬鹿野郎ぼけっと立ってんなああ何だこれ」と赤波あかなみまさめがやって来て言った。赤波柾は俺の十歳上の弟で、こいつが俺より早く死んだら俺はメロンの楽園で暮らせるのだが、一生死にそうにない奴だ。彼は俺の父親を自称していて、俺はそんなこと認めた覚えは無いが面倒なので好きに言わせているのだ。


「知り合いか」柾は土管と若者を見て俺に聞いた。俺は首を振った。


「仕事はどうした」


「もう終わった」


「ならなんで真っ直ぐ帰って来ないんだ、こんな所で油売ってんじゃない」


「油なんか売っとらん」

と言い返したら突然ぶん殴られた。痛くなかった。嫌だった。柾はそのまま背を向けて先に行ってしまう。俺はいつもより余計に足を引き摺りながら彼の後に付いて行った。柾は具合が悪いらしかった。そういう事は時々あるのだった。こういうとき無闇に近付くと痛い目に遭わされるので、俺は黙って杖を突き、薄暗く冷たい風の吹き抜ける架橋の通路を行った。


 この町では何処へ行っても埃の臭いエスターの排気の臭い血と金と汗の臭い。冬はぱりぱりに乾燥し夏はべたつくほどの湿気が篭る。でも俺は他の何処へ行ってもこれ以上幸せにも不幸にもならないと思うから、他へ行きたいと思わない。自分が変わらない限り場所が変わろうが世界が変わろうが大した違いは無いだろう。


 二つの建物を通り抜け三つの架橋を渡り、階段を三階分おりる。赤波書房の事務所だ。ここに社員八人中七人が寝泊りしている。残りの一人は副長のきし実生みしょうで、彼だけは闇町の外に自宅を持ち毎朝通勤してくる。彼は十五になる息子と二人暮しで、俺はその息子と面識がある。元から顔は知っていたのだが、このまえ変な成り行きで友達になった。でも住む場所が違うから今後二度と会う事も無いと思う。


 事務所の戸を開けるとき柾は何か言いたげに俺を振り返る。さっき殴ったのを謝りたいような様子だった。俺は仕方無い、本当に仕方無い奴だと思いながら待ち構えた。でも柾は口を開かなかった。


 寂しい目だ、俺は思った。柾の暗い目を真っ直ぐ見上げたとき急に思った。自分もきっとこんな目をしていると思ったら胸を突かれたような気分になった。悲しみの滲んだ飢えて物欲しそうな目、通りすがるひと誰かれ構わず、救いを乞うているような気弱な、卑屈な目、寂しい目。柾はふっとその目を逸らして戸をもう少し押し、事務所へ入って行くのだった。


「お帰りなさい」


 中では会議机を並べて作った食卓で社員達が朝食を取っていた。真っ先に顔を上げた岸実生は一人だけ食卓に着かずに鍋を洗っていた。


「どこ行ってたんです?」岸は馴れ馴れしく陽気に言う。こういう喋り方しかできない人間だからだ。「僕、いま丁度来た所ですよ」


「早いな」柾はどうでもいい事のように素っ気無く言った。


「ええ」岸は嬉しそうに言った。「瀬川さんが柾さんの具合が良くないと連絡してくれたんで、早めに来たんです」


 熱を出した三歳児のような扱いを受けた柾は、嬉しくなさそうにああそうと言って自分の席に着いて、黙って食べ出した。俺もそうした。


「忙しくないんでしょう?」岸は柾の席に近付いて言った。「休みません?」


 柾は歯切れ悪く、唸り声とも溜め息ともつかない返事をした。


「どうですか? 駄目?」岸は他の社員を見回した。俺は俯いて茶碗の中を見詰めていた。本当はもう食べるのが嫌になっていた。でもここで残すとまた柾が怒るかも知れなかったから無理に詰め込んだ。


 岸は赤波で一番の新参者だった。去年、柾の容態が酷く悪化した時に臨時の介護人として雇われた。以来ここの社員になって、人当たりの良さと柔軟だが覇気のある態度を買われて副長の座を譲り受けた。それまでは悟浄ごじょう切真せつまが副長だった。岸は別に闇町で生き延びる術にも事務処理にも長けている訳ではないが、結束力に欠ける赤波の社員達の橋渡し役としては適切な人材だった。今ではこの会社の要と言えるくらいのもので、彼がいないとこの会社は立ち行かない。柾が体調を崩して錯乱する時、岸が居なければどんな事になるか俺は考えたくもない。まったくおぞましい事だ。


 岸の質問にいいですよと切真が答えた。


「ゆっくり休んで下さい。この週末は特に仕事も無いから」


「三泊四日……」岸は山吹色の目を僅かに細めて独り言のように言った。「……月曜までお暇を頂けるといいなあ。市ノ背に新しい温泉付きホテルができたそうだから」


 ええ温泉でもスキーでも行ってらっしゃいと瀬川が言った。瀬川は内科医で、柾が風邪を引いたとき何処からか解熱剤を仕入れてきて処方する。だが柾の体質の根本的な治療は彼の専門外だ。大体どんな医者も専門外だろう。俺だって岸だってこの馬鹿野郎の馬鹿病を治せやしないのだ。


 皆があっさりと行ってらっしゃいとかごゆっくりとか言うんで、柾はちょっと笑ってお前ら俺に居なくなって欲しいんだろと言った。そういう事は本当は言ってはならなかった、何故なら半分くらい真実だからだ。赤波の社員は昔みんな柾が大嫌いだった。そして仲直りした今でも半分くらい嫌気が差しているのだ。柾が余計な事を言ったので食卓が今にも白けそうになった。でもそのときいさりという女がお大事にねと穏やかに言ったのでその場は納まった。そのむかし柾と他の社員が仲直りできるように最初のきっかけを作ったのもこの人だった。漁は頭悪いしあんまり役にも立たんが、誰にも変えられなかった事を変えた。柾はこの人に感謝しているんだろうか、俺は感謝はしていないけど少しは尊敬している。


 食事が終わったとき柾はふと俺を見る。俺はその目を見るのが嫌だったが、見ないではいられない。自分も同じ目をしているのだと思うと居たたまれない反面その目は、その色は強く惹き付けるような何かを含んでいる。俺は目が逸らせなかった。俺は一瞬息もできなかった。


「留守番頼むからな」と、柾は言った。


 俺はどきりとしてただ下を向いた。頷いたようにも見えたかも知れないと思った。


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