青から赤へ(3)
「青さん……」
誰ともなく、呟く。
「ああ、誤解しないでね。プチ家出して帰ってきた訳じゃないんですから。ただ、私の新しい友達の妹さんの死体をいじくり回して悪ふざけした人がいるようなので、少し調べに来ただけです。ハナダの長としてではなく、その人の友人として」
皆が瞬きして見つめる中、青は手近な事務机の上に腰掛けた。
「話は途中から聞かせて貰ってたけど。ここの壁、防音強化した方がいいかもね。ドアに耳を押し付ければ丸聞こえだから……それはともかく。長々と話す気は無いよ。昔から、事件が起こって得をした人が犯人と言われるよね。で、得をしたのは、今回の場合、誰? 八羽島は大損、探偵役を買って出て北泉を攻撃したのが裏目に出て、逆転負けと言ったとこ。逆に、北泉は随分得をしたみたいね。最初に犯人と疑われて後から反撃だから、妙に格好いいじゃない。つまり、あんたが犯人よ。あんたがいま八羽島に言った通りの事を、あたしがあんたに言う事になる、こうなるって分かってたらもう少し言葉に気を付けたんじゃない? まあ言葉なんてどうでもいいけどね」
青はここで言葉を切って、一息入れながら事務室の面々を見回した。やがて淡々と続きを言った。
「北泉は八羽島と喧嘩して、拗ねて川原へ行った。そこで、偶然岸に上がっていた女の子の死体を見付けた。とっさに、八羽島への嫌がらせを思い付いた……北泉。さっきあんたが言った通りの事を、あんたが自分でやったのよ。女の子の服を脱がせ、ハナダ青を仄めかす焼き印を入れ、自分の鍵……怪我の功名だよね。なくしたって騒いだっきり、見つかった事を私以外には知らせてなかった……ロッカーキーをポケットに入れて、川へ放り込み。この計画の巧妙な所は、失敗しても北泉のリスクが無いって事。何処でどう転んでも……女の子の死体が上がらないとか、八羽島がメッセージに気付いてくれないとか、用意しといた偽機密文書を八羽島以外の人が持ってっちゃったりとか……そういうもろもろの可能性が全て北泉の不利にならないの。死体が上がらないのは勿論、八羽島が罠に気付いてくれなければ、そこまでで事件は終わり。誰も見向きもしないだけ。機密文書の件だって、その文書を燃やしに行った人を犯人にすればいいだけだもの。そして勿論北泉には、二つのメッセージ、焼き印と鍵に気付くのは八羽島で、機密文書に嵌まるのも八羽島だって、確信があった。だってこの人がこの中で、一番気が付く人だから。人のしたがらない仕事を進んでしてくれる人だから。そして、実際、その通りになった。
「でも八羽島さんだって馬鹿じゃない。彼の反論は適切だったと思わない? 八羽島さんは、俺の前に焚き火をした奴が犯人だと言ったけど、それは勿論北泉よ。北泉が、こうなる事を何もかも予測していて、わざと焚き火の跡を残して、その中にブローチを埋めて、その上そこらに彼女のズックも放り出して……他の服はきっと燃やしたんでしょう。煙の臭いが付くっていう件だって、一晩もあれば充分誤魔化す暇があったでしょうし。シャワーでも浴びたんですか? とにかくあんたは上手くやったよ。とってもね。まだ証拠がある。これも八羽島さんの指摘だけど、偽機密文書の為に使った白紙の出所。そこらの印刷機から掻き集められる訳無いじゃない。この事務室は一日中誰か出入りしてるんだから、そんな事したら怪しまれるし、下の階は慢性紙不足でそもそも紙が無いしね。あたし出て行く直前にもわざわざ紙を下に運んだんだよ。だから、紙の出所は戸棚に決まってるの。さあ、もう一度確認。最近、紙戸棚を開けたのは、いつ?」
何人かがパソコンの画面を覗き込んだ。
「午前五時、七分」八羽島が言った。「昨日です」
「ほら。その時、私はもうここにいなかった。つまり、その記録は私じゃない人が私のIDカード使って開けた時のもの。すなわち、私の後任である北泉。私はこの人に自分の権限の全てをそっくりそのまま引き渡して出て行った。私のIDカードも、何もかも、彼は受け取ったのに、それを隠していた。そもそも、機密文書って、何なんでしょうか」
青は北泉を見た。
「誰でも勝手に機密文書を作れるような会社があるわけ? 封筒に入ってて、判子が押してあるんでしょう? 誰がその判子を押すの? 誰がその判子を持ってるの? 社長じゃないんですか。社長が機密と認めた文書を、機密文書と言うんじゃなかったの? 社長は誰なのよ、今は」
皆は北泉を見つめた。北泉は、仕方無さそうな笑みを浮かべた。
「出来心だよ、青ちゃん」
「そうとは思えない念の入れようですけど」
「君には、敵わないよね」北泉は静かに言った。「まだ、生きてたんだよ。あの子は。俺にはそう見えた。驚いたよ。急いで火を焚こうとしたけど、薪が無くて……その辺に転がってるのは湿った生木ばかりで。自分の服を燃やしたんだけど、すぐ駄目になった。……気付いたら、死んでいた。悲しくなってね。火ばさみなんて持って来てない。ふらっと散歩してただけだもの。一度闇町まで戻って、焚き木を買ってきた。火を焚きながら考えたんだ……ナイフを持ってたんで、それの刃を熱して焼き印を入れた。あの子のズックの踵に、名前が書いてあって、それであの子があおいという名前だと分かった。青さんを思い出した。で、そこから思い付いたんだ。本当に、偶然だよ」
「度の過ぎた悪ふざけ……」青は呟いた。「ほんとに度が過ぎてる。あの子の兄がどんなに泣いたか分かってる?」
「殺したのは俺じゃない」
「あんたは闇町の人だからそう言うよ。だけど普通の人達にとっては、死体も人間なんだから。いじっていい物じゃないの」
「分かりますよ。俺だって生まれた時からここにいる訳じゃない」
「八羽島に謝って」青は不意に鋭く言った。「北泉。八羽島に謝って」
「どうして、こんな詰まらない罠にあっさり嵌まるんだ」北泉は八羽島をちらっと見て、悲しげに早口に言った。「お前は正真正銘のお人良しだよ。お前には呆れた。お前には本当に呆れた。ほんの出来心の、悪戯だったんだ。気付いてくれなきゃいいって、思ってたのに……」
次の瞬間、森谷が無言で北泉の首に腕を回した。いつの間にか彼の真後ろに来ていたのだった。木山が、待っていたかのようにすかさず、その腹に膝を入れた。北泉は声も無く体を折って座り込んだ。
「やめろって」青は驚いて叫んだ。
男達は構わず北泉に寄ってたかった。誰も、何も言わないで、体だけ動かした。誰かの手が北泉の首筋を後ろから掴むのが見えた。頚動脈圧迫。即死だ。
「やめてやめて、やめて下さい」青は机から飛び降りた。ここは闇町だ、と思う。時々、壁にぶち当たったように、それを思い知らされる。ルールを守れぬ者に、明日は無い。駆け寄ろうとして、引き戻された。青の腕を掴んだのは八羽島だった。
「おい!」八羽島はビル中に響き渡るかのような大声を上げた。「やめろって言ったんだ!」
皆は思わず振り返った。北泉は気を失っていた。
「後任に八羽島さんを指名しますから」青はいきなり泣き出した。あまり上手いやり方でないとは思ったが、他にどうしようも無かったのだ。「私が間違えました。ごめんなさい。八羽島さんに全権を委任します。だから北泉さんを殺さないで」
「何故、北泉を?」八羽島は思わず呟くように尋ねた。
「私だって子供ですよ」青は泣きじゃくった。「優しくされた方が嬉しいじゃないですか。それだけ、それだけです。それだけですよ。私はやっぱり馬鹿で、やっぱり子供で、やっぱり女だって、そう思うんでしょう、勝手に何とでも言えばいい。北泉がやましい奴だって知ってたし、八羽島の方が適任だって知ってた、知ってたけど、書けなかった……八羽島さん、私もう帰ってもいいですか?」
「八羽島でも駄目だよ」急に、木山が口を挟んだ。ぞっとするような、冷たい声だった。「この二人は、駄目だ。青さんがいなくなって真っ先に喧嘩した。人の上に立てる器じゃないんだ」
「では、誰を」
「あなたです」木山は屈み込み、正面から青の両肩を掴んだ。その力が強かったので、青は濡れた目を皿のようにして、木山を見返した。
「私もそんな器ではありません」青は掠れる声で言った。
「あなたでなければ」木山は語調を強めた。「この組織じゃ、あなたの次にできる二人がこの調子なんだから。あなたがいなければ成り立たない。放り出さないで貰いたい」
「私の知った事じゃありません」青は消え入るような、それでいて断固とした声で言った。
「そういうこと言うのか」
「何度でも言います。私はもう行きます。土のある所に」
青の顎の下に、冷たい、よく研がれた刃が当てられた。木山は凄んだ。
「誰のお蔭で首が繋がってると思ってる? 誰が今までお前を立てて、この組織が成り立つように協力してやったと思ってる?」
「あんたじゃない」と青は相手を睨み付けた。
「じゃあ、誰だ」木山が刃を当てる手に力を入れたので、青は息ができなくなった。「誰だ。お前がこんな所でそんな体でやって行けるように守ってくれたのは。お前の能力は認める、だけどその体と外見は誰も認めやしない。お前は一人でやってきた訳じゃないんだ。人の助けを借りて、人の上に立って、責任を背負ってるんだぞ。放り投げる気か。ふざけるなよ。自分の立場を何だと思ってるんだ? 誰が、お前をここまで生かしてきてやったと思ってるんだ? 答えろよ」
「知らない」青は喉に刃が食い込むのを感じながら声を振り絞った。「あたしが今思い出せるのは、阿成大介くらいよ――」
「やーれやれ!」
突然事務室の扉が、ぎこんばたんと勢い良く開いて、ちゃらちゃらした若者が入って来た。染めた金髪、よれた服、ピアス、腕輪、煙草の臭い。問答無用とばかりに足を振り上げ、木山の股間を蹴り上げる。木山は床に崩れ込んだ。
「……兄貴」青は若干の沈黙の後、やや疲れたように言った。「男はそういう事しないもんよ……」
「へえ、へえ。惚れた女の死に際に呼ぶ名が自分じゃないってのは切ねえなあー。ハナダさんよう。青さんよう。さん付けか。へっへえ。こいつら全員変態じゃねえのか?」
「あんたもでしょ」
「おっと、そう来たか」継優はぱしっと青の腕を掴み、ぐるりと事務室を見渡した。そして陽気な調子で「んじゃさいならあ、地獄でまた会おうぜつまり生きてる間は会いたくねえって事よ」と不要な解説を入れながら戸を蹴り開けて出て行こうとした。
が、その前に社員達はそれぞれの武器を抜いていた。ある者は近頃流通しだした最新の麻酔銃を、またある者は情け容赦も無い拳銃を。八羽島も拳銃を構えて、継優に向けた。北泉だけが伸びていて動かない。死んでいるのかも知れないと青は思った。
「撃つのか」継優は静かに、自分に向く銃口を一つ一つ眺めながら言った。
「青さんを置いて行く気が無いんならな」八羽島は言った。
「そんなものねえよ。じゃ、撃ってくれ」継優は馬鹿にしたように言った。
「下ろして」青は全員に向かって鋭く低く言った。「私の友達に武器を向ける気ですか」
「ここに残ってくれるね」八羽島は青を見据えた。
「できない」青は継優のシャツの裾を掴んだ。
「交換条件を出しているんだよ」八羽島は少し声を低めた。「その人を撃たない替わりに、君にはここに残ってもらう」
「いい加減にしてくれよ」継優がうんざりしたように言った。「ただの女の子じゃないか。超能力でもあるんならいざ知らず。俺にはただの女の子に見えるぜ。そろそろ解放してくれたっていいんじゃねえのかよ。だいたいよう、俺は体張ってここまで来たんだぜ? 恐れ多くもハナダ出版社の重役事務室に、部外者が侵入したんだぜ? それを何だ、どうぞこちらからお帰り下さいませませってのか? 冗談じゃねえ、そんなヤクザ屋さん聞いた事もねえ。さあ早く撃てよ。俺を撃てよ。交換条件なんだろ? 俺が死ねば青を解放してくれるって、そう言ったんだよなあ?」
「私が、残ります」青は口を引き結んで一歩前に出た。
「青。そんな義理じゃねえよ」継優は窘めるように言った。「くだらねえ。やめとけやめとけ」
「残りますから」青は下を向いて、床を睨み付けた。「未練があったんだよきっと。でなきゃこんな所へわざわざ謎解きになんか来なくても良かったんだから。無意識だったけど、残りたいとも思ってたんじゃない。兄貴、帰って」
「馬鹿か」継優は相手にしたがらなかった。が、八羽島達は静かに武器を下ろした。
「馬鹿は俺か?」継優は顔をしかめた。「何なんだよお前らは」
「ヤクザを舐めちゃ、いけなかったよね」と青。
「何か? お前はつまり、ツッパリを舐めてんだな」継優は、しかし、言葉とは裏腹に勢いの萎えた調子で言った。「そうかい。そうかい」継優はむつけた感じで言った。「そうかいそうかいそうかい。それで。今度は俺を切り捨てる訳だ。はあん。ハナダ青さん。残念だな」
青は黙ったまま、泣き出した。今度は本当に泣き出した。息も無く、声も無く、石になったように。ぼろぼろぼろぼろ涙だけ落ちて行った。
「どうせ友達だ」継優は言った。「何があったって友達さ。それでいい。それでいいんなら、いいんだよ。なら、また休日にでも、遊びに来てくれよな。お前らもなあ、あんまりこき使わないでやってくれよな。この通りのアホな子供なんだからな。一応俺の惚れた相手だしな。大事にしてやって欲しい所だな……それくらいだ」
継優はさっと背を向けた。
残念だな。
本当にね。
変身できると、思っていた。
何処かへ行きたかった。ここではない、何処かへ。自分を知る人のいない、どこか遠くへ。自分の知らないもの、自分を知らない人。
新しい暮らし。
洗われたような朝が、空が、欲しかった。
深い、深い、吸い込まれるような、青。
笛の音と風。川。岩肌の山。
土も、空も無い、この町で夢見ていた。悲しくなんかない。いつだって、こんな思いはしていながら、それでも泣かないで替わりに笑ってきただけだ。今になって泣かなくたっていいんだ。もっと辛かった時も、もっと悲しかった時も、俺は泣かずにやってきた、これからもやって行くのだろう。今この時間だけが急に辛くなった訳じゃない。今この言葉だけが格別に、寂しい言葉に思える訳じゃない。
「兄貴。気を付けて」
「おうよ。またな」
「兄貴」
何処へも行かないで。誰かが俺にそう言ってくれたのに。
「何だよ」
何でもない。誰でもない。俺は何処へも行った事なんか無い……。自分の居る場所に、自分が居るだけだ。何も切り捨ててなんかいない。人は、何処へも行けないのだ。いつだって、自分の居る場所に、自分が居るだけだ。
息ができない。
膝を折ろうとしたが、膝が何処だか、よく分からなかった。何も見たくない。涙に沈んでしまえばいい。
「青」兄貴が言った。「呼び止めといて、黙ってんのか?」
「グッバイ」
「何だ、それは」
もう会う事も無い。分かっているさ。
悲しくなんかないよ。
さよなら、だ。




