序
「土を踏んだ暮らしがしたいなあ」
それは敗者の言葉だ。
闇町に住む者は、土なんぞ踏まない。それどころか、アスファルトに覆われた地上すら滅多に踏む事は無かった。皆、高く聳え立つコンクリートの建物に閉じ籠って、その内部で暮らしている。隣り合うビル同士は幾本もの架橋で繋がれ、或いは一階おきにテラスのような発着場を設けて、近隣のビルから小型滑空機が飛んで来られるようになっていた。これは便利な乗り物だ。仕組みは誰も知らないが、エスターという商品名で知られ、闇町中を飛び交っている。両腕で抱える事ができる程度の重量で、まるで玩具のような外見だ。しかしちゃんと飛ぶ。酔狂な少年達はこれに乗って隊列を組み、無茶苦茶な飛び方をして警察に追われるスリルを楽しんでいるが、あいにく闇町の住人達にはそんな馬鹿げた事を思い付く暇も無かった。彼らはとかく忙しかった。地上に近い処にしか住まわせてもらえない駆け出しの者から、その道を極めて最上階に君臨する者まで、誰にでも時間は平等に与えられている。闇町で与えられるそれは秒刻みに区切られ、パックに詰められ、均質化されて配当されている。実際のところ闇町の住人は秒針の無い時計に実用性は無いと信じていた。町の中央広場に立つ大時計にすら、時報にぴったり合わせて回転する秒針が備わっているのだ。
この町で暮らすようになれば、誰だって地上に降りる事を疎むようになる。各ビルは一つ一つが独立した都市のように機能しているが、その中枢は十五階くらいと相場が決まっている。それより上は勝者の居住区であり、それより下はその他の人々のねぐらと、商店と、事務所と、ごみ溜めである。ビル間をつなぐ架橋は十五階付近が多い。エレベータも始終十五階あたりを上下している。エスターも、基本的には滑空機であるから、極端な上下移動には向かない。となると結局は、自分の足で階段を登るしかないのだ。「地上行き」というのが闇町では最も笑えない罰ゲームの一つだった。双六で負けた奴などをエレベータに乗せて地上まで送るのである。降ろされた奴は十数階分の階段を溜め息をつきながら登る羽目になる。
闇町に住む者にとって、地上は疎ましい、日の当たらない、しけた場所だ。華やかなのは十階から上。そこには活気と金が溢れている。闇町ではいまだに紙製や金属製の貨幣が流通していた。貨幣のあるところには取引があり、駆け引きがあり、血の臭いがあり、油断も隙も無い商人と、カツアゲと、スリがいる。そういう場所で、人々は秒刻みで生きている。闇町で上手くやっている限り、地上が恋しくなるなんて事はあり得なかった。物事は何もかも十階より上にある。地上にあるのは、埃とアスファルトだけだ。そして、土なんてものは何処にも無い。
土を踏んだ暮らしがしたい。それは敗者の言葉だ。闇町には土なんか無い。あるのは埃まみれの、しけた疎ましい地上だ。空の下で暮らしたい、とも言う。闇町には空も無い。ビルに貫かれた、スモッグの掛かった天井があるだけだ。
闇町に敗者は必要無い。そしてこの町には、必要の無い者が居る場所など無いのだ。誰であろうとも、負けを認めた時点でこの世から消える、それがこの町の法律だ。そんな風に消えて行く者達を、誰も気には留めない。例え明日消えるのが自分だとしても、彼らにはそれを恐れる暇も無いのだ。
土を踏んだ暮らしがしたい、それは敗者の吐く弱音だ。消えて行く者達が誰へともなく投げ付ける、精一杯の負け惜しみだ。冗談でも、無意識にでも、そんな事を口にする奴は、いずれ消え行く運命にある。
だから、ハナダビルの最上階に住まう十五歳の少女がぽつりと呟いた時、その場にいた部下達は一斉に吹き出した。お嬢様得意のブラックジョークがまた始まった。最高傑作だ。そう考えるしかなかった。それ以外の解釈は、どうしても許されるはずがなかった。
青はこぼれ落ちたように、それでいて噛みしめるように低く、口にしたのだ。
「土を踏んだ暮らしがしたいなあ」