1.プロローグ
ふと顔を上げると真っ暗な闇が広がる空間に俺はたたずんでいた。
足元の地面がほのかに光っているので上下の感覚はある。
目の前にまっすぐな道があり、どこかへ続いているようだ。
後ろを振り返って見るが、墨汁をぶちまけたような濃厚な闇が広がるばかりで何も見えなかった。
さらに左右の空間も一切何も見えない。
ここにいつまでも立っている訳にもいかないので、前方へ進んでみることにした。
歩きながら記憶を探り、なぜこの様な場所にいるのかを思い出してみる。
名前は……、佐藤祐也。
年齢は二十五歳。
一人暮らしで独身、ごく普通のサラリーマン。
……いや、正確にはサラリーマンだったと言ったほうがいいのかも知れない。
俺はさっき事故に巻き込まれた。
アパートを出てすぐの交差点で信号待ちをしていたら、暴走した乗用車に突っ込まれたのだ。
運転していたのは老人で、アクセル全開で突っ込んできたので避けきれなかった。
豪快に吹き飛ばされ、意識がなくなったと思ったら謎の空間にいたというわけだ。
おそらく俺は死んだのだろう。
あの状況で生きていられるとは到底思えない。
先程からびっくりはしているが妙に落ち着いてもいるのだ。
人間死んでしまうと案外度胸が据わるものなのだな。
まあ、死んだ時の事はとりあえず置いといて、前方に意識を向けてみようと思う。
というのは、目の前に一枚、立派なドアが出現したのだ。
もとい、ドアなんて表現は似つかわしくなかった。
荘厳な扉。
あの世へ通ずる巨大な扉が出現したと訂正しておこう。
扉は両開きで鏡のように磨かれた石でできていた。
薄っすらと光っていて暗闇でひときわ神聖な存在感を醸し出している。
表面には様々な細かい彫刻が施されていて、素人の俺が見ても素晴らしい出来なのは一目瞭然だった。
扉の大きさは一番上の彫刻を見ようと思うと、目一杯上を見なければいけない程巨大だ。
取っ手部分は見当たらない。
もしあったとしても俺一人の力では、到底開けることはできそうになかった。
他に入り口らしき物は見当たらなく、左右にどこまでも壁が連なっていて暗闇の中に消えていた。
しばし誰かが現れないか待ってみる。
五分、十分と時間が過ぎて行くが、誰も現れる気配すらなく、静寂が辺りを支配していた。
ふとこのまま誰も来ず、扉も開かずに永遠の時を過ごさなくてはいけないかも知れないと考えてしまった。
急に怖くなって俺は扉にすがりついた。
「すみません! 誰かいませんか!?」
必死に扉を叩きながら扉の向こう側へ呼びかける。
しかし、呼びかけに誰も応じてはくれず、俺の声と扉を叩く音だけが虚しく暗い空間に吸い込まれていった。
「あの! ここを開けて下さい、お願いします!」
一度怖くなるともう止まらない。
気が狂いそうな恐怖に押し潰されそうになりながら扉を叩きまくった。
しばらく盛大に騒いでいると、俺に応答するかのようにカチャリと扉が音を立てた。
それは扉の鍵が開いた音、まさしく希望の音であった。
思わず扉から一メートルほど飛び離れ、少しだけ腰を落とし身構えながら扉の様子をうかがった。
ゆっくりと音を立てながら巨大な扉が内側に開いていく。
真ん中からまばゆい一筋の光が差し込んできて暗闇を照らしていった。
(やった! 扉が開いたぞ!)
心の中で嬉しがりながらも警戒を解かずに前を見る。
やがて目一杯両側に開いた扉はピタリと動きを止めた。
恐る恐る中の様子を観察すると室内は巨大なエントランスだった。
床は鏡のように磨かれた大理石で、赤い絨毯が一筋敷いてある。
広い空間の一番奥に受付らしきカウンターが備え付けてあるのが見えた。
そこには女性が立っているようだ。
遠目で表情まではわからないが、どうやら敵意などはないらしい。
周囲を警戒しながら一歩ずつエントランスの中へ侵入していく。
両足とも中へ入っても受付の女性は微動だにせず、こちらが近づいてくるのを待っているようだった。
(入っても怒られることはなかったな、受付に行ってみようか……)
警戒しつつ歩みながら周りを見渡すが、これだけ広い空間なのに俺と受付の女性以外に誰も見当たらなかった。
不可解な状況に不安になっていく。
たっぷり時間をかけて受付に到着した頃には、俺の心臓は緊張と不安で早鐘のように鳴り響いていた。
「す、すみません。少し話を聞いてもらえませんか……?」
恐る恐る、遠慮がちに受付の女性に話しかけた。
「ええ、もちろんですよ。佐藤祐也さんですね、お待ち致しておりました」
受付の女性はうやうやしく頭を下げて返事をしてきた。
いきなり名前を呼ばれてしまい、びっくりして固まってしまう。
何故俺の名前を知っているのだろう、わけがわからない。
目を見開いてまじまじと女性を見てしまった。
「申し遅れました、私はイシリスと申します。ここで迷える魂に案内をする役目を致しております」
名乗られてからもしばらくは何も言えずに女性を見ていた。
一体彼女は何者なのだろうか。
段々と落ち着きを取り戻した俺は彼女をよく観察した。
眼の前の綺麗な受付の女性はイシリスさんと言うらしい。
黒のスーツ姿で真っ白なシャツ。
胸元にはシルバーに輝く名札がついている。
どこかの外国語で名前が書かれているようだが、当然のごとく俺には全く読めなかった。
プラチナブロンドで背が高い。
絶世の美女とは彼女のことを指す言葉だと思う。
瞳は青く澄んでいて頬がほのかに赤く染まっている。
唇は吸い込まれそうなほど艷やかで、肌は透き通るほど白かった。
果たして俺と同じ人間なのかと思うほどの綺麗な容姿に、思わず見とれてしまった。
しばらく見とれていたが、今の状況を教えてもらわなくてはならない。
俺は意を決してイシリスさんに話しかけることにした。
「あ、あの。すみません……、俺、信じてもらえないかと思いますが、事故に遭ってその……、死んでしまって……、あ! いやその……、何を言っているんだ俺は……」
しどろもどろになってしまい、何を言っているかわからなくなってしまう。
「大丈夫ですよ、落ち着いてくださいね。あなたが事故に遭って死んでいることも、今の状況に混乱していることも全てわかっておりますよ」
驚くべきことにイシリスさんは俺のことを全て知っているようだ。
「私が今からあなたが陥っている状況を説明するのでよく聞いてくださいね」
イシリスさんは、にこやかに微笑みながらゆっくりと、はっきりとした口調で説明を始めた。
「まずここは天国や地獄へ通ずる道の中間地点から、少々離れた位置にある場所です。私達は『時空の狭間』と呼んでいます」
静かに、透き通る声でイシリスさんは語りかけてくる。
「あなたは交通事故で死んでしまい、ここへ迷い込んでしまったのです。稀に、極稀に起こることなのです。本来あなたが来る場所ではありません」
「そうなのですか……、では俺はどうすればいいのですか? 出来れば本来の場所へ行く道を教えてほしいのですが……」
もう少し話をしていたい気もするが、俺が来てはいけない所らしい。
俺はイシリスさんに道を聞いて早々にここを出ようと思った。
「残念ながら、祐也さんは天国へも地獄へも行くことができなくなりました」
にっこり笑ってイシリスさんが答える。
衝撃的な新事実に俺は言葉を失ってその場に立ち尽くしてしまった。
なかなか面倒くさいことになってしまったようだ。
前途多難な未来に俺は頭を抱えてしまうのだった。